しつけ問題への雑感

これはヒドい! - シートン俗物記
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「俺の邪悪なメモ」跡地
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学校を介した問題の場合少々複雑になる上、ステークホルダーが両親、子ども、教師、児相、新風と多すぎるためシンプルには書き表せないかもしれない。教育問題は自分の経験と教育に対するスタンスを示すだけで思考停止しがち。何が正しいなんて20年後にしか評価できない世界なので、何が論点でどこを評価すべきかをまず考えたい。

日本人のしつけは衰退したか―「教育する家族」のゆくえ (講談社現代新書 (1448))
広田 照幸
講談社
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おすすめ度の平均: 4.5
4 昨今のしつけ
4 教育責任の主体は、「教育者」だけではなく「子供の周りの人全て」という観点のコミュニティ論。
5 メディアの無責任さがよくわかる
5 親バッシングにNO!
5 目から鱗のしつけへの意識の変遷

1.不安の問題

 すべての元凶はすべての人が何かに不安を持っていることである。
 まず子どもについて、学校側としては、子どもが家庭に安心を感じているか、不安の払しょくを最優先する。
 我々教員はすぐに叱って罰則を科してあとは野となれ山となれ、と思われがちだが、教師のノウハウとしてはまず安心できる場所や信頼関係を作り、それから叱るということが大前提だ。
 まず、怒られたときの逃げ場を確保すること。子どもがもし保護者に怒られた場合、担任の元に駆け込めるか、担任にも怒られた場合児童生徒同士でフォローできる環境を作っているかが重要になる。
 今回の件で子どもが先生に体罰の話をして発覚したのであればは子どもが学校に安心を感じることができるように学級運営がうまく働いていたと評価していいと思う。
 
 次に父親・母親の不安の問題だ。
 父親の書いた文章を見た限り、ひたすらに理論武装して納得を求めようとする書き方がされている。彼は動物主義*1のしつけ観である。
 母親も、自分のしつけ観について、実は不安を感じていたのではないかと思う。息子がADHDであったということは、周囲に迷惑がかかり気まずい経験を多々してきたことだろう。ADHDと診断されたところで、世間が自分に対して寛大ではない気がする、躾の一つもできないのかと自分の存在価値や能力を批判されている気がするという疑心暗鬼に陥ったのではないか。その手の介護における労力や無理解はいまだに日本中に残っている。両親がそれらの不安から理解や承認を求めるためにウェブ上に文章を公開したのではという見方もできる。
 
 もっと言うと学校側の不安も想像に難くない。虐待をしていることでなく、虐待と思しき行為を放置したことに対する社会からのバッシング、これは学校側の監視のための労力コストが予想以上にかかりすぎるということ以外に反論の余地がない。お前らの学校があざを見て放置した、何かあった時にどう責任を取るつもりだ?と、現場は平気で必要以上のリスクマネジメントを主張される。

2.関係性の問題

 次に信頼関係、相手に何かを告げる場合心理学ではおなじみだが、会話、特に相手に話してもらうことによって「ラポール」という親近感を抱かせることが大前提となる。
 簡単にいえば躾を言葉で行おうと体罰で行おうと、このラポールが成立していない限り、タダの恐怖体験でしかない。
 生活に支障をきたすレベルでの体罰でない限り、身体はすぐに回復し成長し傷とともにその体罰の記憶は消えていく。
 一方で身体に刻みつくのはただ信頼している相手から裏切られた、もしくは信頼していない人から暴力を受けた、といういわゆるトラウマである。もちろん相当印象深い出来事でもない限りたかが一回や二回でなるモノでもないが、若いうちは自分に関係する人間が少ないことから裏切りと否定を含む暴力はかなり大きな恐怖となる。

3.賞罰は必要

 躾という言葉を使うと大人の理屈、大人の行動を表す言葉になる。教育の世界では発達という言葉を使う。我々の仕事は発達の促進である。
 道徳性の発達において賞罰は必要だ。ただこの罰に体罰を用いるのが妥当かという問題が語られ出したのはここ100年に満たないのではないか。
 道徳性の発達においてはコールバーグの発達の6段階がよく用いられる。
 わかりやすいのは以下だろう。
http://www.nuclear.jp/~madarame/lec1/develop.html
 道徳性の発達の段階で、賞罰を基準に行動をする時期というのは必ず通過点としてある。
 それから徐々にルールを守るメリットとデメリットを考えるようになり、徐々に(一見)反抗的になってくる。
 また現代にいたっては帰属するコミュニティごとにルールが違い、正しさについても非常に相対的、曖昧になっている。人に迷惑をかけないという大原則はあっても、何を持って迷惑とするかという基準自体が揺らいでおり、体罰をはじめとする恐怖でしつけることはその基準を考える行為自体を停止させてしまい、
 また、生きすぎたしつけを行うと、一部の子どもに「悪いことをしても隠す」という行為が散見されるようになる。
 それに対して隠すことは悪いことだとまた厳しいしつけを行うとダブルバインド(板挟み)状態となり、常にストレスを抱えた状態で生活することになる。これらの状態で健全に発達せず身体に異常をきたす例というのも近年頻繁に報告されている。
 躾にとって、大事なのは伝えることでなく、伝えてその後の行動が変わるかである。安い子育て本のように「悪いことをしたときに叱るのでなく良いことをしたときにほめましょう」などというつもりはない。
 あくまで人間関係の上に成り立っている行為というのは前提として意識しておいた方がよい。その行為が体罰かしつけかの切り分けは主観的であり、その行為がじゃれあいかいじめか位に切り分けがむずかしいが、その基準の一つとなりうるのがこの親近感を感じているか、信頼関係が形成されているかという視点であり行為ばかりに正当性を求めても水掛け論となる。

4.日本のしつけの問題

 この話を聞いた時、新井理恵という僕の大好きなひねくれ漫画家が十数年以上前の漫画での「子どもは母親にとっては着せ替え人形、父親にとっては他人である」という言葉を思い出した。両親AC(アダルトチルドレン)の可能性もあるのではないか、という見方もできる。アダルトチルドレンとは、例えば親から体罰を受けて育った子どもが大人になった時、自分の子供にも同じような躾を行う傾向があるという現象を指す。ACの親は、子供に愛情を感じにくい、与えにくいといわれる。

 日本のしつけが厳しくなったかゆるくなったかという問題は広田照幸氏が「日本人のしつけは衰退したか―「教育する家族」のゆくえ (講談社現代新書 (1448))」において躾においては社会が「完ぺきな両親」を求めることで子育てにおけるプレッシャーの問題や貧困問題や都市-郊外問題なども含め指摘しており、親にとっては子育てに費やす時間の余裕がある「好ましい時代」である一方で、「つらい時代」であるとも述べている。さまざまな知見がかいてあるのだが、我々の考える素行の悪い親が体罰を行うというイメージとは裏腹に、しつけは高学歴層・中産階級以上の問題であるとも指摘している。
 例えば実験において、子どもが帰り途にチョコレートを食べたいと言い出した時に

高学歴層の母親はしつけを重視し子どもの欲求を押さえつけるものが多いのに対して、低学歴層の母親はこどもの欲求にできるだけこたえてやろうとする者が多い。子どもの欲求にすぐに答えてやるかどうかで階層差がみられるのである。

掲載してある1993年のデータでは「叱って取り合わない」という回答が31.5%を占めている。

躾の問題は、経済的な余裕などの問題を背景に、しつけ過剰としつけ放棄の二極化していることであると指摘する。
児相と政治との問題はこのエントリでは省いたが、まずはしつけをデータを用いず熱心に語ることで皮肉にも社会不安や(当事者だけでなく一般的な)親たちの子育て不安が増大されることは指摘しておきたい