英語教育を充実させると人材が海外流出するというジレンマ


 やりがいの世代のやりがいの感じ方は二つ、一つは自分が大きなものに包摂されていると感じること、もう一つは自分が大きなものとして包摂することである。
 前者は大企業や仕事の地位が高いこと、もしくはそんなものを取っ払って多忙でインセンティブの少ない環境を与えると「賃金が薄くても今の仕事にやりがいがあるから今の会社に所属しているんだ!」と倒錯をおこすなんて指摘もしばしばおきる。
 後者はいわゆる自分探しで、たとえば海外で自分より恵まれない他者に世話を施すことで自分の安定感、すなわち自己肯定感を感じるということだ。やりがい世代とはすなわち自己肯定感の得とくを生活の目的とした世代である。
 86年、リクルートのCMで使われた「ヤリ貝」なるものが流行し仕事の価値=お金"だけ"という価値観が徐々にやりがいにシフトしていく。95年、経団連が発表した「日本的経営」の指針によりいわゆる派遣を中心として会社を回そうという方向転換が始まる。結果仕事は楽しいけどお金が…という若者現状はもう言わなくても語りつくされているだろう。
 一方でこれだけ労働環境の悪化と経済格差とを学び、秋葉原の通り魔事件や貧困や孤独死をニュースで見た世代はどうなるのだろうか。日本は無宗教国家であり、頼るものがない。柳田國男はそこに「風土」に安心感を得、風土の変化による日本人の質の変化を語ってきた。現代の、そしてこれからの若者たちは逆である。自己肯定感の無さを自分の育ってきた風土、それから社会にぶつけ、日本の土地にぶつけ出す。
 5年後のインターネットはどうなっているだろう。ゾーニングは確実に進むだろう。だが(いわゆる)有害情報の排他は一定率以上できないのは目に見えている。アクセス環境と高度な複雑な情報をアウトプットを簡易にする技術ばかりが発展する。もしかしたら人は考えなくてよくなっているかもしれない。ケータイを一つ押せば「今日は北へ行きましょう」「今日はお茶を買って仕事に行きましょう」などと、高度に発達したノウハウの集合体、「クラウド」と呼ばれて流行らせようとしている何かが自己肯定感の低い若者たちに占いのように指針を示しているかもしれない。
 だが、僕はそれはないと思っている。人口密度が増えすぎると不快を感じるように、情報アクセス環境が一定の密度を超えると、これまた人間は不快に思いだすんじゃないかと思うのだ。地方でも仕事できるじゃん、と地方に逃げ出す者、情報端末を一切排除する者、今まで通り引きこもって自分の密度を保つ者。情報端末に対しての風当たりはさらに強くなっていく気がしている。
 お金で生活していく以上日本はこれからどうイノベーションを起こしていくかというハードウェア産業の問題がある。高度に発達しすぎた制御システムを持つ家電製品、ありもしないマイナスイオンなどの付加価値を高めようとするニセ科学産業は繁栄するだろうが、貧困社会ではエリート志向が進むだろうから進学競争に突っ込んでそこそこのリテラシーを持った層はたくさん育つしそういう人たちにしかお金が集まらないかもしれない。お金が集まらない人たちに付加価値の高い商品を売り付けるというのはまぁ現代でもあるんだけども。とにかくハードウェア産業は飽和状態である。そこをさらに1ミリ単位の革命を起こす方向を目指すよりも、ガラパゴスした日本の技術を海外に売ってもうけて言ったほうが確実に需要があるのではないかと思うのだ。
 これらのことから遠くへ逃げ出そうとする若者は少なくない気がしている。若者だけではないかもしれない。活躍の場を海外に求める。ウェブ環境による監視から逃れる、労働の搾取構造から逃れる。儲からない日本から逃げる。恵まれない人々を助けてやりがいを感じる。やりがいを海外に求める。

 ここに「まっとうな」英語教育を取り入れたらどうなるだろう。英語でなくてもよい、外国語の習得が可能になれば、ますます海外への技術流出や青年ボランティアなどの労働力流出、外国の文化背景を理解したうえでのコンテンツ消費。特にコンテンツ消費ができるようになるのは大きい。
 日本に日本人をとどまらせていた唯一の理由は「コンテンツ」ではないだろうか。
JAPANIMATION,JAPANISE COMICS,HENTAI,J-POP、日本文学、ダンス大国化する日本。文化立国は短期的には絵に描いた餅にはしてはならない。日本のコンテンツが日本の自己肯定感のない若者たちを唯一の肯定する強力な武器であった。「自称ヲタ」であることが日本人であり僕であるという論拠となっていた側面がある。それは音楽でもアイドルでも本でもブログやtwitterのような個人メディアでもいい。メディアというより「WEBサービスを使っている俺」が重要だろう。ブログや類似するWEBサービスがある限り、日本人であり続ける人たちはこれからも増えていく。しかしそれは年輩で日本的経営の労働に疲れた人たちがである。
 グローバル化の視点を見据えた教育は、理想通り他国を日本に取り入れるのでなく、日本から海外に行くチケットを若い世代に与えるだけかもしれない。個人的には「窮屈で生きづらい社会」から若者が開放されるのならどんどんやれと思うのだが。