サブカルクソヤローがなぜむかつくのか-あるいはオタクとニャル子とディスタンクシオン

 ヒエラルキーは場に宿る。例えば学校という場は勉強をする場所であるにもかかわらず、いかに勉強以外のことをうまくこなせるか、という独特のスクールカーストがあり、それは学校ごとに微妙に異なる。
 遊べる本屋でおなじみ、ヴィレッジバンガードにいけば、これでもかという具合にサブカルと呼ばれる、エログロで違和感しか感じなさそうなグッズが所狭しと置かれており、この空間ではこの名状しがたい意味不明な感じ(サブカル感とでも言おうか)が支配している。そこにはよりサブカル感の強いものや大衆文化っぽくないけどマニアックすぎないものたちが良しとされる評価軸が存在し、店に入ったとたん、その空気に支配される。
 新宿以西の中央線沿いの街を歩くと、同様に独特の雰囲気を感じる。裏道沿いにレゲエな服屋やグッズ屋が並んでおり、人によっては「私は世間の価値観と違うところで生きている」と言わんばかりの顔で若い子から大人まで品定めをしている様子が見て取れる(もちろんそんな人が大半だという話ではない)。
 他にも、休日に美術館に行けば、なにかしら一般的な染まってない私、を主張しているような顔の人間が沢山いるし、原宿方面に行く電車に乗れば、頭に大きな華をつけたお嬢さん達が、なぜ自分たちの美醜ヒエラルキーは世間にうけいれられないのか、といわんばかりに不安とも疲れともとれないぶすっとした顔をして立っている。スタバに行けばMBAを開いてノマド顔している人たちがいて、コワーキングスペースに行けばフリーランスや起業家達がひたすらmtgのための資料を作って忙しさをアピールしている。facebookを開けば社会起業家や貧困学生を応援するページにいいね!がつき、ビジネス誌を開けば肩書きのすごそうな人が若者の○○離れについて詩のような表現を使いながら解説し、大学に行けば学生達が勉強に染まっていない俺、を主張する。

消費の裏に隠されたメッセージ

 購買/消費/いいね!という行動は消費対象そのものに投票・応援するという側面と同時にそれを購買/消費/いいね!した人が意識的無意識的に関わらず卓越化される側面がある。卓越化とは差異化*1により人と一線を画そうとすることで、例えば、「よくあるファッションだけれども自分のブランドは他の安物と違う」とか、例えば「j-popだっせえ、聞くなら洋楽だろjk」と言った具合だ。これを社会学者のブルデューディスタンクシオンという言葉で表した。もっとも著書での言及はこの記事の文脈とは違うのだが。
 芸術や文化を消費するとき、必ずその背景には文化資本がある。お金持ちはお金持ちの文化背景を持った状態で絵や音楽を聴くし、物語を楽しむ。例えばオペラや歌舞伎やバレエの舞台は、値段設定的にも主にブルジョア層のためのものとなっており、一般層が見ても何を楽しめばいいのかわからないことが多々ある。逆に言えば同じ絵画や音楽と言う対象でも楽しみ方の違いが、階層(この場合は財産)の違いを顕著にし、差異化させ卓越化させてしまうと言う話だ。

 あなたが嫌いなサブカルクソヤロー達はいつも、サブカルグッズやある種のオタ向けグッズを、それを愛しているからという理由で購入している。「それを愛しているから購入している」と語る反面、それを集める自分は他のオタクやサブカルユーザと違うのだ、というメッセージががんがん臭ってこないだろうか?オタグッズを購入している以上、「あなたとは違うんです!」は意識的無意識的に関わらず働くし、それをブログやツイッターに書くことで嗜好の発露と卓越性が顕在化する。オタクやサブカルクソヤローは現代における文化的ブルジョアジーである。

卓越化を嫌味なくできるサービスは流行る

 サービスとしてユーザであることがステータスになるものは昔から存在した。車だの家電だのは高度経済成長期にステータスとなるわかりやすいプロダクトであったし総中流時代を経て今やインフラである。車なんかはその代名詞だった割に売れないから若者の車離れとかいって乗ってる車で差異化卓越化を果たして来た世代から総バッシングである。なぜ売れなくなったかと言えば簡単で、不況や失業率報道で長期的な借金への不安が大きくなった。しかしお金ないけど自分をそれなりに他人と区別したい欲求は衰えてない。お金かけなくても自分をアイデンティファイできるもの、卓越化のためのプロダクトがハードからソフトへ、モノからウェブへ舞台を移した。最もわかりやすいのがFacebookのいいね!だろう。mixiの足跡やいいね、女子高生達のブログのペタとはちがい、誰も得しないのにそのサイトをいいね!と言っています、は共有される。like!と発することで応援と差異化が同時に行われ、その蓄積が他者との卓越化に繋がる。後は儀礼的無関心然り、儀礼的無邪気を装えばfacebookが応援に擬態したセルフブランディングツールとして意識的であれ無意識的であれ機能する。このいいね!の共有が、少なくとも日本のfacebookの流行にもたらしたモノは大きいと考える。食べログcookpadもyahoo知恵袋もはてなスターもみんな同じだ。
 <所属>はどうだろうか?消費と生産という構造の違いはあれど、ソーシャルもNPOノマドも起業もエヴァンジェリストも、名乗る/繋がることが同じ側面を持つ。彼らは差異化/卓越化/そしてヒエラルキーの逆転のためにそのコンテンツや団体を応援したいし参加したいし、そのコミュニティに属せればその活動の効果は2の次3の次なのだ。逆にその側面をうまく制御し、広告業界はよりディスタンクティブなプロダクト/サービスをプロモーションして来たし、差異化欲求を喚起して来た。そして舞台がウェブに移った昨今では卓越化のためのインセンティブをうまく設計できたFacebookのようなサービスこそが成功してきたし、サービスに限らず、この人とプロジェクトをしたことがある、と言うことがステータスになるような<ブランド力>がある人はビジネスの世界では引っ張りだこである。

オタク的な売り方はこれからも増える

 弱い結びつきのコミュニティが増えたり、利害関係が少ないコミュニティが増えた昨今でも、古くからルールが変わらないオタクコミュニティのようなコミュニティでは、同質性の集まりであるにもかかわらず他人と違うことをアピールして一定の地位を確保しておく必要があるというコンフリクトを抱える。またポストエヴァンゲリオン以降は様々な理由や要因でオタク化したい若者達も増えており、いわゆるにわかや新参のためのコンテンツの需要が高くなっている。そして古参オタクと同列の世界で争えるよう、より卓越化のしやすい大量の美少女が出てくるアニメが流行し、データベース化され、どのキャラが好きかを一生懸命語りあうコミュニケーションが隆盛する。ライトノベルに始まり、ジャニーズでもAKBでも、テニミュでも、k−popでも同様だ。彼らは既存のオタク市場のパイを分け合うのではなく、新参を増やし投票のようなシステムで競争させながら消費させることで、マーケットを大きく広げた。
 オタク的な売り方に重要な要素はいかにテンプレートを踏襲するかである。ひとつは長いタイトルのラノベが流行したときからの傾向が顕著であるが、幼なじみ、妹キャラ、金髪ツインテ、異常な権力を持った生徒会でお嬢様の先輩などといった、テンプレート化されたキャラクターをいかに並べ如何に典型的な言葉をしゃべらせるか。生まれたときからゴールデンで過去のアニメの名言が出揃った番組を見せられて来た世代のオタク達は名言をいかにアレンジして再現するか、を消費する。あずまんはこれをデータベース消費と命名した。
 もう一つはキャラではなく物語の要素や台詞としてのテンプレートである。特撮、軍事、鉄道、アニメが隆盛を極める前からコンテンツオタク達の世界は深く広かったわけで、それらの要素を寄せ集めて埋め込むことで、アニメの楽しみ方は台詞や展開そのものを笑うのでなく、どの台詞や展開をどこにつなげて笑うか、どんなオチへもって来たかの妙を笑う形へと変わる。宮台真司氏はこれを楽屋落ちと表現したし、エヴァまどか☆マギカも、批評の世界では何を参照しどうテンプレからずらされているか、ばかりが語られていた。わざと過去の作品の要素を突っ込んでいるとわかっていても、なぜその作品のこの場面にその台詞や要素を突っ込んだのか、皆わかっていながら真面目に語るし真面目に騙されようとするのである。それが作法なのである。
 

これからのオタクの差異化

 ブルデューの言う差異化の意図は、生まれや資産規模で縦に格差や越えられない壁を見いだすことにあった。本エントリーで扱ったのは、どちらかといえばテリトリーを横に広げながら、そこに優劣を見いだそうとする傾向がオタク達には顕著であるが、一般人にも実はその振る舞いが普及しているよねと言う主張である。もう最終回を迎えてしまったがニャル子さんのような、既存の萌えキャラデータベースと、一部の層に人気があったクトゥルフ神話と、展開も他のマニア向けの要素をネタばれwikiができるほどに詰め込んでかけあわせた作品は、いわば次世代の王道である。(そして売り方としては邪道である)。ウルトラマンシリーズと仮面ライダーシリーズとガンダムシリーズマクロスシリーズとラノベ発アニメ群とゲームハードとエロゲと格闘ゲームのテンプレと秋葉原の地理といくつかの神話とを知っていなければ全てのネタを楽しめないし、一つでも知っていればアニメを楽しむこともできる。それらの埋め込まれたネタを確認し、選択して笑い飛ばすことが、新しい消費の仕方であり、コンテンツとしての新しい価値として機能する。
 ネットワークインフラの整備が加速し、コンテンツを消費して行く上では、それらの臭いの強さを、我々は受け入れて行かねばならない。コンテンツの価値はいかにいいね!することにプレミアがつくかに偏って行くだろうし、いかにマイナーでクオリティが高いモノを発見するか、というヒエラルキーの界が発生する。はてブつかうのも思想地図読むのもアニソンDJのクラブに行くのも、ニコニコ見るのもみんなディスタンクシオンだ。

 大手の広告代理店は、いろんなプロモーションを用いてこの手の欲望(主に購買衝動)を喚起して来たし、欲望の形は単純であった。しかし、CMもコーラとイメージと歌を並べれば良い時代はもうすぐ終わる(もちろんプロダクトが何かによって相性があるのだけれども)少なくともwebと連動するようなコンテンツをプロモーションするためには、喚起すべき欲望の構造の転換が求められているし、どんな形に転換すべきかは業界も悩んでいるところだろうし、購買と投票が結びつく構造と言うのはある種現代的な欲望構造として正解の一つであったのだろう。


這いよれ! ニャル子さん メイド服+ウィッグ付 ★ コスプレ衣装  新品 完全オーダメイドも対応可差異と欲望―ブルデュー『ディスタンクシオン』を読む

*1:積分という文脈でこのエントリではこの言葉を使う