論としては実感レベルでしか実証できないものの、読み物としては非常に興味深くかつ面白く読めた一冊。62ページという薄さの割に内容の濃さは保証する。本ブログでも言及してきた価値観の多様化・コミュニティの矮小/極小化・地元志向と排他性・宿命論才能論、すべては「キャラ化」という一つのキーワードで見事につながった。細部に違和感はあれど僕はこの論に全面的にコミットしたい。
不安社会化の弊害
本書は社会学者土井隆義氏によるコミュニケーションのキャラ化を論じた本。統計などをあまり用いずストーリーを語っていくため、論としては厳密性に欠ける賛否両論であるが、その点は著者自身も冒頭で留保を促している。
本書のあら筋は子どもたちのコミュニケーションが、役割を固定し単純化された形で行われる=キャラ化していることを取り上げ、社会全体がキャラ化していることが排除型社会や(本書では明言していないが)閉塞感を生んでいるという話である。
元をたどればバブル崩壊後の「いい学校、いい会社、いい生活」というレール・価値観の崩壊が元になっている。今だに根強くこの価値観は残っているものの、一方でその有効性のようなものは高学歴ニートや3年で辞める若者の退職率の高さ、不況、労働条件の劣悪さの可視化などに後押しされかなり低くなっている。そうした点から学校での勉強や生活の意義のようなモノが見つけにくくなっている。一方で社会は若者に個性的であれ、多様であれと隠れたメッセージを投げかけ続け、結果、若者は価値軸としての拠り所が見つからず、わかりやすい価値軸を提示してくれる仲間たちやコミュニケーションを求めるようになる。なにか一つの事にはまることもほどほどに、過度に人間関係に依存するようになり、かつ分かりやすい価値軸を保つためには一定の人間関係の規模を保たねばならない。しかもそれはお互いの空気を読み合いながら嫌われまいとするコミュニケーションとなり、その「仲間内ルール」とでも呼ぶべき価値観に見合わない人間はどんどん排除する振る舞いをとる。そこにコミュニケーションの矮小化と小規模の排除型社会が発生する。
外キャラ、内キャラ
いつの時代もコミュニケーションを単純化する作法は若い人たちの間で見られた。流行語を共有し自分たちの文化を作ってきたし化粧の仕方やファッションなど、乱立する女性誌の雑誌名で派閥ができるように文化とコミュニティを作ってきた。それとキャラ化の何が違うかと言えば、流動性のなさ、すなわち関係性の固定である。
流行語は常にコミュニティに入るための通行手形であった。誰かリーダー格がファッド(短期的な流行)を取り込み、コミュニティのフォロワーとともにスタンダードと少しだけずらすことでそこにコミュニティとしてのアイデンティティが生まれる。
しかしキャラ化はそれとは違うレイヤー・次元を指す。例えば「ボケ・ツッコミ」のような関係性に根差すキャラが基本であり、かつ「いじられ」のように常にやられ役流動性がない。学校のクラスひとつとっても、ある分野は誰がリーダーで、ある分野は誰が得意で、といったダイナミクスを覆い隠し、常に盛り上げ役やまとめやくを固定してしまう現象である。そんなことあるわけないだろうと思われるかもしれないが、これが僕の経験則として存在するからこそ、キャラ化は現実的な現象として感じられる。
なぜこのようなことが起きるかといえば、一つはそこに外的な自分、対人関係に応じて意図的に演じられる「外キャラ」を持っていること。一つは才能論のような、生まれ持っている気質や「本当の自分」すなわち「内キャラ」というものを皆が持っていることであると著者は解説している。
先ほども解決したように、キャラは対人関係のもとでの振る舞いがベースとなっている外キャラが大きなウェイトを占める。多くの若者本が指摘している「若者の傾向」は妥当性の問題は別としてあくまでも若者の「外キャラ」を分析したものであり、若者の本質に迫ったものとは異なっている。
また、「内キャラ」は、一部の統計が示す地元志向の若者の増加や才能論を信じる若者の増加に見てとれるという。すなわち、「外キャラ」は本当の自分ではなく、本当の自分は別にいる。そしてそれは生まれ持った自分の"ゆるぎない"特性であり、地元などのルーツとともに存在する。そんな解釈を多くの若者が持っている、と著者は指摘する。実際に2009年の朝日新聞の統計では「タイムマシンがあるとすれば未来と過去どちらに行きたいか」という問いに対し「未来へ行きたい」と答えた人より「過去へ行きたい」と答えた人のほうが20ポイントも多かったという。これは自分のキャラがどこから来たのかを知りたいという願望のあらわれであり、若者の「自分探し」症候群と重なるところでもある。
今日の若い人たちが内キャラにこだわるのは、いかに生きるべきかを指し示す人生の羅針盤がこの社会のどこにも見当たらず、いわば存在論的な不安を抱き抱えているからです。だから、どんな視点からも相対化されることのない不変不動の準拠点として、持ち前のキャラに依存することになるのです。内キャラが、多面的な要素から成り立つアイデンティティとは異なり、外キャラと同様に一面的で、輪郭もくっきりとして単純なのは子のような理由によるでしょう
この辺はアバウトな僕なりの解釈も交えているため本書を手にとって詳しく読んでほしい。そして同時に著者は"一貫したアイデンティティの持ち主では、むしろ生きづらい錯綜した世の中になっている"と指摘している。
キャラ消費
キャラ化の定着は例えば消費傾向においても見て取れるという。例えばゼロ年代に入ってコンテンツとして出てきた「セカイ系」は、最終兵器彼女、エヴァなど、登場人物たちが親や社会と分断された世界で変わらぬ日常や関係性を保ちながらその変化がそのまま世界の変化に直結する空間を描いてきた。しかしこの傾向はストーリーのある作品だけではおわらない。最近では「けいおん」などに見られるただほのぼのとした変わらない日常・関係・キャラクターを描くだけのアニメが大ブレイクし、消費としてのキャラ消費は形としては完成しつつある。また本書ではリカちゃん人形のデザインの変遷を上げ、単純化されたデフォルメと(別キャラへの変身も含めた)二次創作に応用可能な形へ、孫引きで悪いが伊藤剛氏の言葉で「特定の物語を背後に背負ったキャラクターから、その略語としての意味から脱却して、どんな物語にも転用可能なプロトタイプを示す言葉となったキャラへ」変わっていったという。
こうしてみると、キャラクターのキャラ化は、人々に共通の枠組みを提供していた「大きな物語」が失われ、価値観の多元化によって流動化した人間関係のなかで、それぞれの対人場面に適合した外キャラを意図的に演じ、複雑になった関係を乗り切っていこうとする現代人の心性を暗示しているようにも思われます
あくまで暗示であり、その妥当性がどれだけ高いかといわれれば疑問ではあるが、一方で我々はその現象を無意識に受け入れているのではないか。キューピーちゃんやハローキティが着ぐるみ化し、ガチャピンがいろんなエクストリームスポーツに挑戦し、はては宇宙にまで飛び立ち、まる子はいつも違う出来事でおじいちゃんと毎回同じようなどたばた騒ぎをし、カツオは新しいいたずらを考えてはいつも怒られる。常に変動する場面でいろんな新しい顔を見せながらもゆるぎない立ち位置を持ったキャラ達が愛され、それをオマージュし続ける文化はすでにコンテンツ業界には根付いてるともいえる。
キャラ化とtwitter
ちょっと前に帰国子女に日本のついったーを見せたら「社長とアニメアイコンしかいない」というコメントをしてBUZZったことがあった。これこそ僕がキャラ化を肯定した大きな理由の一つ、、日本のウェブコミュニケーションはキャラ化しているのである。ウェブはバカと暇人のもの、ウェブにあるものの多くがキャラ化された(≒単純化された)コミュニケーションであるならばそれは間違っていないのである。
同時にtwitterが起こした現象は(便宜上)賢い人たちは賢い人たちを観測しあい、バカと暇人はバカと暇人を観測しあうというものである。キャラにおける価値軸のダイナミクスの規模(≒評価軸をいくつ持っているか≒どれだけキャラ化していないか)によるすみわけがなされ、階層化してしまった。研究者は研究者同士でフォローしあい情報交換し、言論人たちは言論人たちやWEB言論人たちをフォローし合い罵り合い、それを観測しながら好き勝手コメントする層が存在し、一方で今日のスナナレがどうだ、ジブリがどうだバルス!という会話をメインに行う層が存在する。もちろんその階層を行き来できるのがtwitterのいい所だし、言論人たちも半ばキャラ化して発言することで自分のポジションや(売り物としての)キャラを保っているのだけれど、発言の比重でいうと明らかにキャラ化の度合いで島宇宙化・階層化しているのではないかという実感がある。小規模に「内キャラ」だけを見せられる仲間だけをフォローし合って"いつもは明るいけど夜になると不安になる弱い本当の自分"キャラを見せ合い慰めあうようなコミュニケーションも僕は観測している。
twitterを使う大人たちはすっかりウェブ上で自分をコンテンツ化してしまい、それがコミュニケーションを円滑にする作法であることを無意識に理解して実行している。すなわち東浩紀氏のいう「動物化」と似たもしくは一致する消費行動が観測され、つぶやき手はそれをわかった上で情報を発信し続ける。
キャラ化は若者だけの問題ではないのだ。
キャラ化の問題点
しかし、これらのキャラ化が生み出す閉塞感や、関係性のカースト化はやはり問題である。またコミュニケーションが単純化することにより、新たな煩雑な問題、例えばモンスターペアレンツや、少年犯罪はコンテンツのせいだとするマンガ・アニメ・ケータイ規制、責任を取る=排除される(辞任する)ことというコンセンサスや「あれは本当の僕じゃなくキャラです」といった子供たちの責任回避や自己肯定感の低さなどが生まれてくる。
「頑固おやじ」がコンテンツとして受ける時代、「確固たる自分」が売れる時代はすでに終息しつつあり、バブル時代の会社や社長たちの多くは引退し、ホリエモンのように出る杭は打たれ、小さいコミュニティで上手に俺流を演じることができる人間が勝ち残っていく時代になってしまった。
キャラ化は小規模で見れば上手な作法である一方で、中規模大規模になるととたんに混乱を引き起こす。多種多様な評価軸に対応していないことこそがキャラ化の問題点であり、秋葉原無差別殺傷事件もキャラ化が起こしたのではないかと著者は一貫して本書を通して仮説として提唱している。
しかし、高度経済成長期のように政治が方向性を大きく示し、世の中が大きな物語を示さない限り、キャラ化は加速していくばかりである。皮肉なことにキャラ化はある程度賢いからこそなせる作法であり、現代の高い教育水準と閉塞的な教育環境がそれを担保してしまっている。
一部の情報処理能力に長けている人以外、脱キャラ化が困難な以上我々は「多キャラ化」して生きていくしかないのである。新しい場面、新しい環境によりたくさん飛び込み、新しいキャラを作ってはそれを切り替え続けること、これこそが我々の取りうる作法であり、その作法をいかにうまく使うかこそ課題である。キャラの使い分けがうまくいかないことは香山リカ氏的にいえば「離人症」であり、「統合失調症」である。統合失調症は現代は100人に一人がかかる病気であり、キャラ化とも密接に絡みついているのではないかと考えている。
もしこの本を読み自分がキャラ化していると自覚できるのであれば、よりダイナミクスにあふれたキャラフルな世界を取り戻すこと、キャラ化を否定せず新しいキャラをどんどん作り出していくことで、閉塞した社会にすこしづつ風穴を開けねばならない。
つながりの希薄化。
批判に晒されていますが
難しい言葉で書かれているが・・・
日常的「祭り」化する深層
成熟社会における少年犯罪の先駆的研究
素晴らしい内容でした
前思春期(小学生)から読んで欲しい本
<いい子>をやめる勇気をもとう