優しい男とセックスフレンド

 草食系男子ブームも一段落し森ガールも草食系関係なしにファッションジャンルとして独立して語られるようになって、若者の恋愛の傾向も微妙に変わってきた。いろいろな若い人たち、特に大学生から恋愛相談されるが、ちょっと気づいたので書いておく。なんに気づいたかと言うと

  • 気の合う相手の決定打がない
  • 優しい人ほどセフレをつくる
  • 人を救うための交際がある

の3つである。もちろん全員が当てはまる訳ではないし地域差環境差は大きい。

 相性、「気が合う」というのをある種の神秘のように我々は語りがちである。初めてあった人と気があって、気づいたら恋に落ちてしまった、というストーリーを今でも信じている人たちは多いし追体験した人も少なくないだろう。恋愛のつながりのエビデンスを我々の多くは相性、「気が合う」に求める。しかし、気の合う、の意味が徐々に変わって来ている。
 江戸時代までは恋愛と言えば不倫を指していたし、明治に入ると無理心中=恋愛であった。戦後に日本では恋愛する相手とセックスする相手と結婚する相手が同じ相手、という世界でも珍しい文化形式ができあがり、法律もそれを前提に婚姻制度が組まれ、変遷して来た。もしくは仕事が生き甲斐、のようなワークライフバランスの偏りや経済原理に則って交際関係を一人の人に集中すれば経済的であることや教育費がたかいことなど様々な要素が考えられる。文化的バブルの時期にはお金に余裕がある層を取り扱った不倫ドラマがいくつもつくられた。
 平成に入り離婚理由の中で高い位置に夜の生活関係のものがあげられ、婚姻関係におけるセックスレスと、性的な経験が浅い層にすら恋愛における体の相性が重要な要素として認識されるようになった。
 並行して進んで来たフォーディズムと消費社会化も重要である。人を判断するときに、「消費」は欠かせない。何を身につけているか、どう消費しているかが人格の判断に大きな要素であった。贅沢は無駄遣いの象徴であったし今は仕事ができる人は遊びがうまいなどと称されることもある。節制は堅実かケチかは時代や人の判断によるところであるが、メディアは消費を煽るためにケチな男を批判して来た。消費は奉仕の姿勢と相関すると考えらるようになったのである。
 しかし最近を見てみると、消費で簡単に人を判断できない状態にある。テレビが好き、スポーツが好き、音楽が好き、アニメが好き、ゲームが好き、ファッションが好き、ある程度金を出せばいくつも簡単に手に入れることができ、そこそこの話術さえあればどんな内容でも面白く話すことができる。その中で人は他者に承認してもらうために他人と自分を差異化しようとよりマニアックになっていこうとするし、コンテンツもより多様化細分化テンプレ化して行くことは以前指摘した。ここでは若者の恋愛の話をしているので、成熟したマニアックすぎる人は想定していないし、そういう世界で戦ってる人は恋愛市場に参入しないパターンも結構見て来た。
 また相性を測るための<人格>も拡散している。ゼロ年代ソーシャルネットワークサービスの発生と派生。SNSをいくつか使っている人たちなら、mixitwitterfacebookなど出している顔が違うことなど様々な人が指摘しているし、ユーザがキャラを統一しづらい状況が進んでいる。人格なんてどれが本当かわからん状態が進む。本当の自分探しが進む。
 いろんな属性嗜好人格と、複雑な情報が可視化された結果、総合的な判断を行うより、いろんな要素のどれか一つあう方ことを強調した方が円滑にコミュニケーションは進む。4、5個要素があえばもう相性がいい友達、である。相性の良さは簡単に作り出すことができるようになったし、相性をあわせることが簡単であれば、あとは人との出会いの流動性次第で簡単に恋愛は成立する。逆に流動性が低い中しか恋愛は成立しないし、流動性の高い(出会いの多い環境での)恋愛においては何をベットしたかが大きな要素として働く。

 若者の博愛主義化が進んでいると言う。好きな相手であれば別に付き合ってなくても一夜限りの関係やセックスフレンドとして関係を持ち続けるそうである。もしそうだとしても、それはいつの間にか規範化され、少年漫画で大事にしてきた、何かプロジェクトを成し遂げ、好きな人に告白し、結ばれる、というプロトコルを踏める人が限られていることに由来するとしか考えられない。大学生なんかに自己が成長し恋愛に影響するようなプロジェクトなどめったに与えられない。この相手を救おうとしてそのうえ好きかもと思える相手との相性はいいと思えるが、本当にこの相手でいいのか、常に不安がつきまとう。
 何か大きなモノをベットできる環境も相手もそうそういないのである。そうすると不思議なことに自己肯定感の低さからか、このことについて交際相手に申し訳ないと思う若者は多い。お互いに「付き合って」と言うことに躊躇するのである。もしくは付き合っている状況に不安や申し訳を感じる。「もしかしたらもっと相性の良い運命の人がいるかもしれない。相手もそう思っているかもしれない。自分でいいのか自信がない、束縛するのはおこがましい」自覚的か無自覚かは別だがそんな感覚が若者にはある。それが臆病とも言えるし優しさとも言える。なので付き合うことには躊躇しつつも、やっていることは恋愛の様式、というパターンが増えているように感じる。旧来のセックスフレンドのように、お金に余裕ができた管理職クラスが愛人を囲ったり、都合のいい相手に都合の良いタイミングで呼び出され、ことをすませて終わり、と言うドラマのような関係は前時代的で、いまや一部のメンヘラが自尊心を維持するか自傷行為の代わりにセックスを行っているだけにすぎない。
 セックスフレンドと一緒に食事に言ったり、ディズニーデートをしたり、ドライブに行ったり、嫉妬をしたり、足りないのは「付き合ってください」という儀礼や「付き合う」という契約なのである。
 では付き合うと言う契約はいつ行うか。その不思議なことにこれらの優しい人たちは優しさを発揮できたときに、付き合う。先ほど言ったプロジェクトを成し遂げたときなのだが、これがまた変わっている。精神的に安定しない子が泣いているときや、失恋の慰めの代わりに「俺が付き合うから」というパターンが散見される。俺がいるから、俺がお前を支えるから、と言うタイミングに告白する。それが一番お互いの承認を満たせるタイミングであり、場合によっては恋愛の様式で付き合っていたセックスフレンドすら切って別の恋人と付き合ったり結婚したりする。
 彼らは人を救いたいのである。社会貢献意識や学生運動マインドの延長で、長い期間、人生の一部を賭けて人を救おうとする。しかし、社会貢献と違うのは、相手と二人キリの関係、共依存関係を結ぼうとする。冷静にそういう状態じゃないか?と問いかけてみると、確かにそうだ、少しおかしい気がする、と抜け出そうとするのだが、彼らにとって恋愛が人を救うプロジェクトでフロー状態である以上なかなか客観的に自分を見れず、常に違和感を抱えながら恋愛をし、衝動的にわかれと出会いを繰り返す。
 まだまだそういうクラスタがいると気づいただけなので経過観察を続ける必要があるが、付き合う、の意味が変わった世代が存在することを受け入れ、その意味がどう変わったかを生暖かく見守っていく必要がある。