優しい男とセックスフレンド

 草食系男子ブームも一段落し森ガールも草食系関係なしにファッションジャンルとして独立して語られるようになって、若者の恋愛の傾向も微妙に変わってきた。いろいろな若い人たち、特に大学生から恋愛相談されるが、ちょっと気づいたので書いておく。なんに気づいたかと言うと

  • 気の合う相手の決定打がない
  • 優しい人ほどセフレをつくる
  • 人を救うための交際がある

の3つである。もちろん全員が当てはまる訳ではないし地域差環境差は大きい。

 相性、「気が合う」というのをある種の神秘のように我々は語りがちである。初めてあった人と気があって、気づいたら恋に落ちてしまった、というストーリーを今でも信じている人たちは多いし追体験した人も少なくないだろう。恋愛のつながりのエビデンスを我々の多くは相性、「気が合う」に求める。しかし、気の合う、の意味が徐々に変わって来ている。
 江戸時代までは恋愛と言えば不倫を指していたし、明治に入ると無理心中=恋愛であった。戦後に日本では恋愛する相手とセックスする相手と結婚する相手が同じ相手、という世界でも珍しい文化形式ができあがり、法律もそれを前提に婚姻制度が組まれ、変遷して来た。もしくは仕事が生き甲斐、のようなワークライフバランスの偏りや経済原理に則って交際関係を一人の人に集中すれば経済的であることや教育費がたかいことなど様々な要素が考えられる。文化的バブルの時期にはお金に余裕がある層を取り扱った不倫ドラマがいくつもつくられた。
 平成に入り離婚理由の中で高い位置に夜の生活関係のものがあげられ、婚姻関係におけるセックスレスと、性的な経験が浅い層にすら恋愛における体の相性が重要な要素として認識されるようになった。
 並行して進んで来たフォーディズムと消費社会化も重要である。人を判断するときに、「消費」は欠かせない。何を身につけているか、どう消費しているかが人格の判断に大きな要素であった。贅沢は無駄遣いの象徴であったし今は仕事ができる人は遊びがうまいなどと称されることもある。節制は堅実かケチかは時代や人の判断によるところであるが、メディアは消費を煽るためにケチな男を批判して来た。消費は奉仕の姿勢と相関すると考えらるようになったのである。
 しかし最近を見てみると、消費で簡単に人を判断できない状態にある。テレビが好き、スポーツが好き、音楽が好き、アニメが好き、ゲームが好き、ファッションが好き、ある程度金を出せばいくつも簡単に手に入れることができ、そこそこの話術さえあればどんな内容でも面白く話すことができる。その中で人は他者に承認してもらうために他人と自分を差異化しようとよりマニアックになっていこうとするし、コンテンツもより多様化細分化テンプレ化して行くことは以前指摘した。ここでは若者の恋愛の話をしているので、成熟したマニアックすぎる人は想定していないし、そういう世界で戦ってる人は恋愛市場に参入しないパターンも結構見て来た。
 また相性を測るための<人格>も拡散している。ゼロ年代ソーシャルネットワークサービスの発生と派生。SNSをいくつか使っている人たちなら、mixitwitterfacebookなど出している顔が違うことなど様々な人が指摘しているし、ユーザがキャラを統一しづらい状況が進んでいる。人格なんてどれが本当かわからん状態が進む。本当の自分探しが進む。
 いろんな属性嗜好人格と、複雑な情報が可視化された結果、総合的な判断を行うより、いろんな要素のどれか一つあう方ことを強調した方が円滑にコミュニケーションは進む。4、5個要素があえばもう相性がいい友達、である。相性の良さは簡単に作り出すことができるようになったし、相性をあわせることが簡単であれば、あとは人との出会いの流動性次第で簡単に恋愛は成立する。逆に流動性が低い中しか恋愛は成立しないし、流動性の高い(出会いの多い環境での)恋愛においては何をベットしたかが大きな要素として働く。

 若者の博愛主義化が進んでいると言う。好きな相手であれば別に付き合ってなくても一夜限りの関係やセックスフレンドとして関係を持ち続けるそうである。もしそうだとしても、それはいつの間にか規範化され、少年漫画で大事にしてきた、何かプロジェクトを成し遂げ、好きな人に告白し、結ばれる、というプロトコルを踏める人が限られていることに由来するとしか考えられない。大学生なんかに自己が成長し恋愛に影響するようなプロジェクトなどめったに与えられない。この相手を救おうとしてそのうえ好きかもと思える相手との相性はいいと思えるが、本当にこの相手でいいのか、常に不安がつきまとう。
 何か大きなモノをベットできる環境も相手もそうそういないのである。そうすると不思議なことに自己肯定感の低さからか、このことについて交際相手に申し訳ないと思う若者は多い。お互いに「付き合って」と言うことに躊躇するのである。もしくは付き合っている状況に不安や申し訳を感じる。「もしかしたらもっと相性の良い運命の人がいるかもしれない。相手もそう思っているかもしれない。自分でいいのか自信がない、束縛するのはおこがましい」自覚的か無自覚かは別だがそんな感覚が若者にはある。それが臆病とも言えるし優しさとも言える。なので付き合うことには躊躇しつつも、やっていることは恋愛の様式、というパターンが増えているように感じる。旧来のセックスフレンドのように、お金に余裕ができた管理職クラスが愛人を囲ったり、都合のいい相手に都合の良いタイミングで呼び出され、ことをすませて終わり、と言うドラマのような関係は前時代的で、いまや一部のメンヘラが自尊心を維持するか自傷行為の代わりにセックスを行っているだけにすぎない。
 セックスフレンドと一緒に食事に言ったり、ディズニーデートをしたり、ドライブに行ったり、嫉妬をしたり、足りないのは「付き合ってください」という儀礼や「付き合う」という契約なのである。
 では付き合うと言う契約はいつ行うか。その不思議なことにこれらの優しい人たちは優しさを発揮できたときに、付き合う。先ほど言ったプロジェクトを成し遂げたときなのだが、これがまた変わっている。精神的に安定しない子が泣いているときや、失恋の慰めの代わりに「俺が付き合うから」というパターンが散見される。俺がいるから、俺がお前を支えるから、と言うタイミングに告白する。それが一番お互いの承認を満たせるタイミングであり、場合によっては恋愛の様式で付き合っていたセックスフレンドすら切って別の恋人と付き合ったり結婚したりする。
 彼らは人を救いたいのである。社会貢献意識や学生運動マインドの延長で、長い期間、人生の一部を賭けて人を救おうとする。しかし、社会貢献と違うのは、相手と二人キリの関係、共依存関係を結ぼうとする。冷静にそういう状態じゃないか?と問いかけてみると、確かにそうだ、少しおかしい気がする、と抜け出そうとするのだが、彼らにとって恋愛が人を救うプロジェクトでフロー状態である以上なかなか客観的に自分を見れず、常に違和感を抱えながら恋愛をし、衝動的にわかれと出会いを繰り返す。
 まだまだそういうクラスタがいると気づいただけなので経過観察を続ける必要があるが、付き合う、の意味が変わった世代が存在することを受け入れ、その意味がどう変わったかを生暖かく見守っていく必要がある。

萌えと寛容-C82参加記録-

 夏コミ3日目に参加して来た。忘れないうちに簡単にメモ。
 ツイッターでオタク研究家を名乗りだして2年、その実最前線でオタクとして情報戦を戦うことを離脱したただのヲッチャーなのだけれど、オタクが変わったと言うよりはオタクを取り巻くものが次々と分析され徐々にデザインとしてブラッシュアップされているのであるなーと感じる。企業ブースなどは売り物だけでなく売り方までちゃんと考えて作られているし、コスプレも無理矢理ガムテープで谷間つくって女子同士で触りあったり、スク水の下に縞パン履いちゃう、くらいにこれでもかと言うくらいにブヒり要素を突っ込んで来てこれって素直に興奮していいの?と考えさせるほどであった。
 それから商業的経済学的な力学は強いなと思うのである。万単位で生産される「限定版」とか、欲しいものを手に入れるためのチーム戦や情報戦など、その力学が、楽しみ方の幅をこれでもかと言うくらいに増やしているし、とはいっても従来的な楽しみの発想から飛び抜けるようなアーリーアダプターなヲタ層もまだ少ない。

オタクはエコノミックアニマル

 コミケは生き生きしている。多分それは普段抑圧とか阻害とかにさらされているヲタにとっての、あらゆる欲望の解放区であるからという形でよく語られるのだけれど、ある種の規範からの解放と自分達でルールを作り自分達で守ると言う承認のマッチポンプが程よくデザインされた場であり、そこで創作や消費を行い、それとお金を交換できる究極の市場であることが大きい。マジで自分の利益に対し合理的に働いている数少ない市場だ、エコノミックアニマルここに極まれり。
 そもそも「萌え」という言葉の浸透が大きい。変遷をたどると、元々NHKの恐竜アニメの主人公の萌えチャンに対しての、当時はブヒり言葉の一つとして派生したというジュラトリッパー説から始まり、可愛い以上性欲未満を表す言葉としてあった「萌え」は、ゼロ年代半ばから、次第に可愛くて性欲を喚起する記号としてテレビに取り上げられ一般に普及し今に至る。この勘違いが大きい。
 「萌え」は記号であり、記号はデータベース化される。昨今のコンテンツでは、女の子が出てくる作品で中高生〜青年向けのものであれば、どの作品もかならずユーザが気に入る女の子が入るよう計算されてキャラ設定がなされている。作品論を語りたいのではない。
 これがよりマスな商業主義に載ることで、ある種「萌えるよね?だから買ってね、好きなだけ萌えていいから」という寛容の構造を生み出した。ある種の欲望の喚起がデザインされ、欲望の解放をお金と交換することで包摂する。このキャラ可愛いよね?グッズ揃えませんか?というメッセージが強力に発信され、それらを持っていることがオタクの世界やそれと親和性のあるネットの世界ではある種のステータスとして機能する。別に萌えに限らずともコンプガチャの流行だってこの仕組みがうまく取り上げられ、かつ参加の敷居が下がったことが大きい。拝金主義と思うなかれ、安いお金で承認が買えるのであればそれは社会が豊かな証拠でもある。

コミケと第3の波

 コミケは普段マイノリティと思われるオタクたちが主役として活躍できる場である。誰しもがコンシューマーとして、誰しもがクリエイターとして参加できるようになっている。同人誌でも、グッズや製作物でも、コスプレでも、売り子であり買い手としても参加する姿は古くから見られる。技術の発達によりその参加人口は年々増加しているし、最近の一眼レフカメラの流行もあって、カメラぶら下げてコスプレ写真撮られて少ししたらカメコに回る、みたいな楽しみ方をしている人たちが割と沢山いる。これらのプロシューマーとしてのコミケ参加者が年々徐々に増えて来ている印象で、買う側と売る側、と言う単純な構造ではもう語れない。
 この誰でもちょっと訓練すれば売る側に回れる、という逆転の可能性がコミケ参加者にもたらすものは大きい。ヒエラルキーは場に宿り、コミケの場のヒエラルキーではクリエイターが一番上に来て、その次に情報に強い人たち、そして買いに走る人たち、がくる。普段学校や会社のヒエラルキーの中でそこまで目立たないオタク達があるジャンルの貴重な情報を得たり、作り手に回ることで自分の部屋にしかなかった王国の領地を増やせるどころか一攫千金のチャンスさえも開かれている。いわば少し訓練して発想を形にするために最低限テキストさえ打てれば逆転を目指せる場、という側面もコミケは有するのである。しかも参加者の母数が桁違いなので、参加して間もない状態で予想以上に売れると言うビギナーズラックも存在するとかしないとか。
 

中くらいの物語

 10万人単位で現実に同じものを求めて人が集まる場は、いまや地方の花火大会なんかの祭りか音楽フェスかコミケか、特例として教育現場くらいしか存在しない。その中でもフェスやコミケは趣味という内的動機付けのために集まった同志がいて、それぞれが自由に消費しながら大きな市場を形作る。大きな市場によるおおきな収益は国にも(例えば税金や特需などの)富をもたらすことで歓迎される。最近は大手企業もブースを出展し、売り上げ総額は数百億と言われ、その数パーセントが税金として入ってきても数億円の税収が見込める。
 国ほどの大きな共同体を動かせる訳でもないが、個人個人の志向があつまって相当数の人たちが逆転の機会を手にする、いわば大きな物語でも小さな物語でもない、中くらいの物語がそこに存在する。ヒッピー文化と形容するのは語弊があるがある種の自由と解放と逆転への期待がまだまだ存在する場として、これからも大きくなって行くだろうし、オタクの社会的な認識も徐々にまた変遷をたどるだろう。
 余談だがコミケ会場やコミケ後の秋葉原には子連れの姿がちらほら目立った。徐々にオタク文化が家族で楽しむもの、として形を変えてくるころだと予想しておこう。


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サブカルクソヤローがなぜむかつくのか-あるいはオタクとニャル子とディスタンクシオン

 ヒエラルキーは場に宿る。例えば学校という場は勉強をする場所であるにもかかわらず、いかに勉強以外のことをうまくこなせるか、という独特のスクールカーストがあり、それは学校ごとに微妙に異なる。
 遊べる本屋でおなじみ、ヴィレッジバンガードにいけば、これでもかという具合にサブカルと呼ばれる、エログロで違和感しか感じなさそうなグッズが所狭しと置かれており、この空間ではこの名状しがたい意味不明な感じ(サブカル感とでも言おうか)が支配している。そこにはよりサブカル感の強いものや大衆文化っぽくないけどマニアックすぎないものたちが良しとされる評価軸が存在し、店に入ったとたん、その空気に支配される。
 新宿以西の中央線沿いの街を歩くと、同様に独特の雰囲気を感じる。裏道沿いにレゲエな服屋やグッズ屋が並んでおり、人によっては「私は世間の価値観と違うところで生きている」と言わんばかりの顔で若い子から大人まで品定めをしている様子が見て取れる(もちろんそんな人が大半だという話ではない)。
 他にも、休日に美術館に行けば、なにかしら一般的な染まってない私、を主張しているような顔の人間が沢山いるし、原宿方面に行く電車に乗れば、頭に大きな華をつけたお嬢さん達が、なぜ自分たちの美醜ヒエラルキーは世間にうけいれられないのか、といわんばかりに不安とも疲れともとれないぶすっとした顔をして立っている。スタバに行けばMBAを開いてノマド顔している人たちがいて、コワーキングスペースに行けばフリーランスや起業家達がひたすらmtgのための資料を作って忙しさをアピールしている。facebookを開けば社会起業家や貧困学生を応援するページにいいね!がつき、ビジネス誌を開けば肩書きのすごそうな人が若者の○○離れについて詩のような表現を使いながら解説し、大学に行けば学生達が勉強に染まっていない俺、を主張する。

消費の裏に隠されたメッセージ

 購買/消費/いいね!という行動は消費対象そのものに投票・応援するという側面と同時にそれを購買/消費/いいね!した人が意識的無意識的に関わらず卓越化される側面がある。卓越化とは差異化*1により人と一線を画そうとすることで、例えば、「よくあるファッションだけれども自分のブランドは他の安物と違う」とか、例えば「j-popだっせえ、聞くなら洋楽だろjk」と言った具合だ。これを社会学者のブルデューディスタンクシオンという言葉で表した。もっとも著書での言及はこの記事の文脈とは違うのだが。
 芸術や文化を消費するとき、必ずその背景には文化資本がある。お金持ちはお金持ちの文化背景を持った状態で絵や音楽を聴くし、物語を楽しむ。例えばオペラや歌舞伎やバレエの舞台は、値段設定的にも主にブルジョア層のためのものとなっており、一般層が見ても何を楽しめばいいのかわからないことが多々ある。逆に言えば同じ絵画や音楽と言う対象でも楽しみ方の違いが、階層(この場合は財産)の違いを顕著にし、差異化させ卓越化させてしまうと言う話だ。

 あなたが嫌いなサブカルクソヤロー達はいつも、サブカルグッズやある種のオタ向けグッズを、それを愛しているからという理由で購入している。「それを愛しているから購入している」と語る反面、それを集める自分は他のオタクやサブカルユーザと違うのだ、というメッセージががんがん臭ってこないだろうか?オタグッズを購入している以上、「あなたとは違うんです!」は意識的無意識的に関わらず働くし、それをブログやツイッターに書くことで嗜好の発露と卓越性が顕在化する。オタクやサブカルクソヤローは現代における文化的ブルジョアジーである。

卓越化を嫌味なくできるサービスは流行る

 サービスとしてユーザであることがステータスになるものは昔から存在した。車だの家電だのは高度経済成長期にステータスとなるわかりやすいプロダクトであったし総中流時代を経て今やインフラである。車なんかはその代名詞だった割に売れないから若者の車離れとかいって乗ってる車で差異化卓越化を果たして来た世代から総バッシングである。なぜ売れなくなったかと言えば簡単で、不況や失業率報道で長期的な借金への不安が大きくなった。しかしお金ないけど自分をそれなりに他人と区別したい欲求は衰えてない。お金かけなくても自分をアイデンティファイできるもの、卓越化のためのプロダクトがハードからソフトへ、モノからウェブへ舞台を移した。最もわかりやすいのがFacebookのいいね!だろう。mixiの足跡やいいね、女子高生達のブログのペタとはちがい、誰も得しないのにそのサイトをいいね!と言っています、は共有される。like!と発することで応援と差異化が同時に行われ、その蓄積が他者との卓越化に繋がる。後は儀礼的無関心然り、儀礼的無邪気を装えばfacebookが応援に擬態したセルフブランディングツールとして意識的であれ無意識的であれ機能する。このいいね!の共有が、少なくとも日本のfacebookの流行にもたらしたモノは大きいと考える。食べログcookpadもyahoo知恵袋もはてなスターもみんな同じだ。
 <所属>はどうだろうか?消費と生産という構造の違いはあれど、ソーシャルもNPOノマドも起業もエヴァンジェリストも、名乗る/繋がることが同じ側面を持つ。彼らは差異化/卓越化/そしてヒエラルキーの逆転のためにそのコンテンツや団体を応援したいし参加したいし、そのコミュニティに属せればその活動の効果は2の次3の次なのだ。逆にその側面をうまく制御し、広告業界はよりディスタンクティブなプロダクト/サービスをプロモーションして来たし、差異化欲求を喚起して来た。そして舞台がウェブに移った昨今では卓越化のためのインセンティブをうまく設計できたFacebookのようなサービスこそが成功してきたし、サービスに限らず、この人とプロジェクトをしたことがある、と言うことがステータスになるような<ブランド力>がある人はビジネスの世界では引っ張りだこである。

オタク的な売り方はこれからも増える

 弱い結びつきのコミュニティが増えたり、利害関係が少ないコミュニティが増えた昨今でも、古くからルールが変わらないオタクコミュニティのようなコミュニティでは、同質性の集まりであるにもかかわらず他人と違うことをアピールして一定の地位を確保しておく必要があるというコンフリクトを抱える。またポストエヴァンゲリオン以降は様々な理由や要因でオタク化したい若者達も増えており、いわゆるにわかや新参のためのコンテンツの需要が高くなっている。そして古参オタクと同列の世界で争えるよう、より卓越化のしやすい大量の美少女が出てくるアニメが流行し、データベース化され、どのキャラが好きかを一生懸命語りあうコミュニケーションが隆盛する。ライトノベルに始まり、ジャニーズでもAKBでも、テニミュでも、k−popでも同様だ。彼らは既存のオタク市場のパイを分け合うのではなく、新参を増やし投票のようなシステムで競争させながら消費させることで、マーケットを大きく広げた。
 オタク的な売り方に重要な要素はいかにテンプレートを踏襲するかである。ひとつは長いタイトルのラノベが流行したときからの傾向が顕著であるが、幼なじみ、妹キャラ、金髪ツインテ、異常な権力を持った生徒会でお嬢様の先輩などといった、テンプレート化されたキャラクターをいかに並べ如何に典型的な言葉をしゃべらせるか。生まれたときからゴールデンで過去のアニメの名言が出揃った番組を見せられて来た世代のオタク達は名言をいかにアレンジして再現するか、を消費する。あずまんはこれをデータベース消費と命名した。
 もう一つはキャラではなく物語の要素や台詞としてのテンプレートである。特撮、軍事、鉄道、アニメが隆盛を極める前からコンテンツオタク達の世界は深く広かったわけで、それらの要素を寄せ集めて埋め込むことで、アニメの楽しみ方は台詞や展開そのものを笑うのでなく、どの台詞や展開をどこにつなげて笑うか、どんなオチへもって来たかの妙を笑う形へと変わる。宮台真司氏はこれを楽屋落ちと表現したし、エヴァまどか☆マギカも、批評の世界では何を参照しどうテンプレからずらされているか、ばかりが語られていた。わざと過去の作品の要素を突っ込んでいるとわかっていても、なぜその作品のこの場面にその台詞や要素を突っ込んだのか、皆わかっていながら真面目に語るし真面目に騙されようとするのである。それが作法なのである。
 

これからのオタクの差異化

 ブルデューの言う差異化の意図は、生まれや資産規模で縦に格差や越えられない壁を見いだすことにあった。本エントリーで扱ったのは、どちらかといえばテリトリーを横に広げながら、そこに優劣を見いだそうとする傾向がオタク達には顕著であるが、一般人にも実はその振る舞いが普及しているよねと言う主張である。もう最終回を迎えてしまったがニャル子さんのような、既存の萌えキャラデータベースと、一部の層に人気があったクトゥルフ神話と、展開も他のマニア向けの要素をネタばれwikiができるほどに詰め込んでかけあわせた作品は、いわば次世代の王道である。(そして売り方としては邪道である)。ウルトラマンシリーズと仮面ライダーシリーズとガンダムシリーズマクロスシリーズとラノベ発アニメ群とゲームハードとエロゲと格闘ゲームのテンプレと秋葉原の地理といくつかの神話とを知っていなければ全てのネタを楽しめないし、一つでも知っていればアニメを楽しむこともできる。それらの埋め込まれたネタを確認し、選択して笑い飛ばすことが、新しい消費の仕方であり、コンテンツとしての新しい価値として機能する。
 ネットワークインフラの整備が加速し、コンテンツを消費して行く上では、それらの臭いの強さを、我々は受け入れて行かねばならない。コンテンツの価値はいかにいいね!することにプレミアがつくかに偏って行くだろうし、いかにマイナーでクオリティが高いモノを発見するか、というヒエラルキーの界が発生する。はてブつかうのも思想地図読むのもアニソンDJのクラブに行くのも、ニコニコ見るのもみんなディスタンクシオンだ。

 大手の広告代理店は、いろんなプロモーションを用いてこの手の欲望(主に購買衝動)を喚起して来たし、欲望の形は単純であった。しかし、CMもコーラとイメージと歌を並べれば良い時代はもうすぐ終わる(もちろんプロダクトが何かによって相性があるのだけれども)少なくともwebと連動するようなコンテンツをプロモーションするためには、喚起すべき欲望の構造の転換が求められているし、どんな形に転換すべきかは業界も悩んでいるところだろうし、購買と投票が結びつく構造と言うのはある種現代的な欲望構造として正解の一つであったのだろう。


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*1:積分という文脈でこのエントリではこの言葉を使う

<みじめ>と不自由のトレードオフ

最近は人のネガティブな<感情>がどのように湧き出てどのように語られどのように処理されるかを考えているのだが、いくつか思うところがある。
一つは感情は身体から独立できないということ。例えば女性の場合PMSによって憂鬱や感情の起伏が激しくなることは知られているだろうし、体が元気なときは飯も美味しく感じるというのは典型的なそれだろう。病は気から、のように、感情が身体に与える影響ばかりが語られやすいが、本来は逆で身体が感情に与える影響の方が大きいのではないかと考える。
もう一つは身体は環境から独立できないと言うこと、ここでいう環境は物理的なものも、他者との関係や<視点>からも含む。この時期になると高気圧や低気圧、それによる天気や気温や湿度があなたの身体に及ぼす影響は心理に大きく反映される。また、同じクラスタ同士で結びつくコミュニティは非常に心地が良い。これは逆にいえば、いろんなクラスタが混じりあうコミュニティや社会は、相対的に心地悪さを発生させる。
これは、他者の視線ー評価が複雑になればなるほど人は息苦しさを感じるのではないかと考える。例えばあるヲタがヲタとつるむと、そこにある視線ー評価は卓越化された知識の質や量であるが、しかしヲタが大学生とつるむと、途端に単位を取る容量の良さやある種のコードを用いない会話運びの面白さ、服装や体系や容姿などの視線ー評価が表れる。学生という日本では比較的誰しもがなりやすい立場になることで、コミュ障や萌えブタといった人によっては劣等感をあらわす感情(=<みじめ>)が発生する。
 我々の心理状態やそれを言葉で表した<感情>は、身体の状態や立ち位置によって大きく左右されるのである。

<みじめ>の発生条件と学校

 <みじめ>が発生する条件は2つと非常にシンプルである。一つは他者の視点(ー評価)の存在、一つはスタートラインの共有である。孤独(ーしばしばこの言葉にみじめが埋め込まれていることもあるがここではラジカルな一人の状態を指すー)では<みじめ>さは感じることができない。
 前述したが、人はいくつものコミュニティに所属することができ、コミュニティには必ずヒエラルキー(、評価軸、プライオリティ)が埋め込まれている。このコミュニティの垣根、もっというとコミュニティのような小世界との物理的な垣根が無くなれば無くなるほど、人は見なくてよかったものが見えてしまうし、見えてしまうとその評価にさらされてしまう。不自由が<なくなる>と人は無理矢理にスタートライン(=立ち位置)を共有することとなり、劣等感と優越感に苛まれるのである。
 一番不自由をなくしみじめを増長した例としてわかりやすいのが学校であろう。100年以上前の学制頒布以来、貧困な家庭の子どもが児童労働に従事せず、裕福層とともに学ぶことができるようになった。100年かけて制度も格段に整備され極少数の異例を除き、義務教育で学校に通った子供達の識字率は99.9%を越える。
 世界では字が読めても書けない人たちが山ほどいる中で、驚異的な数字である一方で、体力のあるなしで優劣が決まり、テストの成績や漢字が読める読めないで優劣が決まり、進学先の偏差値で優劣が決まるように時代は変わっていった。学校教育がインフラとなり皆が共有するスタートラインとなったことで<みじめ>市場が国民の数だけ拡大し全国民が参入することとなった。
 

ふすまから壁へ

 同様に恋愛とみじめの関係もそうであろう。建築様式が変わり平屋から戸建てやマンション/アパートがこれでもかと立ち並び、空間を遮るものがふすまから壁へ転移する。
 これにより既存の地縁コミュニティは希薄化した。子供達には一人一部屋与えるような家庭も増加したであろうし、子供やマンションの隣人が何をやってる人かもわからない環境が整備される「個人化」の結果、倫理や秩序を望むようなある種の特定の視線が見えづらくなり、近所の人たちが知らないフリをせずとも自由に恋愛や不倫が可能となった。
 そして資本主義は偉大だ。バブルの消費傾向と重なって、健康な四肢とお金を持っていれば誰でも共同幻想たる恋愛の様式を経験できるようになった。就職の売り手市場にによる雇用の安定とこれらの物理的環境の変化が恋愛におけるスタートラインの共有を可能にした。
 そして他者の視点の存在、従来の家族からの早く結婚しろと言う圧力が弱まった一方で、恋愛至上を盛り上げようとメディアからの煽りが加速する。ホイチョイプロダクションのようなドラマと消費を結びつけるようなPRが横行し、ホットドッグプレスのような恋愛ハウツーは枚挙に暇がなく、いかに従来の恋愛様式を破壊して恋愛行動を卓越化できるかが焦点となる。
 インターネットではそうした話題が共有され「〜ですら恋愛していると言うのにお前らときたら」といった他者の視点が発生した。あとは皆さんお分かりの通り、恋愛市場は複雑化し、優劣の順位の加速が進み、草食男子のような恋愛至上に参入しないクラスタが発生し、その一部はネットの仮想空間に逃げ込むことになる。
 ネットは情報との出会いをデザインするものである以上出会い系としての側面を常に持ち、今度はネット恋愛のような様式を用意しさらに恋愛市場の平滑化を加速する。身体が恋愛適齢期から抜け出さない以上、恋愛における<みじめ>さはどこにいってもつきまとうのである。

<みじめ>と不安

 <みじめ>さは不安を増長する。スタートラインが共有されている以上、統計的にはせめて平均的でありたいと言う願望と他人と差異化された自分でありたいという願望がコンフリクトを起こす。
 学業においてはクラスでの成績は平均より少し上でありたいが目立ちたくないという願望と、最終的な学歴や偏差値は高いものでありたいという願望が併存する。恋愛においては、恋人がいないとなにか人格に問題があるのではないかと思われるのではという不安と、恋人は欲しいが誰でもよい訳ではないという願望が同時に存在する。
 そうした<みじめ>さの構造は、常に人にストレスを強いながら人を克服の方向へ向かわせる。過去に比べ不自由のない環境が整備されている以上、それらの願望を満たす方向へと動かない理由はない(と自己啓発書達は声高に叫ぶ)。そして(ここが問題なのだが)人々はそれを承認欲求と取り違える。
 承認問題とはすなわち、承認欲求として認識された恋愛は、みじめを社会でなく個人の問題として内在化させる。個人の問題となると、相応の自信とテクニックを持った人間同士でないと幸福感は瞬間的な作用しか及ぼさず、不安の払拭としてしか機能しない。
 すなわち不安の材料となる<みじめ>の根本的な構造が変わらないので、恋愛結婚なるものがその<みじめ>を感じるコミュニティ(=恋愛市場)からの離脱のためにしか作用しないことになる。結婚による祝福や承認を受け、恋愛競争から離脱したかと思えば今度は子育て競争がはじまる。常に焦燥感を感じながら、一生優劣を求められ卓越しなければみじめにさらされる環境にゆく。一億層中流という標語はそういった意味で凄まじい解決方法だったのかもしれない。
 我々の心理状態やそれを言葉で表した<感情>は、身体の状態や立ち位置によって大きく左右される。歴史は身体を自由にする方向に進む。身体の状態が不自由から解放され続ける限り、スタートラインを強制的に共有させられ、<みじめ>にさらされる可能性は高くなる。

<みじめ>か不自由を選べ

 ここまで見てくるとわかるのは、人間には優劣があることを前提とし、その優劣が<みじめ>に繋がるのは無理矢理同じスタートラインに立たされるからだ、と言う話をしてきた。生まれながらの優劣や、優劣に大きく影響する環境要因ももちろん存在するし、その多くが格差と言う言葉で語られて来た。
 不況が長引いたことで格差問題などを解消しようという動きや言説があちこちに見られるようになって来たが、これもひとえに<みじめ>を解消するために優劣の幅を小さく、努力すれば越えれるものにしようというモノに他ならない。もっと突っ込むのであれば、スタートラインを同じにしてチャンスを平等に与えようと人は言う。
 解消のためにどうしたら良いかと言うのを相談されることもしばしばある。その先に待っている世界がどれほど残酷なものかを想像したことがあるだろうか。
 人それぞれ向き不向きはあるはずなのに、スタートラインが共有されているということは、言い訳ができず、成績の善し悪しやスペックの善し悪しはほとんどが自己責任に回収されてしまう。「学校はちゃんと機能している、努力しなかったお前が悪い」「努力したはずなのに結果が出なかった。誰かボクの努力を認めてよ」と、子供は承認の監獄に入らざるを得なくなる。
 結局相対的に能力のない者は<みじめ>か不自由のどちらかを選ばなければならない。不平等が是正され、不自由の選択肢が少なくなりみな<みじめ>を選択せざるを得なくなる。

格差は本当に問題か

 格差は本当に問題なのか、もう一度問わなければならない。問題はそんな統計概念に収束するものではない。考えるべきは貧困と階層の流動性のなさ。能力でもお金でもいい、ないならないなりに少量の支援さえあれば、心地良く生きれるコミュニティがあったはずなのに、世の中はそこへの定着を許してくれない。
 注意しなければいけないのは「格差」は<みじめ>による共感と協賛を集めるスローガンでしかない。オタクが社会性など求められず本来のオタクコミュニティに潜んで集まりながら自分の嫁をぺろぺろし続けるほうが<みじめ>のない心地が良い生活ができるだろうし、恋人達はとても仕合せそうに手をつないで歩いているようなまるですべてがうまく行っているように感じれるデート競争のない二人の世界を作り上げた方が(幸福かはわからないが)心地がよい関係であることは間違いないだろう。競争にさらされた末に語られるような、他人に自慢できる彼氏かどうかなど二の次にすべきなのである。
 過度に自由にさらされてしまった以上「自由からの逃走」と呼ばれる状態が発生する。そうして競争からの離脱とコミュニティ化によるヒエラルキーの再構成を繰り返しながら、<みじめ>は常に再構成され続ける。これらを打破するために時に自己啓発が必要とされ、時に救世主が必要とされ、時に戦争が必要だと叫ばれるのである。
 
 

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子供手当総額2超7千億円、35人学級3000億円

文部科学省が少人数学級に移行したいという発表を行ったことで、少しだけ話題になったのだが、常々話題になるのがその予算についてである。

社説:少人数学級 参加型教育への契機に 文部科学省中央教育審議会の提言を受け、1クラス40人が上限の公立小中学校の学級編成基準を引き下げ、それに見合う教職員の増員計画を来年度から段階的に進める。

 引き下げは45人から現行にした1980年度以来だ。文科省は新基準に35人を想定し、小学校低学年には30人学級も検討する。

 試算では4万5000人の教員増と新たに毎年3000億円の人件費を要するという。財政状況が極めて厳しい中、財務省との折衝や与野党間の調整などに曲折も予想される。

http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/archive/news/20100720ddm005070005000c.html

 学校の現状は以下だという。

子供たちと向き合う時間がとれない

 「40人学級では、大変厳しいのが現実といわざるをえない」

 東京都江東区立明治小学校の神山安弘校長は、こう話す。

 同校は1〜6年まで、すべて40人弱の学級編成。音楽などの科目や算数の少人数授業を担当する教員や校長・副校長以外は、全教員が学級担任をしているが、毎日が精いっぱいだという。

 来年度からの新学習指導要領を先取りして、授業量は増えている上、保護者の応対など、ただでさえ教員がやることは多い。それに加え、低学年では、トイレを1人でできないなど、日常生活の基本も面倒を見てやらなければならない子供もいる。学校が都市部にあるため、「不審者がいる」「学校にカメラを向けている男がいる」などの情報があれば、飛んでいく。

 「このままでは、子供と向き合う時間がとれなくなるという不安に、常に悩まされている」

 神山校長はこう訴える。

 60人学級も存在した昭和の高度成長期に比べれば、いまの40人学級は恵まれているという見方もあるが、昔とは教育現場は大きく変わっている。子供一人一人の学習状況に応じた授業が求められ、体罰はもちろん、「廊下に立っていろ」と叱(しか)りつけることもできない。保護者の関心の高さも昔とは比べものにならない。神山校長は「時代が変わっている」と強調する。

http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/archive/news/20100720ddm005070005000c.html

 文科省は「日本は教育の公費負担が少なく、学級規模も大きい」という見方。確かに、経済協力開発機構OECD)の統計によると、1学級の児童生徒数は小学校が平均28・1人、中学校が33・0人で、それぞれ国際平均の21・4人、23・4人を大幅に超えている。米英仏独の主要国はいずれも26人以下で、やはり日本は学級規模が大きい。

 しかし、「教員1人当たりの児童・生徒数」は実は他国の平均並み。小学校が19・0人、中学校が14・8人で米英仏独ともほとんど変わらない。

 要するに、教師1人1人が行っている週当たりの授業時数が少ないことになる。こうした点からみれば、単純に教員を増員すればいいか疑問が残る。

 戸田教授は「ただ量的に先生を増やすということではなく、よい先生を増やすことには国民も賛成するのではないか」と話す。

教師が楽したい? 問われる日教組と政治の関係

 「学校現場には、教師を増やして、楽をしようという傾向があった」

 ある元校長は、こう明かす。この元校長によると、わざと1学級に多くの児童・生徒をつめこみ、担当する授業数を減らすことで、教員が楽をするという行為も日常的にあったという。「結局、自分たちが楽したいから、『教師を増やせ』と言っているに過ぎない。少人数学級はその隠れみのだ」

 少人数学級は日教組が推進してきた政策でもある。

 「個々の教職員にかかる負担は非常に大きくなっており、きめ細かな教育の実現が困難となってきている。今こそ、教職員を削減してきたこれまでの方針を転換し、教職員の質と数を充実することが不可欠である」

 昨年11月、都内で行われた集会では、教職員削減をやめ、少人数学級を求める決議が行われた。決議には多くの教育団体が名を連ねたが、その中に日教組の名前もあった。

http://sankei.jp.msn.com/life/education/100718/edc1007180701000-n4.htm

とまぁ、予算がないことと教員が楽をしようとしている、日教組が力をつけようとしているのではないかという2つの問題があるのだそうだ。

教員の多忙と多忙感

 教員が本当に忙しいのか、業務効率が悪いだけではないのか?という指摘もあるが、それはある意味正解で、統計上50代以上の教員は3割に上り(資料)そのうちどれだけの割合の人たちがコンピュータのような効率化の道具をうまく活用できるのかなどを考えると見当がつくのではないか。
 またベネッセなどが調べたデータなど、最近ではいくつかの研究や報告が教員の労働状況を表している。
http://benesse.jp/berd/center/open/berd/backnumber/2008_14/fea_aoki_01.html

 そこでわかるのは一つは働く先生と働かない先生に二極化しているということ。そして働く先生は9時以降まで学校に残ることが当たり前で、学校という仕事が普通の会社より朝早くから活動せねばならないこと(毎朝8時から職員会議)やヒルなどに休憩が取れないことを考えるとやはり長時間労働であること、常に時間に追われ日中は40人近くの児童・生徒を監視しておかなければ事故が起きた時に管理責任を問われること、保護者とのコミュニケーションなど人とかかわる仕事が大半で、しかも自分のペースで進められるケースは少数であるために非常に気疲れが激しい。それに加えて書類の量が昔と違い膨大に増えたことや、世間からの風当たりの強さなどから、教員のストレスや多忙感は想像を絶するものになっており、現にうつ病率は暗数も含め6割を越えると言われている。
 ポイントはこの教員の労働の2極化と多忙感である。
例えば書類等の印刷を外部委託すれば業務を効率化できるのではという提案一つ上げても微妙に複雑であり、数枚の資料を一学年分印刷するのに10分から1時間程度、この印刷の時間はこの後の仕事の段取りを考える時間であったり、他の教員と情報交換をする時間であったり、大方の先生はお昼に休憩が取れないため作業がひと段落して休憩や昼食の時間に充てられたりと意外と効果的な使われ方をするのである。

多忙の解消に教員の増員を

 いわゆる「ゆとり教育」の導入の背景の一つとして、当時から教員の多忙問題は取り上げられていたという。教員の仕事にもゆとりを、という意味も含まれていたが、結局教員の仕事量は変わらないどころか増加した、などという現場の声も聞かれる。
 「ゆとり教育」だの「道徳教育の充実」だの「新しい学力観」だの「生きる力」だの、教育の世界では多くのスローガンが掲げられてきたが、それはどこまで遂行されたのかといわれるとやはり疑問である。
 例えば「ゆとり教育」を行わせようとしたところで、教員の労働環境は全く変わってこなかった。教育予算などは1.5倍に増えたと言うが、いまだに教員の絶対数は足りていないし、20〜30代の教員と50代の教員の割合はほぼ同じであるし、教員予備軍の数も足りていないという指摘は報告されるし、教育予算が使われる先はICT機器の導入で、研修もなしに導入だけ進められあとは教員の自己研さんに任せます、的な風潮もいまだにありきで、配分のバランスが非常に悪いと感じている。
 35人学級でもまだ多く、他の先進国並みの20人前後の少人数学級(18人程度が適切規模という報告を昔見たことがあるが失念)を目指すことも重要であるし、実技教科はさらにそのハーフクラスでもいいくらいである。また、一部の国や学校が取り入れている担任業務は学校カウンセラーに、教員は教科担任の仕事だけ、と完璧に分けてしまう制度や、今の状態で副担任を増やす制度があるだけでもかなり多忙は緩和されるのではないか。
 今年度から実施された子供手当の支給総額が2兆7000億円、厚生労働省の管轄で、他の先進国に比べてGDPにおける教育・子育てに使うお金が少ないから配給することを決めたらしい。35人学級に必要な予算が3000億円。上位1割の人たちを所得制限し、その配分予算を文科省に渡すだけで、35人学級は達成できるはずなのだが、予算配分の多くは省庁間のパワーバランスで決まると聞く。また農水省文化庁文科省は「日本の農業が衰退してもいいのか」「日本の文化が(以下略」「日本の学力が」といった文句で予算削減を免れてきた文化があるという話もよく聞く(官僚の多くはちゃんと仕事をしているし、信憑性は低い気がするが。)。
 予算配分の悪さ、もしくは学校・教員への期待や不満、および仕事量の緩和を唱えることは間違った方向ではないと思うのだが。

学生のボランティア活動は第3の学生運動

 今年度から様々なNPOやボランティア団体とかかわるようになったところちょうどこんな記事を見つけた。

 借金してでも途上国のNGOの活動を体験したり、チャリティ・イベントを行う若者たちの姿をお伝えしたが、このレポートは大反響を呼び、すでに25回を超える当連載でも、いまだにアクセス数トップの記事である。

 クルマや洋服ならともかく、なんで借金してまで「社会貢献」を買うのか。多くの大人は理解できないという反応を示したが、逆に若者たちからすれば、なんで借金してまでクルマや洋服を買わなければならないのか理解できないだろう。今の若者と大人の間には、それほど大きな意識のズレがあるのだ。

 若者たちの社会貢献熱は、その後もヒートアップ。大学生が主催する社会貢献イベントもどんどん増えている。規模も拡大するいっぽうだ。

ますます過熱する若者の社会貢献ブーム。就活シーズン直前、「社会貢献でメシが食いたい」大学生激増中! | 社会貢献でメシを食う。NEXT 竹井善昭 | ダイヤモンド・オンライン

 気づいたのだが、これは簡単なことで、学生運動の代替行為なのである。

学生のボランティアがまるで学生運動の代替行為に見えるのである

しょーごᒼᑋªⁿ☆* (@showgo) | Twitter

学生運動の本質

 学生運動の本質とはなにか。それは既得権や流動性のない社会構造に向かって自分たちの社会正義をアピールすることにある。学生たちの普段からのルサンチマンと若いあふれたエネルギーと合わさり、社会に大きく影響を与える活動となる。時に大学を閉鎖したり、時にデモ行進をしたりといった具合である。その反社会行為を行うことで学生たちは社会参画している事を確認するというパラドキシカルなムーブメントである。

第2の学生運動

 80年代以降、学生運動はどこへ行ったのか。NHKの寺山修二特集で、寺山修二が「現代の学生運動はインターネットの炎上へ逃げた」という仮説を立てたという。暇を持て余し社会に不満を持ち、自分たちの正義を発露したい大学生をはじめとした若者たちは20代に限らず10代から50代まで年齢層を広げ、匿名掲示板をはじめとした大手サイトで毎日社会正義を振りかざすカーニヴァルを行った。少なくとも90年代〜00年代半ば、SNSサイトができるまではそういう風潮であった。ヤンキーはDQNと言われ、暴走族は珍走団と名付けられ、迷惑な親がいれば家に突撃し、軽度の公開私刑が行われていた。鮫島事件などというおぞましい事件に発展した事例もある。

第3の学生運動

 しかし、WEB2.0が唱えられ、情報共有でなく、コミュニケーションを目的にしたSNSが普及してくると、今度は人に迷惑をかけず社会正義を追求する方法が模索され、その結果内向的な学生たちはウェブに取り残され、活動的な学生たちが行きついた先がボランタリーや社会企業である。実際東大をはじめとした高偏差値大学の友人を見ているとほとんどがそういった活動に参加しているかそういった活動を認知し応援している状態であり、大学生の一種のアイデンティティを確立するための運動となっている。
 また、社会貢献する学生を企業が応援するというのも非常に聞こえがよい。活動を行う学生の多くはボランティア、無償であるため、少ない投資で大きなイベントの企画・実行やクリーンなイメージを作ることが可能になるのである。
 要は社会と企業と学生の利害が一致したため、学生の社会貢献なるものは加速的に活発になっているのである。

学生運動の弊害

 これがある種の宗教的な様相を帯びだしてきているのも事実であり、僕の経験からで恐縮であるが今年度に入って20個弱の社会貢献団体のイベントに参加した。「世界を変える」「社会を変える」「教育を変える」などと銘打ってボランティア活動を行おうとするのであるが、多くの学生は例えば世界や社会や教育の現状を知ろうとしないし、現場の最前線で活動している人たちとコミュニケーションを取ろうとしない。自分たちだけで盛り上がって社会貢献をしようとしている節が見て取れた。それがただのサークル活動であれば構わないが、活動的に現場まで出向くことで、実際に現場でストイックに活動を行っている人たちに負荷を強いるような構造になっていないかは多少考えてもらわなければならない。本当にボランティアが必要な現場が人手不足で、業界によっては十分人手が足りているのに皿に参入したりと、リソースの配分がきちんと適切に行われているかも考えなければならない。その時の感想が以下である。

教育関係の勉強会とかイベントに行って若干がっかりするのは、わざわざ現場の人間であることを明示しているのにもかかわらず「教育を変える!」と息巻いている若者たちがまったくもって現場の中の話を聞きに来ないこと。教育はアーティスト活動じゃないんだから。

しょーごᒼᑋªⁿ☆* (@showgo) | Twitter

社会貢献と社会起業

 社会起業という言葉も盛り上がっており、いくつかの本当に必要な活動が認知されるようになってきた。友人のNPO代表に話を聞いたところ、「社会起業という言葉は白い白鳥であるとあえて言っている」と言っていた。従来の企業は、社会貢献の方法としてモノを売ったり企画する従来の仕事があり、現代ではそれに加え各会社も部署を立てて社会貢献事業を行っている。目に見えてソーシャルアントレプレナーと名乗ることで、もう一度社会貢献とは何かをみんなが見つめ直すきっかけを作らなければならないという。
 この手の運動が起きるのは、不景気のせいな気がしてならない。ツイッターが出てきたとき、ウッフィーなる新通貨を導入しようというムーブメントが一瞬主張されたが、お金の価値を問い直し、経済的に不自由な状態でお金がなくても助け合いましょう!というメッセージを発信しているのではないか。そしてこれらの利益度外視の風潮が、貧困ビジネス、一部の企業による良心を装った搾取、さらに購買意欲の低下を招き消費の減衰、不景気の加速を産むのではないかという懸念もある。
 また、学生たちがなぜ学生運動をしなくてはならないかは教育畑の人間としてさらにいくつか思うところがあるのであるが、そのあたりの記事は近いうちにまとめてみたいと考えている。

コンテンツ化する大人たちと-書評-キャラ化する/される子どもたち

 論としては実感レベルでしか実証できないものの、読み物としては非常に興味深くかつ面白く読めた一冊。62ページという薄さの割に内容の濃さは保証する。本ブログでも言及してきた価値観の多様化・コミュニティの矮小/極小化・地元志向と排他性・宿命論才能論、すべては「キャラ化」という一つのキーワードで見事につながった。細部に違和感はあれど僕はこの論に全面的にコミットしたい。

キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像 (岩波ブックレット)
土井 隆義
岩波書店
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おすすめ度の平均: 5.0
5 「キャラ」この言葉をキーワードに現代社会の光と影を読み解く
5 「優しい人間関係」は排除型社会に通じる

不安社会化の弊害

 本書は社会学土井隆義氏によるコミュニケーションのキャラ化を論じた本。統計などをあまり用いずストーリーを語っていくため、論としては厳密性に欠ける賛否両論であるが、その点は著者自身も冒頭で留保を促している。
 本書のあら筋は子どもたちのコミュニケーションが、役割を固定し単純化された形で行われる=キャラ化していることを取り上げ、社会全体がキャラ化していることが排除型社会や(本書では明言していないが)閉塞感を生んでいるという話である。
 元をたどればバブル崩壊後の「いい学校、いい会社、いい生活」というレール・価値観の崩壊が元になっている。今だに根強くこの価値観は残っているものの、一方でその有効性のようなものは高学歴ニートや3年で辞める若者の退職率の高さ、不況、労働条件の劣悪さの可視化などに後押しされかなり低くなっている。そうした点から学校での勉強や生活の意義のようなモノが見つけにくくなっている。一方で社会は若者に個性的であれ、多様であれと隠れたメッセージを投げかけ続け、結果、若者は価値軸としての拠り所が見つからず、わかりやすい価値軸を提示してくれる仲間たちやコミュニケーションを求めるようになる。なにか一つの事にはまることもほどほどに、過度に人間関係に依存するようになり、かつ分かりやすい価値軸を保つためには一定の人間関係の規模を保たねばならない。しかもそれはお互いの空気を読み合いながら嫌われまいとするコミュニケーションとなり、その「仲間内ルール」とでも呼ぶべき価値観に見合わない人間はどんどん排除する振る舞いをとる。そこにコミュニケーションの矮小化と小規模の排除型社会が発生する。
 

外キャラ、内キャラ

 いつの時代もコミュニケーションを単純化する作法は若い人たちの間で見られた。流行語を共有し自分たちの文化を作ってきたし化粧の仕方やファッションなど、乱立する女性誌の雑誌名で派閥ができるように文化とコミュニティを作ってきた。それとキャラ化の何が違うかと言えば、流動性のなさ、すなわち関係性の固定である。
 流行語は常にコミュニティに入るための通行手形であった。誰かリーダー格がファッド(短期的な流行)を取り込み、コミュニティのフォロワーとともにスタンダードと少しだけずらすことでそこにコミュニティとしてのアイデンティティが生まれる。
 しかしキャラ化はそれとは違うレイヤー・次元を指す。例えば「ボケ・ツッコミ」のような関係性に根差すキャラが基本であり、かつ「いじられ」のように常にやられ役流動性がない。学校のクラスひとつとっても、ある分野は誰がリーダーで、ある分野は誰が得意で、といったダイナミクスを覆い隠し、常に盛り上げ役やまとめやくを固定してしまう現象である。そんなことあるわけないだろうと思われるかもしれないが、これが僕の経験則として存在するからこそ、キャラ化は現実的な現象として感じられる。

 なぜこのようなことが起きるかといえば、一つはそこに外的な自分、対人関係に応じて意図的に演じられる「外キャラ」を持っていること。一つは才能論のような、生まれ持っている気質や「本当の自分」すなわち「内キャラ」というものを皆が持っていることであると著者は解説している。
 先ほども解決したように、キャラは対人関係のもとでの振る舞いがベースとなっている外キャラが大きなウェイトを占める。多くの若者本が指摘している「若者の傾向」は妥当性の問題は別としてあくまでも若者の「外キャラ」を分析したものであり、若者の本質に迫ったものとは異なっている。
 また、「内キャラ」は、一部の統計が示す地元志向の若者の増加や才能論を信じる若者の増加に見てとれるという。すなわち、「外キャラ」は本当の自分ではなく、本当の自分は別にいる。そしてそれは生まれ持った自分の"ゆるぎない"特性であり、地元などのルーツとともに存在する。そんな解釈を多くの若者が持っている、と著者は指摘する。実際に2009年の朝日新聞の統計では「タイムマシンがあるとすれば未来と過去どちらに行きたいか」という問いに対し「未来へ行きたい」と答えた人より「過去へ行きたい」と答えた人のほうが20ポイントも多かったという。これは自分のキャラがどこから来たのかを知りたいという願望のあらわれであり、若者の「自分探し」症候群と重なるところでもある。

 今日の若い人たちが内キャラにこだわるのは、いかに生きるべきかを指し示す人生の羅針盤がこの社会のどこにも見当たらず、いわば存在論的な不安を抱き抱えているからです。だから、どんな視点からも相対化されることのない不変不動の準拠点として、持ち前のキャラに依存することになるのです。内キャラが、多面的な要素から成り立つアイデンティティとは異なり、外キャラと同様に一面的で、輪郭もくっきりとして単純なのは子のような理由によるでしょう

この辺はアバウトな僕なりの解釈も交えているため本書を手にとって詳しく読んでほしい。そして同時に著者は"一貫したアイデンティティの持ち主では、むしろ生きづらい錯綜した世の中になっている"と指摘している。
 

キャラ消費

 キャラ化の定着は例えば消費傾向においても見て取れるという。例えばゼロ年代に入ってコンテンツとして出てきた「セカイ系」は、最終兵器彼女エヴァなど、登場人物たちが親や社会と分断された世界で変わらぬ日常や関係性を保ちながらその変化がそのまま世界の変化に直結する空間を描いてきた。しかしこの傾向はストーリーのある作品だけではおわらない。最近では「けいおん」などに見られるただほのぼのとした変わらない日常・関係・キャラクターを描くだけのアニメが大ブレイクし、消費としてのキャラ消費は形としては完成しつつある。また本書ではリカちゃん人形のデザインの変遷を上げ、単純化されたデフォルメと(別キャラへの変身も含めた)二次創作に応用可能な形へ、孫引きで悪いが伊藤剛氏の言葉で「特定の物語を背後に背負ったキャラクターから、その略語としての意味から脱却して、どんな物語にも転用可能なプロトタイプを示す言葉となったキャラへ」変わっていったという。

 こうしてみると、キャラクターのキャラ化は、人々に共通の枠組みを提供していた「大きな物語」が失われ、価値観の多元化によって流動化した人間関係のなかで、それぞれの対人場面に適合した外キャラを意図的に演じ、複雑になった関係を乗り切っていこうとする現代人の心性を暗示しているようにも思われます

 あくまで暗示であり、その妥当性がどれだけ高いかといわれれば疑問ではあるが、一方で我々はその現象を無意識に受け入れているのではないか。キューピーちゃんやハローキティが着ぐるみ化し、ガチャピンがいろんなエクストリームスポーツに挑戦し、はては宇宙にまで飛び立ち、まる子はいつも違う出来事でおじいちゃんと毎回同じようなどたばた騒ぎをし、カツオは新しいいたずらを考えてはいつも怒られる。常に変動する場面でいろんな新しい顔を見せながらもゆるぎない立ち位置を持ったキャラ達が愛され、それをオマージュし続ける文化はすでにコンテンツ業界には根付いてるともいえる。

キャラ化とtwitter

 ちょっと前に帰国子女に日本のついったーを見せたら「社長とアニメアイコンしかいない」というコメントをしてBUZZったことがあった。これこそ僕がキャラ化を肯定した大きな理由の一つ、、日本のウェブコミュニケーションはキャラ化しているのである。ウェブはバカと暇人のもの、ウェブにあるものの多くがキャラ化された(≒単純化された)コミュニケーションであるならばそれは間違っていないのである。
 同時にtwitterが起こした現象は(便宜上)賢い人たちは賢い人たちを観測しあい、バカと暇人はバカと暇人を観測しあうというものである。キャラにおける価値軸のダイナミクスの規模(≒評価軸をいくつ持っているか≒どれだけキャラ化していないか)によるすみわけがなされ、階層化してしまった。研究者は研究者同士でフォローしあい情報交換し、言論人たちは言論人たちやWEB言論人たちをフォローし合い罵り合い、それを観測しながら好き勝手コメントする層が存在し、一方で今日のスナナレがどうだ、ジブリがどうだバルス!という会話をメインに行う層が存在する。もちろんその階層を行き来できるのがtwitterのいい所だし、言論人たちも半ばキャラ化して発言することで自分のポジションや(売り物としての)キャラを保っているのだけれど、発言の比重でいうと明らかにキャラ化の度合いで島宇宙化・階層化しているのではないかという実感がある。小規模に「内キャラ」だけを見せられる仲間だけをフォローし合って"いつもは明るいけど夜になると不安になる弱い本当の自分"キャラを見せ合い慰めあうようなコミュニケーションも僕は観測している。
 twitterを使う大人たちはすっかりウェブ上で自分をコンテンツ化してしまい、それがコミュニケーションを円滑にする作法であることを無意識に理解して実行している。すなわち東浩紀氏のいう「動物化」と似たもしくは一致する消費行動が観測され、つぶやき手はそれをわかった上で情報を発信し続ける。
 キャラ化は若者だけの問題ではないのだ。

キャラ化の問題点

 しかし、これらのキャラ化が生み出す閉塞感や、関係性のカースト化はやはり問題である。またコミュニケーションが単純化することにより、新たな煩雑な問題、例えばモンスターペアレンツや、少年犯罪はコンテンツのせいだとするマンガ・アニメ・ケータイ規制、責任を取る=排除される(辞任する)ことというコンセンサスや「あれは本当の僕じゃなくキャラです」といった子供たちの責任回避や自己肯定感の低さなどが生まれてくる。
 「頑固おやじ」がコンテンツとして受ける時代、「確固たる自分」が売れる時代はすでに終息しつつあり、バブル時代の会社や社長たちの多くは引退し、ホリエモンのように出る杭は打たれ、小さいコミュニティで上手に俺流を演じることができる人間が勝ち残っていく時代になってしまった。
 キャラ化は小規模で見れば上手な作法である一方で、中規模大規模になるととたんに混乱を引き起こす。多種多様な評価軸に対応していないことこそがキャラ化の問題点であり、秋葉原無差別殺傷事件もキャラ化が起こしたのではないかと著者は一貫して本書を通して仮説として提唱している。
 しかし、高度経済成長期のように政治が方向性を大きく示し、世の中が大きな物語を示さない限り、キャラ化は加速していくばかりである。皮肉なことにキャラ化はある程度賢いからこそなせる作法であり、現代の高い教育水準と閉塞的な教育環境がそれを担保してしまっている。
 一部の情報処理能力に長けている人以外、脱キャラ化が困難な以上我々は「多キャラ化」して生きていくしかないのである。新しい場面、新しい環境によりたくさん飛び込み、新しいキャラを作ってはそれを切り替え続けること、これこそが我々の取りうる作法であり、その作法をいかにうまく使うかこそ課題である。キャラの使い分けがうまくいかないことは香山リカ氏的にいえば「離人症」であり、「統合失調症」である。統合失調症は現代は100人に一人がかかる病気であり、キャラ化とも密接に絡みついているのではないかと考えている。
 もしこの本を読み自分がキャラ化していると自覚できるのであれば、よりダイナミクスにあふれたキャラフルな世界を取り戻すこと、キャラ化を否定せず新しいキャラをどんどん作り出していくことで、閉塞した社会にすこしづつ風穴を開けねばならない。

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25年位前の日本

まだ読書中だけど冒頭の文章に笑ったので紹介。この文章が書かれたのが1983年だという。

 いま、世界不況は相当に厳しいようです。すでに経済低迷の時代が長く続き、先行きの明るい見通しもなかなかもてそうにない。その不況が他人事でなく、日本に波及してきました。直接の原因は、周知のように輸出の伸び悩み、どころか減少傾向さえ出てきたことにあります。つくづく、日本経済は輸出依存体質なのだと改めて思い知らされます。
 いっぽう、内需も思わしくない。金はあるはずだけど、消費者はなにしろ買ってくれないのです。すでに必要なものはほとんど揃って、家の中に"物"は溢れており、買っても、置くスペースもない。それに、どうしても買いたいという魅力ある商品がなかなか生まれてこないのです。
 この経済の低迷が、学生の就職にも大きな影響を及ぼし始めました。この二〜三年、大学新卒を採用するのにとても積極的であった企業が、一転して慎重になってきたのです。前年よりも採用人数を減らす企業が大半です。

 昨今の経済ニュースと見比べてみると非常に感慨深い。出典は以下。本書は文系理系問題も扱っているので(といっても昨今の綺麗に切り分けられないブログ論談と変わらないレベル)また後日書評したい

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下手な哲学書より山形浩生-書評-訳者解説

 昨年発売された本の中で一番面白かったと言ってもいい本。翻訳家である著者の訳書のあとがき解説を集めた一冊。経済学はもちろん哲学・心理学・文化・数学(統計学)・情報・社会・科学技術から今流行りの開発教育まで幅広く網羅する山形浩生氏ならではの語り口調と明快な問題分析が魅力。
 個人的には10数年前に出た前作「新教養主義宣言」ほどのインパクトはなかったが、それでも読み応えと内容の深さはそこいらに売っているお手軽哲学書などとは全く一線を画する。
 それは彼の書く本たちは、哲学や心理学と実際の社会をシビアに分析し結び付けて語る姿勢にある。

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5 世界を日本に紹介してくれる貴重な訳者による解説本
5 山形さん、良い意味で変態だ〜 (^o^)/
5 これを読んで元の本を読んだ気になりそう
5 「訳者のあとがき」だけを集めた珍しい本。

新教養とは何か

 副題が「新教養主義宣言リターンズ」と個人的に非常にダサく感じてしまう。タイトルをどうするか迷って両方つけた感が満載であるが、山形浩生氏は前作新教養主義宣言で、従来の教養=「ストックしておいて必要な時に引き出す実用性のない知識」ではなく新教養=「知識と知識をつなげる価値判断のベースとなる知識」をつけるべきだと、タイトル通り「新教養主義宣言」をする。欧米は不思議の国のアリスだのシェークスピアだの全国民が知っている作品があるじゃない。日本には全員が共有している古典教養となる作品はほとんどないし、それを踏まえた作品もほとんどない。さらには共通理解している作品もアニメだの漫画だのに移っていき、世代間で共有できるものも無くなってきた。それを古今東西集めて価値判断のベースとなるような知識と知識をつなげる知識を集めてこの本にして、読んだ人の1〜2割でもいいからガツンとインストールしたい、と雄弁に語る。

新教養主義宣言 (河出文庫)
山形 浩生
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5 高校の図書館の本棚にさりげなく置いてあって欲しい本
4 パブリックな知への信頼
3 非常に惜しい教養啓蒙への試みの欠落

 利己的な遺伝子だのガイア仮説だのテンペストだのドストエフスキーだの脱構築だのミームだのグローバル経済だのSFだのコーヒー豆だのファイナンスだのアジア的価値観だの統一理論だのテッソの檻だのファインマンだのウラジーミルナボーコフだのAIBOだの選挙権売買だのといった話がどんどんつながって逡巡していく。ちなみにここにあげた内容は前作の「はじめに」に書かれている内容の一部を並べただけ。いかにこの本の内容が濃く、そこいらのビジネス書や自己啓発書と違うかが見て取れるだろう。タイトルが啓蒙書じみててもったいないという声は方々から聞かれる。

今仕事で一生懸命計算しようとしている製薬業界の割引率を考えることと、人の失恋の悩みとに実は関係があるんだという事を僕は示してみよう。それが多分、人間の代謝機構とロールズのいう「正義」とも無関係でないことを示してみよう。そしてそれを一通りまとめて理解することが、多分今の世界のあり方を理解するうえで大事なんだってことを、ちょっとこじつけ言ってもいいから説明してみよう。だって、関係あるんだもん。大事なんだもん。植民地主義と鉄道の歴史と、さらには銀行の不良債権問題が、フレンチのコーヒーがまずいことと密接に結びついていることを示そう。情報生産性のパラドックスが、生物としての人類進化とぼくたちの自由のあり方も聞いていしているかもしれないことを、ぜひとも知っていただこう。いままでまったく関係あると思っていなかったテーマの間にある、密接な関係に気がついてもらおう。そうすることで、複雑系のブームが去った後も、もう少し複雑系の事は覚えていてもらえる。それを何か別の方向に応用することだってできる。

 そうして短絡的な結論は悪だよね。色々思考をめぐらしてなにが個人的にも政策的にも最適かを考えよう。と主張する。

 発言を見ての通りの非常に挑発的な内容で鼻をつまむ人たちや受け入れられない人たちも確実に多いだろうと予想されるのだが、当時の僕にはそれが非常に魅力的に映ったし、その後いろんな情報と出会うきっかけとなった。内容自体は書評や描き下ろしコラムをまとめたものでしかないが、一つ一つの記事がバカみたいに自分の世界の狭さや判断軸のずれを痛感させてくれる。頭が発熱しているのを感じ実際に検温しても体温が1度くらい上がっていた、それでも寝る時間も惜しんで読みこんだ記憶がある。十数年たった今も全く内容的に色あせていない、本質をついたスゴ本である。
 また、著者山形浩生氏は人の事をバカにしたり専門家をこき下ろす内容を公開しては炎上されたり起訴されたり、非常に話題性の多い人だが、一方で毎年中国や発展途上国に年収の一部をどんと寄付したり、本業では途上国支援・援助の仕事をしたりとその実態は一冊に冊の本ではつかめなように見えてがただのツンデレ

自由とは何か

 本書が前作に比べてもったいないなと思ったのは非常に頭でっかちな構成と、今回はわかりやすく哲学・心理学、環境・情報・統計、アーキテクチャと分野がわかりやすく分類されて掲載されてしまったこと。
 第1章ではひたすら自由とは何か、自由意志とは何か、人の行動に与える重要なファクターは何かと考える作品の訳書解説をつらつらと書いていくのだが、内容が他の章に比べて突飛過ぎて非常に頭でっかちな構成。理解するまでに眉間にしわを寄せ3回深呼吸をして4回文章を読み返す事もあったが、理解できるとバカみたいにおもしろい。

 例えば自由とは何か。その本来の意味・使われ方は「自由を享受できる力」であり、自由の本質とはシミュレーションである。身体には制約があり、相対的に自由な振る舞いはできても、完全な自由は享受できない。人は身体のみで空は飛べない。(いや手術なり肉体改造してやれば…というひねくれた意見ももしかしたら出るかもだがそこまでして空を飛びたいのか、費用対効果的に割が合うのか疑問。)自由の本質は頭の中でのシミュレーションの中にこそある。そう

自由とはシミュレーションのツールである。

 この文章を見ただけで薄学な僕は目からうろこ。相対的に「自由になりたい」と絶対的な「自由になりたい」は全く別の意味合いを持つし、自由を保障するということは思想や思考を制限しないことなのである。

 そしてそれに並べて山形氏が提示してくるのは「自由意志」とは何か。人間はお腹が減ったら「ご飯を食べよう」と考える。これは本人がシミュレーションして選択した自由な意思なのか、それとも胃が食べろと命令して具体的にどうするかを脳が考えただけなのか。だとするとそれは自由意志と呼べるのか。自由意志は何のためにあるのか。行動はいくらでも理由づけできる。実は動物はある関数に従った行動を取る事が実験で明らかになった。人間はそれに当てはまらないのか、など哲学を非常に明快に張り巡らせる。僕らの尊厳のよりどころとなる自由な意思だの思考だのというものをことごとく砕いていく。

環境危機とは何か

 章ごとにしかつながりが見て取れない構成こそが残念なのだが、その分一つ一つの記事は異常に濃い。2章では主に数字を扱う分野の話がつらつらと並べてあり、参考書籍だの参考文献だのがつらつらと並べられ、リテラシー必要だよね。で終わっていく。
 ただ非常に痛快であるのが「地球と一緒に頭も冷やせ! 温暖化問題を問い直す」や「環境危機をあおってはいけない 地球環境のホントの実態」における話。統計的には温暖化は怒ってるけど微々たるもので、異常気象も統計上ほとんど変わっていない。でも日本では環境商品を売るためにメディアがひたすら煽ってる印象がある。ここで主張されている議論は有名だが、「実際に計算してみると京都議定書に何億何兆もの金がかけられてるけど実際に100年後とかの成果を見てみると、100年後の温暖化が来るのを6年遅らせるだけ。ならその前に発展途上国に水道を引くとか発電所を作るとかすることあるでしょう」というもの。宮台真司氏は環境問題は完全に国際間政治におけるただの代理戦争だ、と断言するし、以前も行ったように環境問題があるとしても実際にテレビでCMされているような行動を取ってもCO2削減とかほとんど改善しないだろう(と言ってもそれを精神論でやってのけてしまう可能性があるところが日本人のすごいところなのだが。)
 この章は想定される反論とそれに対する受け答えばかりが目立ち、この本書いた奴の奇抜さすごいだろう?ちなみに理解したいならこんな本がお勧め。といった話が繰り返されるだけなので、個人的には普通だな、といった印象。

規制を規制せよ

 この章ではほぼレッシグネット規制に対するルールとアーキテクチャをどうするかといった話ばかりが並べられる。情報界隈は非常に身近な話題で、主に著作権クリエイティブコモンズ界隈の話題から、表現規制問題なども扱う。インターネットをどう認識するかという哲学と設計の話に入ってくるため、普通に話は面白いが、LINAXすごいよねとかそこらへんの話で落ち着いてしまっている印象がある。
 ただ面白かったのがこの規制を規制せよという考え方。憲法と同様、インターネットでどこまで自由を規制するかをルールとして議論する必要がある。ある程度規制されない幅があってこそ技術は進歩していくし、一方でそのグレーゾーンを狙った犯罪まがいの迷惑行為を行う人たちもいる。個人的に興味がある分野でいえばDJのMIXCDやダンスの世界なんかはこの問題に直面していて、両方とも音楽を切り張りして表現を作る文化であるはずなのに、MIXCDをDLすると違法ダウンロード、DVDを販売する時に音源をそのまま使うと著作権法違反と業界を維持するのが非常に難しい事態になっている。MIXCDは個人の配信はアウトでyoutubeやニコニコであればOKというある種寡占状態になっていたりと不思議な構造だ。

まとめ

 第一章を読むだけでもこの本を手に取った意義がある。もちろんこの解説されている訳書を手に取る方が有意義で深い教養を得る事ができるだろうが、僕が興味があるのは山形浩生氏自身の問題意識だったりするのでこの本一冊で十分満足であった。また本書で取り上げられている「ウンコな議論」などはたいがい面白いけどけっこうひどい本なので解説読む位でちょうどいい、といったものもある。
 また山形氏の翻訳は山形氏のサイトでも公開されていて読むこともできるのでお金がなければそっちで読むのもよい。ただ、それをちまちま読むよりは本を買ってガッツリ読んだ方が費用対効果も高い事は山形氏本人も主張している。この本一冊だけでなく前作新教養主義宣言とセットで読んでいただきたい一冊。また山形浩生氏の著作に出会ってから寝る間を惜しんで山形氏のサイトにある文章を読みこんだ記憶もある。文章を受け付けない、食わず嫌いは確実に損する。そこらへんの啓蒙書を3日かけて読んでいる暇があるならこの一冊とその周辺を1週間〜一カ月かけて読みこんだ方が、一年後に価値判断のベースとして役立つだろう。

科学研究費事業仕分け問題を教育で解決する現時点でのたった一つの最適解

id:next49さんにIDコールされたのに気付いたので、時間を見つけてこの記事原稿を書いてきた。09年内に公開できなかったが、改善を一番要する現場からの声として「必要ありますか?」をバズワードにして終わらせるわけにはいけないので公開しておきたい。
 僕の目から見た今回の仕分け問題について。先日「事業仕分け」という会議でちゃんと科学の有用性を説明できなかったから科学研究費をカットしようって決定が行われた。浮いたお金は教育に回そうと言う決定だ。しかし、それは家庭の負担を減らすというものであって、決して教育者側にお金を回そうという話ではなかった(一部でそうした動きも出てきているけど)。
 結論から言うと科学よりもテクノロジーに関する教育をもっと増やすべきだ。
 以下の論は前提として小中高までの学校教育をベースに科学技術を切り分けて考えていることを理解いただきたい。*1

科学と技術

 科学技術という言葉の間には科学/技術という大きな溝がある。科学とは自然の法則を追求する営みであり、技術は科学を人為的に利用するためにその時代の文脈に沿って形にしたものである。厳密にはそれぞれに定義があるがここでは割愛する。
 地球が温暖化しているかどうかの分析は科学であるし、彗星や隕石がどう動いているかを観測し計算するのも科学である。
 自動車は移動するための技術だし、望遠鏡は遠くのものを観察するための技術である。
 最近では科学と技術のグレーゾーンも出てきた。農作物は科学か技術か、クローン牛は科学か技術か。
 しかしこれも作り方や育成条件の分析は科学だし、できあがったものが科学を応用して制御され生産されたプロダクトであれば技術である。
 科学は理屈であり、できあがったものは全て技術:テクノロジーなのである。
 

技術を適切に評価し技術開発を受け入れる素地がない日本

 今回の事業仕分けにおける結論に対して科学者達の発表した言葉達を見ると、その科学/技術の言葉の使い分けすらままなっていない。
 これは例えばコペルニクスが地動説を唱えパラダイムシフトを起こしたとき、望遠鏡という技術による精密な観測が可能になった事が大きい。このころから技術は科学に必須な要件となった。優れたテクノロジーが優れた科学を支えるという構図が人々に認知されたのだ。それにより科学と技術は切り離せないものになった。しかし技術はもっと厳密には大まかに次の3つがある。

  • 科学研究のための道具としての技術
  • 科学研究・技術開発の対象としての技術
  • 一般に普及し消費されている技術

 日本の科学技術についていえば、前から2つばかりを大切に扱い教育し、3つ目をないがしろにしている。この点を僕は指摘したい。
 例えば原子力発電の仕組みや原子力発電所がいかに耐震性や耐久性に重点を置いて設計されているかについて教えても、原子力発電所が実際どう稼働しているか、その設計理念や職員の規模までは教えない。自動車工場でもいい、製鉄所でもいい。もしくはウェブサービスでもい。これら理屈をどうモノにしたかは、高校までの教育では十分扱えていない現状がある。
 科学はその時代の文脈に即して技術になり、さらに科学を発展させる。現代の高度に発展した技術はすでにイノベーションのジレンマの臨界点に達しており、前2つと一般に普及している技術の間の溝、すなわちブラックボックス化は深まるばかりだ。
 ブラックボックス化によってどんな弊害が起きているか、イノベーションのジレンマイノベーションを望まない層がいるからこそ起きるのだ。すなわち、科学が発展し新しい技術が現れるとどういう利益を自分にもたらしてくれるかを一般消費者達が知らなければいけない。
 しかし現状で語られているのは科学で世の中が解明されることのロマンと、新しい技術を作らなければ経済競争に負けるという企業側の理屈ばかりで消費者の理屈がないがしろなのだ。

短期的・中期的・長期的視野でいえばそれぞれに研究成果・広報・教育が必要

 日本における科学技術研究は、競争的には負けていると言われているが、絶対的には世界に誇れるレベルをまだ保っていると僕は認識している。
 しかし、科学分野以外の仕事に就いているものでそれを詳しく語ることができる人間など一握りだ。その成果の価値を一般消費者(科学を消費するというのもおかしいが)に広報する仕事が非常に重要な役割を持っているはずであり、この部分の不足が致命的な問題である。科学ジャーナリストになりたいなら博士号いらないね、と言われたという話*2も一部では報告されているし、実際科学ジャーナリストを自称して研究者たちとケンカをしている者もいる。
 また、長期的な視野で見れば教育に力を入れなければならず、日本は曲がりなりにも理数教育に力を入れてきた。一部の学校のSSHなどの取り組みも、科学オリンピックなどで成果を上げている。しかしこれも「すそ野を広げれば天才の割合も増えるだろう」みたいな構造であること、大学に行った時そのすそ野と研究者の中間になった人がどうするか道がない(だからスポ抜けていた科学ジャーナリストという中間層を増やそう)といった理屈はこれまで何度も主張されてきたはずだ。
 そして、きちんとした広報や教育がおこなわれていれば技術を適切に評価し、科学がなぜ重要なのかを理解し、科学技術研究に寄付をしてくれる層がもっと増えたのではないかと考えている。
 だがしかし、僕はこの教育自体が理数教育≒科学のための教育に偏重していると考えている。先ほど言ったようにテクノロジーに関する教育の不足こそ今回の事業仕分けで考えるべき点ではないかと考えている。
 現状は科学分野においてノーベル賞をもらった人たちさえ科学技術の研究開発ではなく別のところに賞金を寄付している状況だ。*3

教育カリキュラム(≒教科ごとの時間配分)を見直そう

 そして、技術に対する教育、技術を通しての教育は今や壊滅的な状態だ。
 外国ではテクノロジーに関する教育は、10〜12年程度が基本で、テクノロジーに限らずその本質である設計についてやその周辺である労働、それからテクノロジーが社会にどういった影響を与えたかという歴史までみっちりと教育している。
 日本では技術教育については中学校3年間における技術・家庭科の技術分野(技術科)と、また方向性の違うが領域の重なる高校の情報科だけしかない。義務教育段階である中学校において技術科は、家庭科とは全く性質が正反対で免許が異なるにもかかわらず、成り立ちや教科政治の問題でいっしょくたにされている。そのおかげで現職の教員ですらその教科理念を誤解している現状がある。参考http://gijutu.blog.drecom.jp/archive/257
 最近では2009年9月から、中国の高等学校において、情報技術の教育だけでなく通用技術という教育ができ、情報教育だけでなく普通教育としての技術が高校でも受けられるようになった。行き遅れているのは日本だけであり、なぜかと言えば技術教育の内容や有用性に対する社会の理解度が不足していることや、日本の特殊な教育構造≒企業側の都合による部分もあると考えられる。参考:産業界からの俗流ゆとり批判について - 技術教師ブログ
 普通教育においては従来の職業技能としての技術教育でなく、普通教育としての技術教育が求められている。それによって技術の体験・理解・評価・マネジメントができる能力=技術リテラシーが求められている。例えばトレードオフや最適化・フェイルセーフなど、科学では求められず技術で求められる概念は多種多様だ。またそれらが個人の発達において転移できる要素も多いと考えられる。
これについては故・桜井宏氏の話が詳しい。参考:桜井宏氏 『「社会教養としての技術」の重要性を訴える』 | 日経 xTECH(クロステック)

科学教育:技術教育を2:1にし、技術開発における予算をそちらへ回すこと

 教育政策を見直すと技術立国を目指すためになぜ理数教育を充実して技術教育を充実させないかがよくわからない。*4

  • 小学校図画工作やモノづくり科、中学校技術科、高校の情報科を中心とし、テクノロジーを経営的視点から見直す実践や教科を用意することで、技術を適切に評価・マネジメントする訓練を充実させること
  • 美術科で創作品の人文的価値を、理科で自然科学的価値を、技術科で社会的価値を評価する訓練を行うこと
  • 理科数学科:技術科の割合を現在の5:1(中学校時点)から4:2にすること

若干抽象的だが以上が僕の主張だ。
 技術と言う言葉が非常にあいまいであるが、僕が主張したいのは一つ、科学技術について発展を重視した政策を行うなら、技術科に対して金と時間を増やせ、と言うことだ。日本が売ってきたのは科学でなく技術である。技術に置いて伝統工芸ばかりに頼ってきた日本が、この先まともな技術教育なしに諸外国に生産能力で勝ち続けていけるはずがない。
 もう一度技術周辺で扱う内容を精緻しなおすこと(これは今回の指導要領で大きく変わった)。
 理科や数学は時間数が週5時間であるのに対し、技術は1時間である。この1時間でよいので技術に回してもらえれば僕ら技術に関わる教師は大きく貢献する心意気はある。少なくとも僕は。技術の教師で職人と呼ばれるレベルの人たちはいとも簡単に難しい言葉や概念を用いず大学レベルの工学を子どもたちに教えてしまう。
 一方で一番の問題は技術の教員を目指す人の少なさ、および、技術の免許を持った教員が圧倒的に少ないことである。

ポスドクを教員に

 この技術科の教員不足の現状に対して考えられるのが、理・工学博士に教員免許取得のコースや仕組みを与え、技術教育に寄与できるキャリアコースを作ることである。
 現状では実は理・工学部の院から教育学部の技術教育コースに来て教員免許を取ることもできるのだが、これらの技術教育の重要な役割が周知されていない以上、直接子どもたちのキャリア(要は受験)に関連する理科や数学科、情報科の免許を取ろうとするのが普通である。また職業教育の単位を取得し、博士号を取れば、教職課程を経なくとも工業高校の免許が取れるという。そうして中学校技術科の免許所有者や教員志望者は現在大幅に不足しており3分の1から2分の1を臨時免許や副免(主免許ではない)教員が担当している現状だ。教科理念を理解し強化の重要性を訴えられる教員の絶対数が少ないこと、教科の面白みを伝えられない教員に教えられた子どもが、大人になって教員になろうとした時、技術科を選ばないといったデフレスパイラルに陥っている。よって中学校技術科は現在最悪の状態にあり、少数の質の高い教員たちが支えているという現状がある。

 博士をとっても研究者として椅子がないというポスドク問題で一時期大騒ぎしていたが、要はこの中学校技術科の椅子に座って工学研究(即ち技術)の最先端と重要概念を伝える訓練をしてはどうかと思うのだ。もしくはできたら高校に中国の通用技術に相当する技術教育科目を設置し、そこで教鞭をふるってもらうのが最適解かもしれない。中学校と大学の間に技術教科がないことは日本にとって最も致命的な教育システムの欠陥である。
 

技術教育自体の難しさ

 我々が、少なくとも僕が目指すものは「科学技術のポジティブな自発的制御」だ。人に強制される制御ではない自発的制御。使わない、といったネガティブな制御ではなく、ウマく使うといったポジティブな制御だ。しかし現状は学校でのケータイは使用禁止、ネットはフィルタリング、ナイフは刃渡り何センチ以上は所持禁止。全て強制的制御が行われ、危険なものだから使わないという選択ばかりがなされ、技術を使用しないという選択は技術の発展を停滞させるだけである。
 また、僕自身が教育としてもしくは問題提起としているのは技術と経営の問題であり、例えばニセ科学の問題。
 ドライヤーと言う技術を売るためにマイナスイオンという付加価値をつける。しかしこれは科学としては現時点では間違いであり、多くの科学者はこれはだめだ時って捨ててきた、しかし技術と経営の視点で言えば、これは付加価値としてロマンを売っているのであり、消費者は科学的におかしいとわかっていてもロマンを買っているのである、と見ることもできる。これを是とするか否とするか。(現状では知らずに買っている人が多いから問題だという意見が多数派だと考えられるし)そういった技術を売るための経営の理屈と科学の理屈とに間で大きな齟齬が生じている。これらのトピックを教育で解決しようとするのであれば、科学教育でなく技術教育、特に技術と経営にまたがった領域における実践は個人的にこれからさらに必要性を増していくと思って研究してきたし、徐々に事例が報告され始めている。*5

一番の問題は前例・慣例主義

 それとともに考えたのは、今回科学技術における予算が減らされた時、次年度以降にそれが復活する見込みがないという前提で皆が語っていることである。これらの前例・慣例に基づいて一度無くなったものを復活させるのは難しいという前提こそ打破できないか。
 今年度は教育政策の整備に力を入れる、なので1年間予算を我慢してほしい、といった決定であればまた聞こえてくる声の質も違ったであろうし、それでも賛否両論ではあっただろうが、ムダに"官僚より俺の方がうまく科学の魅力を語れるぜ"競争などせずに一歩進めた提案が浮かんできたのではと考えている。
いずれにせよこの程度の一教師一意見で何が変わるわけではないと思うが、少なくとも研究費うんぬん以前に科学技術を扱う最低限の素養を持った国民が育っていない事、理数教育を増やしたところで技術教育・テクノロジーに関する教育の方が足りていないので先が詰まっていること、1000年以上前の戦争を学ぶより産業革命などにより技術が世界を変えてきた歴史を学ぶことの方が、社会にとっても個人にとっても有益だと考えている。

*1:大学における教育と研究についてであれば科学技術立国と研究費のこれから。 - 赤の女王とお茶をあたりを読むと良いと思います。

*2:http://twitter.com/h_hirakawa/status/6046434742

*3:個人的には科学的手続きを踏まずイメージだけの俗流若者論を展開するノーベル賞受賞者がいることに対して、科学リテラシーが発達に何の影響をもたらすものか、と考えているが。http://www.toyokeizai.net/business/interview/detail/AC/61a54e0ebb13b02dd8576b685156c164/

*4:本当はわかるけど理解したくない

*5:詳しく知りたければ起業家教育などで検索していただきたい

.@sirokumacoと技術と美術についてtwitterログまとめメモ

showgo大学時代お世話になった先生と丸の内で食べてきて、情報教育の先生方の努力について話を聞いた。大学教員が現場の教員とつき添い地道に実践を積み重ね独自に学会を作り、教科として誕生させた。受験5教科は権威と惰性で何もしなくとも発展するしその他教科は大学と現場の剥離が顕著。情報はすごい。 ( 2009-12-15 20:41:13 )
showgo工学部でも教育系の大学院に来て技術の先生になるってコースも知られてるいないは別として実は用意してある。なのに技術科に来ないで数学科や理科を選択する学生も多いのはやはり教科アイデンティティの魅力の問題だという話をした。確かに技術って何?を一言で答えられる教員は実感として少ない。 ( 2009-12-15 20:45:47 )
winnieholzmanで、技術って何? RT @showgo: 工学部でも教育系の大学院に来て技術の先生になるってコースも実は用意してある。なのに数学科や理科を選択する学生も多いのはやはり教科アイデンティティの魅力の問題だという話をした。確かに技術って何?を一言で答えられる教員は実感として少ない。 ( 2009-12-15 20:47:58 )
showgo哲学的命題でもあり、現在技術科における技術は「労働手段の体系」という経済の理屈が主流です。参考:http://bit.ly/6CQTJr http://bit.ly/4QqD3O RT @winnieholzman: で、技術って何? ( 2009-12-15 21:22:31 )
sirokumaco@showgo 技術科は周辺教科、数学と理科は主要五科だからじゃないかとか ( 2009-12-15 20:47:38 )
showgo@sirokumaco 主要5教科って何ですか?技術科は主要じゃないんですかね? ( 2009-12-15 21:22:57 )
sirokumaco@showgo 英国数理社が主要5教科=入試に必要になる教科、周辺教科は芸術、体育、技術家庭だったかと。 ( 2009-12-15 21:24:57 )
showgo.@sirokumaco だから主要って何ですか?技術が必要ない教科ってことでしょうか? ( 2009-12-15 21:26:20 )
sirokumaco@showgo 現行の入試制度では技術科で養った能力が測れないので、生活知として必要であると認識されていても、生徒の多数が普通高校へ進学する事を考えると、周辺に追いやられてしまっているのが現状ではないでしょうか。 ( 2009-12-15 21:29:50 )
showgo.@sirokumaco それくらいは熟知していますが、主要と言ういい方は教科に貴賎があるということを指しますよね。我々技術教員は技術はどの教科よりも主要教科であるというプライドを持ってやっています。世間の認識はどうあれ、教育に携わる方がそのものいいはあまり好めません、すいません ( 2009-12-15 21:33:47 )
sirokumaco.@showgo 言いこぼしがあったかもしれないので、再レスご容赦ください。技術科は社会の構成員として子どもが社会に出たときに必要だから、義務教育課程に設置されています。ただ、入試を視野にいれるとそれが変わってくるという事です。 ( 2009-12-15 21:34:15 )
showgo内容に対する認知度も我々技術教員の責任。我々が伝えたいのは職業教育としての技術科だけではありません。普通教育としての技術的素養です RT @sirokumaco: .@showgo 技術科は社会の構成員として子どもが社会に出たときに必要だから、義務教育課程に設置されています。 ( 2009-12-15 21:41:11 )
showgo我々は教科を教えるのでなく教科を通して教えるし、その内容は学問的には文化・文明の評価へと収束する。ただ教科すら満足に教えられていないという言葉は少なくとも僕は甘んじて受ける ( 2009-12-15 21:36:21 )
sirokumaco.@showgo わたしの専門領域は「周辺教科」の代表選手みたいな言われ方をされる美術科なので、周辺扱いされたり授業時間が削減されたり、行事の時だけ道具として取り上げられることに憤りは感じています。 ( 2009-12-15 21:36:28 )
showgo.@sirokumaco 美術は歴史を教えるうえでも設計を教えるうえでも非常に重要な教科だと思っていますよ。技術で教えるべきことの大半が美術科に取られている現状もあります http://d.hatena.ne.jp/showgotch/20091025/1256479650 ( 2009-12-15 21:38:29 )
sirokumaco周辺教科で爪弾きの憂き目にあってきた図工・美術科が、今教育学者のもてはやしに遭っているのがまた面白くない ( 2009-12-15 21:38:10 )
sirokumaco@showgo ものづくり科がどのように現場に働きかけがしうる教科になるのか、楽しみですね:-) ( 2009-12-15 21:39:59 )
showgo.@sirokumaco ものづくり科もものづくりの本質を教えられる教員がどれだけいるかという問題もはらみます。技術ですら半分が副免や臨免と言う指摘がなされています。確かに楽しみですが本当にほしいのは高等学校における技術教育教科です。 ( 2009-12-15 21:44:16 )
sirokumaco.@showgo 高校の時は技術科の授業がありませんでした・・・(たぶん女子高だったので、すべて家庭科に置き換えられたのかもしれません) ( 2009-12-15 21:47:14 )
showgo.@sirokumaco 技術科は中学校の3年間だけしかありませんよー、女子校の大半はそれも家庭科に置き換えられるらしいですね。情報も技術とは重なるけど異なりますしね。 ( 2009-12-15 21:50:56 )
sirokumaco.@showgo あー、びっくりした!w あたふたしましたw 現行では、技術科は工業扱いで専門の高校に行かないと学習が継続できない、ということでしょうか? ( 2009-12-15 21:54:13 )
showgo.@sirokumaco むしろクラフトマンシップこそものづくり科で教えるべきかなと思っているのですが。それこそ設計生産とその周辺は技術で、工芸は美術でが個人的には理想です。感性なんてほっといても身につくわけですし、作品の裏の政治的メッセージを読みとる訓練も美術でやってほしいです ( 2009-12-15 21:54:17 )
sirokumacoイデオロギーや宗教は教育から排除したけど、それでも美術の中ではのらりくらり生き残れたのかしら・・・/うー うー ( 2009-12-15 21:56:55 )
showgo.@sirokumaco 技術科の接続は工業科、工業高校、高等専門学校だけですね。普通高校ではぽっかり穴があくことも技術科教員志望が少ない原因だろうという話を今日大学の先生としてきました。 ( 2009-12-15 21:56:26 )
showgo技術を理科科に統一しちゃって科学技術にしてもいいけど、その中で技術の社会的側面を教えられる先生がどれだけいるのかという問題が大きい。理科の先生が産業革命を教えられるのか問題。 ( 2009-12-15 21:59:57 )
sirokumaco.@showgo お聞きしてもよろしいでしょうか?工業科、工業高校、高等専門学校の教員は、教育学部出の先生よりと工学部出の先生の割合はどのようになっていますか? ( 2009-12-15 21:58:51 )
showgo軽く検索して見たのですがこれ(PDF)見る限りはほとんどが工学部出身のようです http://bit.ly/7c3lwx RT @sirokumaco: .@showgo お聞きしてもよろしいでしょうか?工業科、工業高校、高等専門学校の教員は、教育学部出の先生よりと工学部出の ( 2009-12-15 22:10:37 )
sirokumaco中学校の技術科の教員も採用数少なそう...教育学部の技術科を出ても、就職する先って学校以外がメインになりそう。他教科だって、そうなんだけど。 ( 2009-12-15 22:00:52 )
showgo技術が技能教科と思われているところも微妙だな。複雑な社会科だって受験で評価できるんだから技術だってできる。ただフランシスコザビエルよりトラス構造の方が大事だ!とかいう不毛な話をするんじゃなくてするなら密接に関連してるよって話だよな。 ( 2009-12-15 22:15:06 )
sirokumaco@showgo ありがとうございます!! ( 2009-12-15 22:18:04 )
showgo数学理科のようなラジカルな教科と社会科技術科のような複雑な教科、美術音楽家庭科のようなブルジョアジーの作法(と思われてきた)教科とごっちゃになってる事はたびたび指摘されるんだけど、じゃぁ教科再編論としてどんな案があるかと言うと非常に難しい。 ( 2009-12-15 22:18:14 )
sirokumaco社会科は教科内に色々盛り込みすぎという指摘が有り、家庭科はブルジョアジーというよりも良妻賢母育成、音楽は専門外なのでわからず(これはブルジョアジーと言えるのではないだろうか)、美術はもっと反骨精神に溢れてるような・・・ ( 2009-12-15 22:20:49 )
sirokumaco音楽科は綺麗なスカートと高いヒールでバイオリン背負って楽譜持ちながら構内を歩いてて、語学の授業は甲高い声で楽しそうに話し、先生に嬌声を発しているイメージ ( 2009-12-15 22:24:17 )
sirokumaco美術科はどこでも座れるし絵の具で汚しても構わない服装、授業で夏場にハンダ付けとかバーナーを使うときがあると化粧どころではない、「個性的だよね」の一言で無難にまとめられてしまう集団 ( 2009-12-15 22:25:29 )
showgo技術の教員免許をとれるのが一県一大学とか言う現状がある。その県の技術の先生は大体その大学の派閥。ただし出身校なのにあんまり訪問してくれないとかもザラ。そして大学教員も数名(1桁5〜6名程度)とかザラ。 ( 2009-12-15 22:28:22 )
showgoRT @ts_pawn: 高専の教員は,例え一般科目といえども博士が多いという事実はあまり知られていないのだな,と再認識した.15歳に教えるにしちゃあオーバスペックだよな. ( 2009-12-15 23:36:30 )
heis101オーバースペックなのかな。それだけ高専は教育が充実している、とも取れる。RT @showgo: RT @ts_pawn: 高専の教員は,例え一般科目といえども博士が多いという事実はあまり知られていないのだな,と再認識した.15歳に教えるにしちゃあオーバスペックだよな. ( 2009-12-15 23:39:51 )
golden_wheat高専て確か大学レベルに踏み込んだ教育を行っていた気が。 @heis101
RT @showgo: RT @ts_pawn: 高専の教員は,例え一般科目といえども博士が多いという事実はあまり知られていないのだな,と再認識した.15歳に教えるにしちゃあオーバスペックだよな. ( 2009-12-15 23:43:19 )
ts_pawn目的と実態が乖離しているとは思います. RT @heis101 オーバースペックなのかな。それだけ高専は教育が充実している、とも取れる。RT @showgo: RT @ts_pawn: 高専の教員は一般科目でも博士が多い ( 2009-12-15 23:45:53 )
showgo「工業の教員免許は特例法により教職に関する科目の一部、又は全てを教科に関する科目で代えることが可能ですので、教職に関する科目を履修することなく免許が取得できます。ただし職業指導4単位が必要です。」http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2614937.html ( 2009-12-16 00:17:05 )
showgo技術教育って言葉自体が混乱させてるんだよなー、テクノロジー教育、略してテクノ教育とかにすべきだろうけど、学問的な使い方じゃないから普及しないだろうなー ( 2009-12-16 00:33:34 )
byhttp://tool.hrkt0115311.org/twitter_log_with_time/



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教育機関の監査組織の必要性

showgo性の乱れや洗脳教育を行うのが日教組民主党がそこと組んでいてというパンフを見つけて噴飯。日教組なんて教員の2割も参加してなくてさらに深くコミットしてる人なんてその中の何割か。ほとんどありもしない思想を持ち出して教育不安をあおるのは公務執行妨害の域 ( 2009-09-15 15:59:50 )
komorebi同感です RT @showgo: 性の乱れや洗脳教育を行うのが日教組民主党がそこと組んでいてというパンフを見つけて噴飯。日教組なんて教員の2割も参加してなくてさらに深くコミットしてる人なんてその中の何割か。ほとんどありもしない思想を持ち出して教育不安をあおるのは公務執行妨害の域 ( 2009-09-15 19:37:59 )
winnieholzman@showgo 同感です。一部のトンデモ教員を排除するなら、民主政策にある学校理事会を実現すればいい。保護者や地域住民がどんどん学校に入って、日教組うんぬん関係なくトンデモ教員を糾弾すればいいわけです。 ( 2009-09-15 21:01:12 )
showgo現場の負担って変数を考えない人が多いので理事会とか慎重に進めてほしいですというか教育委員会を拡充してうまく機能させれば実は済む話ですよ。RT @winnieholzman: 一部のトンデモ教員を排除するなら、民主政策にある学校理事会を実現すればいい。 ( 2009-09-15 21:23:06 )
makonabe理事会作って仕事倍増^^ RT @showgo: 現場の負担って変数を考えない人が多いので理事会とか慎重に進めてほしいですというか教育委員会を拡充してうまく機能させれば実は済む話ですよ。RT @winnieholzman: 一部のトンデモ教員を排除するなら、民主政策にあ ... ( 2009-09-15 21:25:28 )
winnieholzman@showgo 保護者も一緒に教室に入ってティームティーチングしながら普段の教員の仕事をみていけばいいんじゃないでしょうか。授業をやる難しさも子どものようすもわかるでしょうし。理事会で物を申すだけではおっしゃるとおりむしろ悪化すると思います。 ( 2009-09-15 21:39:57 )
showgo@winnieholzman その実践結構進んでるみたいですよ、普及はされてないみたいですけど。自発性の原理で、仕組みとしてそれを強要しちゃうと良い結果が生まれないんですよ。学校のリーダー格の人が地道に説得して仕組みを作り上げるしかないんですよ ( 2009-09-15 21:47:29 )
showgo普及は正義 ( 2009-09-15 21:49:32 )
makonabe私は"何を学ぶか"のほうが大事だと思っていて、その上で"学費無償"などを論じる必要があると考えています。 RT @hatenademian: とりあえず学費無料、でも卒業認定は厳しく、でいいんでないのと。 RT @F_name: RT @makonabe: あたかも卓越 ... ( 2009-09-15 21:32:13 )
makonabe卒業認定を厳しくだと「現行のカリキュラム」でという意味になるので、カリキュラムのほうということです。 RT @hatenademian: 卒業認定を厳しく、というのでいいのでは?カリキュラムのほうということでしょうか? RT @makonabe: 私は"何を学ぶか"のほ ... ( 2009-09-15 21:37:03 )
makonabe学費無償というと義務教育化とか公立学校化という話になってしまいがちだから、それは手段であって目的ではないと。 ( 2009-09-15 21:39:10 )
makonabeそうですね。加えるなら卒業を厳しくするなら機関評価も設けるのが筋だと考えています。 RT @hatenademian: そこらへんはまたいろいろありそうですね。大学レベルでもあるしなあ。卒業を厳しくしてカリキュラムも改善、のセットで。 RT @makonabe: 卒業認 ... ( 2009-09-15 21:43:35 )
showgo学校を卒業しなきゃ人並みじゃない、みたいな不安の払しょくはもう無理ですかね。目的のない学歴社会みたいな RT @makonabe: そうですね。加えるなら卒業を厳しくするなら機関評価も設けるのが筋だと考えています。 RT @hatenademian: そこらへんはまた ... ( 2009-09-15 21:49:07 )
makonabe私は何を学んだか、どれだけしっかり学んだかで評価される社会は良いと思っています。そうしないと偏見なんぞ払拭できないではないか。という立場です。 RT @showgo: 学校を卒業しなきゃ人並みじゃない、みたいな不安の払しょくはもう無理ですかね。目的のない学歴社会みたいな ... ( 2009-09-15 21:52:20 )
makonabe正義心や義侠心に厚い(学校教員のような)人ばかりが世の中にいるわけではないのですから。 ( 2009-09-15 21:53:18 )
showgoうーん、何かが曲がった人が多いとすればそれは発達の過程の問題で何を学んだ出なく何を経験したかに左右される気がするのです。それを評価するというのも難しいような RT @makonabe: 正義心や義侠心に厚い(学校教員のような)人ばかりが世の中にいるわけではないのですから。 ( 2009-09-15 21:59:12 )
makonabe人間教育の観点からならそういう反駁なんだろうと思いますが、私はどちらかというと人材教育や職業教育のほうにシンパシーを感じる人なので。私から言わせると"心が曲がってるから駄目だ"なんて"評価"がまかり通るほうが怖いですよ。 RT @showgo: うーん、何かが曲がった人 ... ( 2009-09-15 22:01:16 )
makonabe@showgo 私のレスも的はずれだけど、私が「機関評価すべき」と言ってるのは、OFSTEDのような監査機関を想定した言葉なので、もうその時点で噛み合ってないかと思います。 ( 2009-09-15 22:05:52 )
showgo教育水準局、今調べてみました。水準の達成評価は僕も賛成です。 @makonabe: http://twitter.com/makonabe/statuses/4003872787 ( 2009-09-15 22:16:09 )
showgo@makonabe ただ社会性や人格の話と自己肯定感などの話とは切り分けるべきかなと思っています。普段はいい人だけどキレると怖い人をどう評価するかなど難しいところですよね。教育より医学分野の仕事ですし。 ( 2009-09-15 22:16:52 )
showgo@makonabe また監査が厳しすぎて教師が自殺した事例なんかも出てきました。日本にあった導入の仕方などもあるのでしょうね。水準についてちょっと調べてみますね。情報ありがとうございます。 ( 2009-09-15 22:18:12 )
makonabe@showgo 「社会性や人格の話と自己肯定感」というよりも、出席率はどうか(在籍率はどうか)だとか、GCSEの成績はどうかだとか、の評価になります。BBCなどで実際にどういう評価なのか見れますし、レポートも出されています。参考までに。: http://j.mp/11nnhb ( 2009-09-15 22:22:55 )
showgo@makonabe ありがとうございます。その評価は受験の時に進学先に提出されたりするので日本では実質受験がその装置に当たるわけですね ( 2009-09-15 22:26:52 )
makonabe@showgo 日本の文献は、安倍内閣前後で批判を浴びたり賞賛を浴びたりしたものが多いので、論文や海外記事(先ほどのOFSTEDの実際のレポート)を見てみるほうが公平に見ていくことができてお勧めです。論文ならたとえばこういうものとかかな。: http://j.mp/13wv4G ( 2009-09-15 22:28:02 )
makonabe@showgo 日本の場合だと表簿だとか要録とか少し前からやってる自己評価もそうなのかな。"教員"だけがその権力を持つのではなく、それを公的にオーソライズする、というのがOFSTEDの意味(必要性)なのかなあとは思います。 ( 2009-09-15 22:30:51 )
makonabeそろそろOfstedに関する一般書籍がでてきてもいいんだろうけど。 ( 2009-09-15 22:31:33 )
makonabe推薦やAOがどんだけ公平なんかと。 ( 2009-09-15 22:38:27 )
showgo@makonabe ありがとうございます。タダ予算は先に教員の補充に当ててほしいという願いはありますね。小学校での監査は可能ですが、中学では技術・家庭の教員が不足しており臨時免許でのその場しのぎも多い。ましてや技術の本質がわかっている先生も少ない。職業や産業教育の大きな欠陥です ( 2009-09-15 22:55:15 )
showgoそっか、税金の使われる目的の大半が「不安の解消」におかれるわけか。悪いことじゃないけれど ( 2009-09-15 22:56:33 )
makonabe@showgo そうなんですよね、ただそれくらい教員は信用されていないし、教育はもっと信用されていないと思うべきでしょう。というのが一点と、そうした監査が行われることで問題が人々の意識の上にのぼってくるのだと思います(そうしなければ属人論批判で終わってしまいます)。 ( 2009-09-15 23:19:32 )
makonabe@showgo 確かに職業や産業教育の欠陥というのは、かつての経団連自民党政権下でとられた(大きな)政策を見ていくと、言えることではないかと思います。しかし、その時、教育界は何をしていたのかを見ると腹立たしい気持ちは抑え切れません。 ( 2009-09-15 23:20:41 )
makonabe@showgo 人事行政に大きな問題がある、そういうことを意識の上に載せたいし、それはもっと公の話題であるべきなのです。そうした問題はあるのに情報がでてこない、そういう体質があるのはなぜなのか? そこを問いたい。 ( 2009-09-15 23:21:48 )
makonabe@showgo 教育界が少ないパイの奪い合い(「そんなことをするならこっちによこせ」と言うようなこと)をするのではなく、パイの拡大と、パイを拡大すべきだという意見の一致を持つことが大事だと思っています。 ( 2009-09-15 23:23:13 )
makonabeその際の立論の仕方が空中戦ではなく、現実の問題に沿った形で、その世界に住む人が分かるようなイデオロギーに沿ったものではなく、確認可能な形・検証可能な形で取り組めるように。 ( 2009-09-15 23:25:15 )
makonabe「○○教科の担当の先生が良くない」「なんで○○の教科の教員は臨時免許の教員なんだ」「先生が悪い、学校が悪い」→「人事を掌握しているのは行政なので…」「じゃあ行政が悪いんだ」→「こっちだって苦肉の策でやってんだよ」「そんなことなら、お前、その免許取る覚悟あるのか」「私の生活が…」 ( 2009-09-15 23:34:09 )
makonabe教員免許の開放制は良い制度だと思うけど、おかげで教員確保の問題が浮上してきたと。 ( 2009-09-15 23:34:51 )
makonabeコミュニティ・スクールはそこまでのことを"変えていく"力のあるものなのかなあ。地域主権型教育とかいって、俺たちの地域のための教育というのがお題目にあがるだけでいいのかなあ。もっと泥臭いところにまで踏み込まないと駄目なんじゃないかなあ。 ( 2009-09-15 23:36:22 )
makonabe表面上の病に対応する(たとえば地域主権型教育)だけではなく、教育の根本の問題(たとえば人事)に踏み込めないものか。いやいや地域主権型教育で日本は生き残れるのか。そっちのほうが心配だorz ( 2009-09-15 23:38:14 )

@makonabeさんと議論していろいろ面白い知識を教えていただきました。
そこで感じたのは、行政は認識の確立より先に安全安心の確保を優先してしまうのではないかということ。
リスクマネジメントとしての安全確保・安心確保の導入は工数が増えコストが増える。一方で人的増員は認められない現状が教育現場で続いている。
民意が反映されどんどんと束縛の強い社会になり、息苦しさを感じる。教師はプライベートと仕事の切り分けが一番薄い職業であり、常に聖人君子として振舞うことを強いられる。本当に強い正義感や義務感がないと続けていけない仕事だと思います。
競争原理や圧迫を導入せず質の向上を続けていくのが理想なんでしょうが、その理想にかなう具体的な方法としては完全な自己啓発型研修の導入位しか思いつきません。ただ適度な制約と時間を与えることでアクティビティ(≠カリキュラム的な意味)を増やすことは可能でしょう。

まとめてて気付いたんだけどやっぱりtwitterは話題が枝葉のようにどんどん拡散していく、一長一短なサービスだなぁ。

しつけ問題への雑感

これはヒドい! - シートン俗物記
http://d.hatena.ne.jp/gerling/20090913/p1
「俺の邪悪なメモ」跡地
http://d.hatena.ne.jp/workingmanisdead/20090913/1252839645
汝の隣人のブログを愛せよ | LOVELOG

学校を介した問題の場合少々複雑になる上、ステークホルダーが両親、子ども、教師、児相、新風と多すぎるためシンプルには書き表せないかもしれない。教育問題は自分の経験と教育に対するスタンスを示すだけで思考停止しがち。何が正しいなんて20年後にしか評価できない世界なので、何が論点でどこを評価すべきかをまず考えたい。

日本人のしつけは衰退したか―「教育する家族」のゆくえ (講談社現代新書 (1448))
広田 照幸
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おすすめ度の平均: 4.5
4 昨今のしつけ
4 教育責任の主体は、「教育者」だけではなく「子供の周りの人全て」という観点のコミュニティ論。
5 メディアの無責任さがよくわかる
5 親バッシングにNO!
5 目から鱗のしつけへの意識の変遷

1.不安の問題

 すべての元凶はすべての人が何かに不安を持っていることである。
 まず子どもについて、学校側としては、子どもが家庭に安心を感じているか、不安の払しょくを最優先する。
 我々教員はすぐに叱って罰則を科してあとは野となれ山となれ、と思われがちだが、教師のノウハウとしてはまず安心できる場所や信頼関係を作り、それから叱るということが大前提だ。
 まず、怒られたときの逃げ場を確保すること。子どもがもし保護者に怒られた場合、担任の元に駆け込めるか、担任にも怒られた場合児童生徒同士でフォローできる環境を作っているかが重要になる。
 今回の件で子どもが先生に体罰の話をして発覚したのであればは子どもが学校に安心を感じることができるように学級運営がうまく働いていたと評価していいと思う。
 
 次に父親・母親の不安の問題だ。
 父親の書いた文章を見た限り、ひたすらに理論武装して納得を求めようとする書き方がされている。彼は動物主義*1のしつけ観である。
 母親も、自分のしつけ観について、実は不安を感じていたのではないかと思う。息子がADHDであったということは、周囲に迷惑がかかり気まずい経験を多々してきたことだろう。ADHDと診断されたところで、世間が自分に対して寛大ではない気がする、躾の一つもできないのかと自分の存在価値や能力を批判されている気がするという疑心暗鬼に陥ったのではないか。その手の介護における労力や無理解はいまだに日本中に残っている。両親がそれらの不安から理解や承認を求めるためにウェブ上に文章を公開したのではという見方もできる。
 
 もっと言うと学校側の不安も想像に難くない。虐待をしていることでなく、虐待と思しき行為を放置したことに対する社会からのバッシング、これは学校側の監視のための労力コストが予想以上にかかりすぎるということ以外に反論の余地がない。お前らの学校があざを見て放置した、何かあった時にどう責任を取るつもりだ?と、現場は平気で必要以上のリスクマネジメントを主張される。

2.関係性の問題

 次に信頼関係、相手に何かを告げる場合心理学ではおなじみだが、会話、特に相手に話してもらうことによって「ラポール」という親近感を抱かせることが大前提となる。
 簡単にいえば躾を言葉で行おうと体罰で行おうと、このラポールが成立していない限り、タダの恐怖体験でしかない。
 生活に支障をきたすレベルでの体罰でない限り、身体はすぐに回復し成長し傷とともにその体罰の記憶は消えていく。
 一方で身体に刻みつくのはただ信頼している相手から裏切られた、もしくは信頼していない人から暴力を受けた、といういわゆるトラウマである。もちろん相当印象深い出来事でもない限りたかが一回や二回でなるモノでもないが、若いうちは自分に関係する人間が少ないことから裏切りと否定を含む暴力はかなり大きな恐怖となる。

3.賞罰は必要

 躾という言葉を使うと大人の理屈、大人の行動を表す言葉になる。教育の世界では発達という言葉を使う。我々の仕事は発達の促進である。
 道徳性の発達において賞罰は必要だ。ただこの罰に体罰を用いるのが妥当かという問題が語られ出したのはここ100年に満たないのではないか。
 道徳性の発達においてはコールバーグの発達の6段階がよく用いられる。
 わかりやすいのは以下だろう。
http://www.nuclear.jp/~madarame/lec1/develop.html
 道徳性の発達の段階で、賞罰を基準に行動をする時期というのは必ず通過点としてある。
 それから徐々にルールを守るメリットとデメリットを考えるようになり、徐々に(一見)反抗的になってくる。
 また現代にいたっては帰属するコミュニティごとにルールが違い、正しさについても非常に相対的、曖昧になっている。人に迷惑をかけないという大原則はあっても、何を持って迷惑とするかという基準自体が揺らいでおり、体罰をはじめとする恐怖でしつけることはその基準を考える行為自体を停止させてしまい、
 また、生きすぎたしつけを行うと、一部の子どもに「悪いことをしても隠す」という行為が散見されるようになる。
 それに対して隠すことは悪いことだとまた厳しいしつけを行うとダブルバインド(板挟み)状態となり、常にストレスを抱えた状態で生活することになる。これらの状態で健全に発達せず身体に異常をきたす例というのも近年頻繁に報告されている。
 躾にとって、大事なのは伝えることでなく、伝えてその後の行動が変わるかである。安い子育て本のように「悪いことをしたときに叱るのでなく良いことをしたときにほめましょう」などというつもりはない。
 あくまで人間関係の上に成り立っている行為というのは前提として意識しておいた方がよい。その行為が体罰かしつけかの切り分けは主観的であり、その行為がじゃれあいかいじめか位に切り分けがむずかしいが、その基準の一つとなりうるのがこの親近感を感じているか、信頼関係が形成されているかという視点であり行為ばかりに正当性を求めても水掛け論となる。

4.日本のしつけの問題

 この話を聞いた時、新井理恵という僕の大好きなひねくれ漫画家が十数年以上前の漫画での「子どもは母親にとっては着せ替え人形、父親にとっては他人である」という言葉を思い出した。両親AC(アダルトチルドレン)の可能性もあるのではないか、という見方もできる。アダルトチルドレンとは、例えば親から体罰を受けて育った子どもが大人になった時、自分の子供にも同じような躾を行う傾向があるという現象を指す。ACの親は、子供に愛情を感じにくい、与えにくいといわれる。

 日本のしつけが厳しくなったかゆるくなったかという問題は広田照幸氏が「日本人のしつけは衰退したか―「教育する家族」のゆくえ (講談社現代新書 (1448))」において躾においては社会が「完ぺきな両親」を求めることで子育てにおけるプレッシャーの問題や貧困問題や都市-郊外問題なども含め指摘しており、親にとっては子育てに費やす時間の余裕がある「好ましい時代」である一方で、「つらい時代」であるとも述べている。さまざまな知見がかいてあるのだが、我々の考える素行の悪い親が体罰を行うというイメージとは裏腹に、しつけは高学歴層・中産階級以上の問題であるとも指摘している。
 例えば実験において、子どもが帰り途にチョコレートを食べたいと言い出した時に

高学歴層の母親はしつけを重視し子どもの欲求を押さえつけるものが多いのに対して、低学歴層の母親はこどもの欲求にできるだけこたえてやろうとする者が多い。子どもの欲求にすぐに答えてやるかどうかで階層差がみられるのである。

掲載してある1993年のデータでは「叱って取り合わない」という回答が31.5%を占めている。

躾の問題は、経済的な余裕などの問題を背景に、しつけ過剰としつけ放棄の二極化していることであると指摘する。
児相と政治との問題はこのエントリでは省いたが、まずはしつけをデータを用いず熱心に語ることで皮肉にも社会不安や(当事者だけでなく一般的な)親たちの子育て不安が増大されることは指摘しておきたい

うちのガンダムがお騒がせしました

本日8時ごろ、寝ていたらいきなり家が揺れ出した。その地震は強くはないものの1分くらいだろうか、長く揺れ続けていた。

その後、僕がWEBを回っていると一つの回情報に接したためtwitter上で発言して情報を募ってみた。

showgo地震ガンダムが倒れたって本当? ( 2009-08-09 20:26:05 )


という訳でtwitterのタイムライン上で小さなお祭りが。


runeharstガンダム大地に立つ がリアルに再現される予感 RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? ( 2009-08-09 20:30:38 )
mikeexpo未確認???RT @futamegawa: まじで? RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? ( 2009-08-09 20:31:12 )
kz1979なわけないよー。RT @mikeexpo: 未確認???RT @futamegawa: まじで? RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? ( 2009-08-09 20:32:56 )
toshi_gt250ほんと!?まだ見てないのに!! RT @mikeexpo: 未確認???RT @futamegawa: まじで? RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? ( 2009-08-09 20:33:01 )
takuwan3388!?RT @mikeexpo: 未確認???RT @futamegawa: まじで? RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? ( 2009-08-09 20:33:12 )
0shunほらきた、前は「ガンダムに雷落ちて燃えた」ってのがあったしなぁ RT @mikeexpo: 未確認???RT @futamegawa: まじで? RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? ( 2009-08-09 20:35:03 )
xsinonちょっうそっ RT toshi_gt250 ほんと!?まだ見てないのに!! RT @mikeexpo: 未確認???RT @futamegawa: まじで? RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? (1分前) ( 2009-08-09 20:35:09 )
tabbataうそ〜ん! RT @futamegawa: まじで? RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? ( 2009-08-09 20:37:23 )
agni99やれやれ・・・また僕に現場にいけっていうのかい?RT:うそ〜ん! RT @futamegawa: まじで? RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? (via @tabbata) ( 2009-08-09 20:38:32 )
guririまたガンダムデマが。 RT @tabbata: うそ〜ん! RT @futamegawa: まじで? RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? ( 2009-08-09 20:38:53 )
JyaRaどっかの家のフィギュアじゃあるまいし RT @tabbata : うそ〜ん! RT @futamegawa: まじで? RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? /WS020SH ( 2009-08-09 20:38:53 )
shigotanoこのTLに現場付近にお住まいの方はいらっしゃいませんかー? RT: @tabbata: うそ〜ん! RT @futamegawa: まじで? RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? ( 2009-08-09 20:38:58 )
konity5246月半ばに落雷でラストシューティング状態になったっつ〜デマもありましたなw 思わず見に行ったけどw RT @tabbata: うそ〜ん! RT @futamegawa: まじで? RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? ( 2009-08-09 20:39:52 )
yamotoshiガンダムが倒れた方が地震凄そう RT @tabbata: うそ〜ん! RT @futamegawa: まじで? RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? ( 2009-08-09 20:40:05 )
sueshRT @tabbata: うそ〜ん! RT @futamegawa: まじで? RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? ( 2009-08-09 20:40:12 )
yuuka本当らしい。RT @yamotoshi: ガンダムが倒れた方が地震凄そう RT @tabbata: うそ〜ん! RT @futamegawa: まじで? RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? http://bit.ly/5bYZf ( 2009-08-09 20:40:36 )
akashi_yamamotoそれぐらいで倒れていたらマズいでしょう。RT @tabbata: うそ〜ん! RT @futamegawa: まじで? RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? ( 2009-08-09 20:40:55 )
Assumeな、なんだってー!! RT: .@yuuka
yuuka本当らしい。RT @yamotoshi: ガンダムが倒れた方が地震凄そう RT @tabbata: うそ〜ん! RT @futamegawa: まじで? RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? ( 2009-08-09 20:43:18 )
Taruryun誰か真偽をたしかめてくれー! → RT @Assume: な、なんだってー!! RT: .@yuuka yuuka本当らしい。RT @tabbata: うそ〜ん! RT @futamegawa: まじで? RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? ( 2009-08-09 20:44:49 )
tellalie97!!!RT @tabbata: うそ〜ん! RT @futamegawa: まじで? RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? ( 2009-08-09 20:45:15 )
hazardlamp見に行けばよかった・・! RT @tabbata: うそ〜ん! RT @futamegawa: まじで? RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? *Tw* ( 2009-08-09 20:45:29 )
yuukaソースどこだー!RT @Taruryun: 誰か真偽をたしかめてくれー! → RT @Assume: な、なんだってー!! RT: .@yuuka yuuka本当らしい。RT @tabbata: うそ〜ん! RT @futamegawa: まじで? RT @showgo ... ( 2009-08-09 20:46:28 )
knowsur何その綺麗なオチ RT @hazardlamp: 見に行けばよかった・・! RT @tabbata: うそ〜ん! RT @futamegawa: まじで? RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? *Tw* ( 2009-08-09 20:47:12 )
HeroesCRT @shigotano: このTLに現場付近にお住まいの方はいらっしゃいませんかー? RT: @tabbata: うそ〜ん! RT @futamegawa: まじで? RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? ( 2009-08-09 20:48:05 )
ryo178ありえなくも無い、あったら絵になりそうだ(笑)、事前に耐震調査とかしてないのかな?  RT うそ〜ん!  RT @futamegawa: まじで? RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? ( 2009-08-09 20:49:28 )
mathil_daここまでくるとわからんw RT @yuuka: ソースどこだー!RT @Taruryun: 誰か真偽をたしかめてくれー! → RT @Assume: な、なんだってー!! RT: .@yuuka yuuka本当らしい。RT @tabbata: うそ〜ん! RT @fut ... ( 2009-08-09 20:50:15 )
showgoガンダム信用できるソースが出てこないあたり嘘っぽいな。デマ広めてごめんなさい。こんなの見つけたhttp://bit.ly/wAghy ( 2009-08-09 20:48:31 )
futamegawaなんだーガセなのかー「ガンダム、大地をレイプ!」 RT @showgo: ガンダム信用できるソースが出てこないあたり嘘っぽいな。デマ広めてごめんなさい。こんなの見つけたhttp://bit.ly/wAghy ( 2009-08-09 20:50:45 )
miz0309間違えた。こっちRT @tabbata: うそ〜ん! RT @futamegawa: まじで? RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? ( 2009-08-09 21:06:55 )
maznohRT @tabbata: うそ〜ん! RT @futamegawa: まじで? RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? ( 2009-08-09 21:14:11 )
attripRT @tabbata: うそ〜ん! RT @futamegawa: まじで? RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? ( 2009-08-09 21:36:21 )
showgoお台場ガンダム地震スレ 二つ http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/liveplus/1249816519/ http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1249816559/l50 ( 2009-08-09 20:50:06 )
showgoさっきのガンダムでフォロワーがめっちゃ増えた。フォローしてほしい人は話題性のあるデマを流すといい ( 2009-08-09 21:42:39 )
t_masanoriその一人.RT @showgo: さっきのガンダムでフォロワーがめっちゃ増えた。フォローしてほしい人は話題性のあるデマを流すといい ( 2009-08-09 21:44:10 )
Assumeけっきょく、お台場ガンダム生存確認でFA? .@yamotoshi .@Taruryun .@mathil_da .@yuuka .@tabbata .@futamegawa RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? ( 2009-08-09 21:45:23 )
yuukaおkっぽい。RT @Assume: けっきょく、お台場ガンダム生存確認でFA? .@yamotoshi .@Taruryun .@mathil_da .@yuuka .@tabbata .@futamegawa RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? h ... ( 2009-08-09 21:46:42 )
kawajun0327ガンダムデマわらた。RT @guriri またガンダムデマが。 RT @tabbata: うそ〜ん! RT @futamegawa: まじで? RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? ( 2009-08-09 22:45:04 )
leach_df7bマジ?!RT @tabbata: うそ〜ん! RT @futamegawa: まじで? RT @showgo: 地震ガンダムが倒れたって本当? (via @attrip) ( 2009-08-09 23:08:53 )
takeoriガンダム地震で一度倒れたけど、誰かが乗り込んで「こいつ…動くぞ…!」とかエネルギーゲインがどうのこうの言って起き上がった。今は緑色のモノアイのロボと対峙してる。お台場は広域避難勧告が出てる。 ( 2009-08-09 21:05:48 )




Googleニュースで確認したところガンダムが倒れたというような記事は見当たらなかった。
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2009/07/11/09.html
によると地震にもつよいらしい。

どうやら真相は2chあたりで前々から、地震が起きたらガンダムの名場面再現できるんじゃないか?的なネタ(元ネタ不明)から今回の地震のタイミングに合わせて発信されたデマだった模様。皆さま大変お騒がせしました。又機会があったらやりたいと思います。


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機動戦士ガンダム ギレン暗殺計画 (3) (角川コミックス・エース 83-7)GUNDAM FIX BOX機動戦士Zガンダム メモリアルボックス Part.I [Blu-ray]機動戦士ガンダム戦記( 初回生産分:「機動戦士ガンダム戦記 アバンタイトル」フルHD完全新作アニメーション視聴用プロダクトコード同梱)SUPER HCM Pro ユニコーンガンダム

英語教育を充実させると人材が海外流出するというジレンマ


 やりがいの世代のやりがいの感じ方は二つ、一つは自分が大きなものに包摂されていると感じること、もう一つは自分が大きなものとして包摂することである。
 前者は大企業や仕事の地位が高いこと、もしくはそんなものを取っ払って多忙でインセンティブの少ない環境を与えると「賃金が薄くても今の仕事にやりがいがあるから今の会社に所属しているんだ!」と倒錯をおこすなんて指摘もしばしばおきる。
 後者はいわゆる自分探しで、たとえば海外で自分より恵まれない他者に世話を施すことで自分の安定感、すなわち自己肯定感を感じるということだ。やりがい世代とはすなわち自己肯定感の得とくを生活の目的とした世代である。
 86年、リクルートのCMで使われた「ヤリ貝」なるものが流行し仕事の価値=お金"だけ"という価値観が徐々にやりがいにシフトしていく。95年、経団連が発表した「日本的経営」の指針によりいわゆる派遣を中心として会社を回そうという方向転換が始まる。結果仕事は楽しいけどお金が…という若者現状はもう言わなくても語りつくされているだろう。
 一方でこれだけ労働環境の悪化と経済格差とを学び、秋葉原の通り魔事件や貧困や孤独死をニュースで見た世代はどうなるのだろうか。日本は無宗教国家であり、頼るものがない。柳田國男はそこに「風土」に安心感を得、風土の変化による日本人の質の変化を語ってきた。現代の、そしてこれからの若者たちは逆である。自己肯定感の無さを自分の育ってきた風土、それから社会にぶつけ、日本の土地にぶつけ出す。
 5年後のインターネットはどうなっているだろう。ゾーニングは確実に進むだろう。だが(いわゆる)有害情報の排他は一定率以上できないのは目に見えている。アクセス環境と高度な複雑な情報をアウトプットを簡易にする技術ばかりが発展する。もしかしたら人は考えなくてよくなっているかもしれない。ケータイを一つ押せば「今日は北へ行きましょう」「今日はお茶を買って仕事に行きましょう」などと、高度に発達したノウハウの集合体、「クラウド」と呼ばれて流行らせようとしている何かが自己肯定感の低い若者たちに占いのように指針を示しているかもしれない。
 だが、僕はそれはないと思っている。人口密度が増えすぎると不快を感じるように、情報アクセス環境が一定の密度を超えると、これまた人間は不快に思いだすんじゃないかと思うのだ。地方でも仕事できるじゃん、と地方に逃げ出す者、情報端末を一切排除する者、今まで通り引きこもって自分の密度を保つ者。情報端末に対しての風当たりはさらに強くなっていく気がしている。
 お金で生活していく以上日本はこれからどうイノベーションを起こしていくかというハードウェア産業の問題がある。高度に発達しすぎた制御システムを持つ家電製品、ありもしないマイナスイオンなどの付加価値を高めようとするニセ科学産業は繁栄するだろうが、貧困社会ではエリート志向が進むだろうから進学競争に突っ込んでそこそこのリテラシーを持った層はたくさん育つしそういう人たちにしかお金が集まらないかもしれない。お金が集まらない人たちに付加価値の高い商品を売り付けるというのはまぁ現代でもあるんだけども。とにかくハードウェア産業は飽和状態である。そこをさらに1ミリ単位の革命を起こす方向を目指すよりも、ガラパゴスした日本の技術を海外に売ってもうけて言ったほうが確実に需要があるのではないかと思うのだ。
 これらのことから遠くへ逃げ出そうとする若者は少なくない気がしている。若者だけではないかもしれない。活躍の場を海外に求める。ウェブ環境による監視から逃れる、労働の搾取構造から逃れる。儲からない日本から逃げる。恵まれない人々を助けてやりがいを感じる。やりがいを海外に求める。

 ここに「まっとうな」英語教育を取り入れたらどうなるだろう。英語でなくてもよい、外国語の習得が可能になれば、ますます海外への技術流出や青年ボランティアなどの労働力流出、外国の文化背景を理解したうえでのコンテンツ消費。特にコンテンツ消費ができるようになるのは大きい。
 日本に日本人をとどまらせていた唯一の理由は「コンテンツ」ではないだろうか。
JAPANIMATION,JAPANISE COMICS,HENTAI,J-POP、日本文学、ダンス大国化する日本。文化立国は短期的には絵に描いた餅にはしてはならない。日本のコンテンツが日本の自己肯定感のない若者たちを唯一の肯定する強力な武器であった。「自称ヲタ」であることが日本人であり僕であるという論拠となっていた側面がある。それは音楽でもアイドルでも本でもブログやtwitterのような個人メディアでもいい。メディアというより「WEBサービスを使っている俺」が重要だろう。ブログや類似するWEBサービスがある限り、日本人であり続ける人たちはこれからも増えていく。しかしそれは年輩で日本的経営の労働に疲れた人たちがである。
 グローバル化の視点を見据えた教育は、理想通り他国を日本に取り入れるのでなく、日本から海外に行くチケットを若い世代に与えるだけかもしれない。個人的には「窮屈で生きづらい社会」から若者が開放されるのならどんどんやれと思うのだが。