<みじめ>と不自由のトレードオフ

最近は人のネガティブな<感情>がどのように湧き出てどのように語られどのように処理されるかを考えているのだが、いくつか思うところがある。
一つは感情は身体から独立できないということ。例えば女性の場合PMSによって憂鬱や感情の起伏が激しくなることは知られているだろうし、体が元気なときは飯も美味しく感じるというのは典型的なそれだろう。病は気から、のように、感情が身体に与える影響ばかりが語られやすいが、本来は逆で身体が感情に与える影響の方が大きいのではないかと考える。
もう一つは身体は環境から独立できないと言うこと、ここでいう環境は物理的なものも、他者との関係や<視点>からも含む。この時期になると高気圧や低気圧、それによる天気や気温や湿度があなたの身体に及ぼす影響は心理に大きく反映される。また、同じクラスタ同士で結びつくコミュニティは非常に心地が良い。これは逆にいえば、いろんなクラスタが混じりあうコミュニティや社会は、相対的に心地悪さを発生させる。
これは、他者の視線ー評価が複雑になればなるほど人は息苦しさを感じるのではないかと考える。例えばあるヲタがヲタとつるむと、そこにある視線ー評価は卓越化された知識の質や量であるが、しかしヲタが大学生とつるむと、途端に単位を取る容量の良さやある種のコードを用いない会話運びの面白さ、服装や体系や容姿などの視線ー評価が表れる。学生という日本では比較的誰しもがなりやすい立場になることで、コミュ障や萌えブタといった人によっては劣等感をあらわす感情(=<みじめ>)が発生する。
 我々の心理状態やそれを言葉で表した<感情>は、身体の状態や立ち位置によって大きく左右されるのである。

<みじめ>の発生条件と学校

 <みじめ>が発生する条件は2つと非常にシンプルである。一つは他者の視点(ー評価)の存在、一つはスタートラインの共有である。孤独(ーしばしばこの言葉にみじめが埋め込まれていることもあるがここではラジカルな一人の状態を指すー)では<みじめ>さは感じることができない。
 前述したが、人はいくつものコミュニティに所属することができ、コミュニティには必ずヒエラルキー(、評価軸、プライオリティ)が埋め込まれている。このコミュニティの垣根、もっというとコミュニティのような小世界との物理的な垣根が無くなれば無くなるほど、人は見なくてよかったものが見えてしまうし、見えてしまうとその評価にさらされてしまう。不自由が<なくなる>と人は無理矢理にスタートライン(=立ち位置)を共有することとなり、劣等感と優越感に苛まれるのである。
 一番不自由をなくしみじめを増長した例としてわかりやすいのが学校であろう。100年以上前の学制頒布以来、貧困な家庭の子どもが児童労働に従事せず、裕福層とともに学ぶことができるようになった。100年かけて制度も格段に整備され極少数の異例を除き、義務教育で学校に通った子供達の識字率は99.9%を越える。
 世界では字が読めても書けない人たちが山ほどいる中で、驚異的な数字である一方で、体力のあるなしで優劣が決まり、テストの成績や漢字が読める読めないで優劣が決まり、進学先の偏差値で優劣が決まるように時代は変わっていった。学校教育がインフラとなり皆が共有するスタートラインとなったことで<みじめ>市場が国民の数だけ拡大し全国民が参入することとなった。
 

ふすまから壁へ

 同様に恋愛とみじめの関係もそうであろう。建築様式が変わり平屋から戸建てやマンション/アパートがこれでもかと立ち並び、空間を遮るものがふすまから壁へ転移する。
 これにより既存の地縁コミュニティは希薄化した。子供達には一人一部屋与えるような家庭も増加したであろうし、子供やマンションの隣人が何をやってる人かもわからない環境が整備される「個人化」の結果、倫理や秩序を望むようなある種の特定の視線が見えづらくなり、近所の人たちが知らないフリをせずとも自由に恋愛や不倫が可能となった。
 そして資本主義は偉大だ。バブルの消費傾向と重なって、健康な四肢とお金を持っていれば誰でも共同幻想たる恋愛の様式を経験できるようになった。就職の売り手市場にによる雇用の安定とこれらの物理的環境の変化が恋愛におけるスタートラインの共有を可能にした。
 そして他者の視点の存在、従来の家族からの早く結婚しろと言う圧力が弱まった一方で、恋愛至上を盛り上げようとメディアからの煽りが加速する。ホイチョイプロダクションのようなドラマと消費を結びつけるようなPRが横行し、ホットドッグプレスのような恋愛ハウツーは枚挙に暇がなく、いかに従来の恋愛様式を破壊して恋愛行動を卓越化できるかが焦点となる。
 インターネットではそうした話題が共有され「〜ですら恋愛していると言うのにお前らときたら」といった他者の視点が発生した。あとは皆さんお分かりの通り、恋愛市場は複雑化し、優劣の順位の加速が進み、草食男子のような恋愛至上に参入しないクラスタが発生し、その一部はネットの仮想空間に逃げ込むことになる。
 ネットは情報との出会いをデザインするものである以上出会い系としての側面を常に持ち、今度はネット恋愛のような様式を用意しさらに恋愛市場の平滑化を加速する。身体が恋愛適齢期から抜け出さない以上、恋愛における<みじめ>さはどこにいってもつきまとうのである。

<みじめ>と不安

 <みじめ>さは不安を増長する。スタートラインが共有されている以上、統計的にはせめて平均的でありたいと言う願望と他人と差異化された自分でありたいという願望がコンフリクトを起こす。
 学業においてはクラスでの成績は平均より少し上でありたいが目立ちたくないという願望と、最終的な学歴や偏差値は高いものでありたいという願望が併存する。恋愛においては、恋人がいないとなにか人格に問題があるのではないかと思われるのではという不安と、恋人は欲しいが誰でもよい訳ではないという願望が同時に存在する。
 そうした<みじめ>さの構造は、常に人にストレスを強いながら人を克服の方向へ向かわせる。過去に比べ不自由のない環境が整備されている以上、それらの願望を満たす方向へと動かない理由はない(と自己啓発書達は声高に叫ぶ)。そして(ここが問題なのだが)人々はそれを承認欲求と取り違える。
 承認問題とはすなわち、承認欲求として認識された恋愛は、みじめを社会でなく個人の問題として内在化させる。個人の問題となると、相応の自信とテクニックを持った人間同士でないと幸福感は瞬間的な作用しか及ぼさず、不安の払拭としてしか機能しない。
 すなわち不安の材料となる<みじめ>の根本的な構造が変わらないので、恋愛結婚なるものがその<みじめ>を感じるコミュニティ(=恋愛市場)からの離脱のためにしか作用しないことになる。結婚による祝福や承認を受け、恋愛競争から離脱したかと思えば今度は子育て競争がはじまる。常に焦燥感を感じながら、一生優劣を求められ卓越しなければみじめにさらされる環境にゆく。一億層中流という標語はそういった意味で凄まじい解決方法だったのかもしれない。
 我々の心理状態やそれを言葉で表した<感情>は、身体の状態や立ち位置によって大きく左右される。歴史は身体を自由にする方向に進む。身体の状態が不自由から解放され続ける限り、スタートラインを強制的に共有させられ、<みじめ>にさらされる可能性は高くなる。

<みじめ>か不自由を選べ

 ここまで見てくるとわかるのは、人間には優劣があることを前提とし、その優劣が<みじめ>に繋がるのは無理矢理同じスタートラインに立たされるからだ、と言う話をしてきた。生まれながらの優劣や、優劣に大きく影響する環境要因ももちろん存在するし、その多くが格差と言う言葉で語られて来た。
 不況が長引いたことで格差問題などを解消しようという動きや言説があちこちに見られるようになって来たが、これもひとえに<みじめ>を解消するために優劣の幅を小さく、努力すれば越えれるものにしようというモノに他ならない。もっと突っ込むのであれば、スタートラインを同じにしてチャンスを平等に与えようと人は言う。
 解消のためにどうしたら良いかと言うのを相談されることもしばしばある。その先に待っている世界がどれほど残酷なものかを想像したことがあるだろうか。
 人それぞれ向き不向きはあるはずなのに、スタートラインが共有されているということは、言い訳ができず、成績の善し悪しやスペックの善し悪しはほとんどが自己責任に回収されてしまう。「学校はちゃんと機能している、努力しなかったお前が悪い」「努力したはずなのに結果が出なかった。誰かボクの努力を認めてよ」と、子供は承認の監獄に入らざるを得なくなる。
 結局相対的に能力のない者は<みじめ>か不自由のどちらかを選ばなければならない。不平等が是正され、不自由の選択肢が少なくなりみな<みじめ>を選択せざるを得なくなる。

格差は本当に問題か

 格差は本当に問題なのか、もう一度問わなければならない。問題はそんな統計概念に収束するものではない。考えるべきは貧困と階層の流動性のなさ。能力でもお金でもいい、ないならないなりに少量の支援さえあれば、心地良く生きれるコミュニティがあったはずなのに、世の中はそこへの定着を許してくれない。
 注意しなければいけないのは「格差」は<みじめ>による共感と協賛を集めるスローガンでしかない。オタクが社会性など求められず本来のオタクコミュニティに潜んで集まりながら自分の嫁をぺろぺろし続けるほうが<みじめ>のない心地が良い生活ができるだろうし、恋人達はとても仕合せそうに手をつないで歩いているようなまるですべてがうまく行っているように感じれるデート競争のない二人の世界を作り上げた方が(幸福かはわからないが)心地がよい関係であることは間違いないだろう。競争にさらされた末に語られるような、他人に自慢できる彼氏かどうかなど二の次にすべきなのである。
 過度に自由にさらされてしまった以上「自由からの逃走」と呼ばれる状態が発生する。そうして競争からの離脱とコミュニティ化によるヒエラルキーの再構成を繰り返しながら、<みじめ>は常に再構成され続ける。これらを打破するために時に自己啓発が必要とされ、時に救世主が必要とされ、時に戦争が必要だと叫ばれるのである。
 
 

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