子供手当総額2超7千億円、35人学級3000億円

文部科学省が少人数学級に移行したいという発表を行ったことで、少しだけ話題になったのだが、常々話題になるのがその予算についてである。

社説:少人数学級 参加型教育への契機に 文部科学省中央教育審議会の提言を受け、1クラス40人が上限の公立小中学校の学級編成基準を引き下げ、それに見合う教職員の増員計画を来年度から段階的に進める。

 引き下げは45人から現行にした1980年度以来だ。文科省は新基準に35人を想定し、小学校低学年には30人学級も検討する。

 試算では4万5000人の教員増と新たに毎年3000億円の人件費を要するという。財政状況が極めて厳しい中、財務省との折衝や与野党間の調整などに曲折も予想される。

http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/archive/news/20100720ddm005070005000c.html

 学校の現状は以下だという。

子供たちと向き合う時間がとれない

 「40人学級では、大変厳しいのが現実といわざるをえない」

 東京都江東区立明治小学校の神山安弘校長は、こう話す。

 同校は1〜6年まで、すべて40人弱の学級編成。音楽などの科目や算数の少人数授業を担当する教員や校長・副校長以外は、全教員が学級担任をしているが、毎日が精いっぱいだという。

 来年度からの新学習指導要領を先取りして、授業量は増えている上、保護者の応対など、ただでさえ教員がやることは多い。それに加え、低学年では、トイレを1人でできないなど、日常生活の基本も面倒を見てやらなければならない子供もいる。学校が都市部にあるため、「不審者がいる」「学校にカメラを向けている男がいる」などの情報があれば、飛んでいく。

 「このままでは、子供と向き合う時間がとれなくなるという不安に、常に悩まされている」

 神山校長はこう訴える。

 60人学級も存在した昭和の高度成長期に比べれば、いまの40人学級は恵まれているという見方もあるが、昔とは教育現場は大きく変わっている。子供一人一人の学習状況に応じた授業が求められ、体罰はもちろん、「廊下に立っていろ」と叱(しか)りつけることもできない。保護者の関心の高さも昔とは比べものにならない。神山校長は「時代が変わっている」と強調する。

http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/archive/news/20100720ddm005070005000c.html

 文科省は「日本は教育の公費負担が少なく、学級規模も大きい」という見方。確かに、経済協力開発機構OECD)の統計によると、1学級の児童生徒数は小学校が平均28・1人、中学校が33・0人で、それぞれ国際平均の21・4人、23・4人を大幅に超えている。米英仏独の主要国はいずれも26人以下で、やはり日本は学級規模が大きい。

 しかし、「教員1人当たりの児童・生徒数」は実は他国の平均並み。小学校が19・0人、中学校が14・8人で米英仏独ともほとんど変わらない。

 要するに、教師1人1人が行っている週当たりの授業時数が少ないことになる。こうした点からみれば、単純に教員を増員すればいいか疑問が残る。

 戸田教授は「ただ量的に先生を増やすということではなく、よい先生を増やすことには国民も賛成するのではないか」と話す。

教師が楽したい? 問われる日教組と政治の関係

 「学校現場には、教師を増やして、楽をしようという傾向があった」

 ある元校長は、こう明かす。この元校長によると、わざと1学級に多くの児童・生徒をつめこみ、担当する授業数を減らすことで、教員が楽をするという行為も日常的にあったという。「結局、自分たちが楽したいから、『教師を増やせ』と言っているに過ぎない。少人数学級はその隠れみのだ」

 少人数学級は日教組が推進してきた政策でもある。

 「個々の教職員にかかる負担は非常に大きくなっており、きめ細かな教育の実現が困難となってきている。今こそ、教職員を削減してきたこれまでの方針を転換し、教職員の質と数を充実することが不可欠である」

 昨年11月、都内で行われた集会では、教職員削減をやめ、少人数学級を求める決議が行われた。決議には多くの教育団体が名を連ねたが、その中に日教組の名前もあった。

http://sankei.jp.msn.com/life/education/100718/edc1007180701000-n4.htm

とまぁ、予算がないことと教員が楽をしようとしている、日教組が力をつけようとしているのではないかという2つの問題があるのだそうだ。

教員の多忙と多忙感

 教員が本当に忙しいのか、業務効率が悪いだけではないのか?という指摘もあるが、それはある意味正解で、統計上50代以上の教員は3割に上り(資料)そのうちどれだけの割合の人たちがコンピュータのような効率化の道具をうまく活用できるのかなどを考えると見当がつくのではないか。
 またベネッセなどが調べたデータなど、最近ではいくつかの研究や報告が教員の労働状況を表している。
http://benesse.jp/berd/center/open/berd/backnumber/2008_14/fea_aoki_01.html

 そこでわかるのは一つは働く先生と働かない先生に二極化しているということ。そして働く先生は9時以降まで学校に残ることが当たり前で、学校という仕事が普通の会社より朝早くから活動せねばならないこと(毎朝8時から職員会議)やヒルなどに休憩が取れないことを考えるとやはり長時間労働であること、常に時間に追われ日中は40人近くの児童・生徒を監視しておかなければ事故が起きた時に管理責任を問われること、保護者とのコミュニケーションなど人とかかわる仕事が大半で、しかも自分のペースで進められるケースは少数であるために非常に気疲れが激しい。それに加えて書類の量が昔と違い膨大に増えたことや、世間からの風当たりの強さなどから、教員のストレスや多忙感は想像を絶するものになっており、現にうつ病率は暗数も含め6割を越えると言われている。
 ポイントはこの教員の労働の2極化と多忙感である。
例えば書類等の印刷を外部委託すれば業務を効率化できるのではという提案一つ上げても微妙に複雑であり、数枚の資料を一学年分印刷するのに10分から1時間程度、この印刷の時間はこの後の仕事の段取りを考える時間であったり、他の教員と情報交換をする時間であったり、大方の先生はお昼に休憩が取れないため作業がひと段落して休憩や昼食の時間に充てられたりと意外と効果的な使われ方をするのである。

多忙の解消に教員の増員を

 いわゆる「ゆとり教育」の導入の背景の一つとして、当時から教員の多忙問題は取り上げられていたという。教員の仕事にもゆとりを、という意味も含まれていたが、結局教員の仕事量は変わらないどころか増加した、などという現場の声も聞かれる。
 「ゆとり教育」だの「道徳教育の充実」だの「新しい学力観」だの「生きる力」だの、教育の世界では多くのスローガンが掲げられてきたが、それはどこまで遂行されたのかといわれるとやはり疑問である。
 例えば「ゆとり教育」を行わせようとしたところで、教員の労働環境は全く変わってこなかった。教育予算などは1.5倍に増えたと言うが、いまだに教員の絶対数は足りていないし、20〜30代の教員と50代の教員の割合はほぼ同じであるし、教員予備軍の数も足りていないという指摘は報告されるし、教育予算が使われる先はICT機器の導入で、研修もなしに導入だけ進められあとは教員の自己研さんに任せます、的な風潮もいまだにありきで、配分のバランスが非常に悪いと感じている。
 35人学級でもまだ多く、他の先進国並みの20人前後の少人数学級(18人程度が適切規模という報告を昔見たことがあるが失念)を目指すことも重要であるし、実技教科はさらにそのハーフクラスでもいいくらいである。また、一部の国や学校が取り入れている担任業務は学校カウンセラーに、教員は教科担任の仕事だけ、と完璧に分けてしまう制度や、今の状態で副担任を増やす制度があるだけでもかなり多忙は緩和されるのではないか。
 今年度から実施された子供手当の支給総額が2兆7000億円、厚生労働省の管轄で、他の先進国に比べてGDPにおける教育・子育てに使うお金が少ないから配給することを決めたらしい。35人学級に必要な予算が3000億円。上位1割の人たちを所得制限し、その配分予算を文科省に渡すだけで、35人学級は達成できるはずなのだが、予算配分の多くは省庁間のパワーバランスで決まると聞く。また農水省文化庁文科省は「日本の農業が衰退してもいいのか」「日本の文化が(以下略」「日本の学力が」といった文句で予算削減を免れてきた文化があるという話もよく聞く(官僚の多くはちゃんと仕事をしているし、信憑性は低い気がするが。)。
 予算配分の悪さ、もしくは学校・教員への期待や不満、および仕事量の緩和を唱えることは間違った方向ではないと思うのだが。