「クールティーチャー宣言」という幻想-書評-教育幻想

結構前に読み終えて紹介するかどうか迷った一冊。いくつかの本屋をめぐったがほとんどの本屋に平積みされているだけあって、非常に良いことが書いてあるのだが、僕の感想は「理念はわかるんだけども、事例が不適切すぎる」。なぜamazonでこれほど絶賛されているかわからないし、教育社会学の本を2〜3冊読んだ人であれば、本書から読み取れるのは、学校の先生は大変だということと、著者がいい人なのだろうな、ということくらいである。

教育幻想 クールティーチャー宣言 (ちくまプリマー新書)
菅野 仁
筑摩書房
売り上げランキング: 105444
おすすめ度の平均: 5.0
4 なかなかすぐれた本だが…
5 教育者でなくても必読
5 すべての人のための「新しい」教育論の本
5 クールティーチャーのすすめ!!

教師不在の教育論

 本書は、著者が社会学の知見をもとに学校というものを見直した一冊。学校は「産業的身体」を作る場所であること、教育は属人的に語ってはいけないこと、極論を避けてトレードオフで解決策を考えること、学校を秩序という文脈でとらえなおすこと、など非常に秀逸な内容を含むのであるが、全体として見れば、ちょっと賢い人が書いた新聞の教育コラムをかっこいいタイトルを付けて売り出した一冊にすぎない。例えば学校がルールを教えないから切れる若者が増えるのだ、とか、鳥取は行きすぎた平等の元リーダーを作る教育をしてなかった、だから若者にはリーダー不在である、など、一部の事例を取り出して全体を語るという、一番社会学者がやっていはいけない作法を平気でやってのけるのだ。ネオリベ批判も構わないのだが、例えばキレる若者は発達障害である可能性が高いと言われている(要は医学的問題)であるし、リーダーや管理職になりたがっている若者は統計的に増えている。そして本書に出てくるクールティーチャーとはどのような存在なのかといえば

(1)教育に対する情熱は人一倍持ちながら、しかし冷静に生徒や児童を見ていて、どんな子供に対してでも、最低基本のサービスをきちんと提供できる先生
(2)しかもさらに伸びそうな子供には、個性を尊重しながらアドバイスができる先生
(3)クラスを家族のようには考えない――つまりあまりにも共同体的志向を強くしすぎずに、子供たちの学力や状況について、客観的情報やデータに基づいた分析もきちんとできる先生
こんな教師像が、これからはますます必要になってくると思います。

と言い出す始末。
以前ツイッターにも書いたが我々教員は、常に子どもたちの前で演技をしている。クールティーチャーなるものがあるとすれば、それこそ学校はクールティーチャーだらけであるし、最近で熱血先生のほうが少ないし、もっと言うと冷静に対応できない教師が増えているとすれば、それは多忙の末に精神的余裕が確保できないからである。現にそういう先生が大多数の中、何を言い出すのかと目を丸くしてしまった。

 このように本書は新聞に書いてある噂話程度の話を実証もせず経験則から語るだけの説教本に落ち着いてしまった。理念だけを取り出せばものすごく崇高で役に立つことを書いているのに、事例の信頼度がガッツリ低い。生徒と友達のようにふるまう「友達先生」を「子供が怖いから迎合する」と批判するのであるが、それは先生の価値観というより、保護者が怖いからそうなるのであり、現場の先生方は常に保護者問題で胃を痛めている。
 かけっこで全員が手をつないでゴールの事例も行きすぎた平等教育であると批判するのだが、これはほぼ都市伝説であり、昔はいくつか存在したが、現代で行っている学校はほとんどない(情報源が見つからない)というのが定説になりつつあるし、一般人ならともかく、学者がこれを取り上げて批判するのはどうなのか。と思うような本書中に事例がいくつかみられるのである。
 ありもしない教育をでっちあげて、それを非難する、まさにタイトル通りの「教育幻想」である。

なぜ人を殺してはいけないか

 本書で最もがっかりしたのがここ。「なぜ人を殺してはいけないのか、それは秩序が保てないから。ルールは人を自由にするためにある。秩序が保てないと人は不安の中で暮らさなければいけない。」要約するとそういった答えがここに書いてある。これくらいの事、今のちょっとませた中学生位ならとっくにシミュレーションしているし十分に分かっているはずである。なぜ繰り返す必要があるのか。
 しかし、この問題は秩序の文脈で語ってはいけない。

「なぜ人を殺してはいけないか」、映画「告白」で久々にぶり返されたこの問いだけど、決して正義と秩序の文脈でこれを語ってはいけない。宮台真司はこの問いが出ること自体がおかしいと言った。命の重さは自尊心に比例するからである。

ヱヴァンゲリヲンしょご機 (@showgo) | Twitter

 そう、他人の生命の重みは自分の生命の重みに比例する。自分を大事に考えていない若者は、極論自分も人も死んでいいと考えている節がどこかにある。香山リカ風に言えば、痛みを伴う行為が自分の命の重みを再確認させてくれる。反社会的な行為は命の尊厳を再確認するための装置として逆機能を負っている。
 また、昔は人を殺してもよかった。それはゲーム理論でもたびたび取り上げられるが、常に競争や闘争が発生する社会では、一番生存率が高い集団はやられるまで手は出さないが、やられたらやり返す集団である。自分のコミュニティの人間が殺されたら、味方が殺し返す。敵を殺すという儀式自体が、集団の結びつきを強くし、社会を構成する順機能として働いていた。しかし、イノベーションは起きる。銃の発明により、今まで復讐においては殺すといいながら半殺し程度ですんでいた喧嘩が、今度は確実な殺傷行為が可能になる。殺傷可能になることで、喧嘩をしていた集団と仲良くして味方がたくさん死なない社会を作ろうとする生存戦略がとられる。ここで重要なのは技術の発達によってはじめてルールが必要になった、という史実である。

人を殺してはいけないルールが明日取っ払われたとしてどれだけの人が殺人を犯すのか、この問いを考えた時に感じる恐怖感や不信感こそコミュニティの崩壊の本質である。すなわち隣人をどれだけ信頼するか、最低限の信頼を持って接しているか、という問題。

ヱヴァンゲリヲンしょご機 (@showgo) | Twitter

 つまり、教育に今必要なのは信頼関係や自己肯定ができるイベントである。大人になって思い返すと冷めた目で語られる体育祭や文化祭などのイベントであるが、ひそかに今見つめなおされているし、「学校という体裁を保つためのイベント」からの脱却、そして(人を信頼したり自分を見つめなおす)成功体験としてのイベント、という自己啓発が圧倒的に不足しているのが今の教育現場である。この辺の話はそのうち詳しい内容を記事にしてあげたい。そしてなぜ人を殺してはいけないのか、について詳しくは以下の本を勧めたい。5年前の本ながら本書を買うより圧倒的に深く広く有用な話が掲載されている

人生の教科書 よのなかのルール (ちくま文庫)
藤原 和博 宮台 真司
筑摩書房
売り上げランキング: 54268
おすすめ度の平均: 4.0
4 中学生に読ませたい
3 藤原 和博さんの文章には納得
4 古き良き時代を取り戻すために
2 宮台氏以外の文章は・・・
5 そこそこ楽しければいい・・・すか?

教師と社会とのコミュニケーション問題

 また本書全体にある違和感として、伝える必要がある、考える必要がある、という言葉ばかりが使われ、肝心の教師や親から子供へどう伝えるか、どう気付かせるかという部分がほとんど書かれていない。態度で示せ、に類似した言葉ばかりが書いてあるだけである。
 多くの教師は言われなくてもやっているし、こういった批判や本を手にとって読むことで忘れていた初心を思いだしはすれ、なにか現状が解決するわけではない。現代の教育においては学校の先生はこうあるべきだ、というより、学校の先生たちを信頼し応援しましょう、手伝えることはないかと積極的に聞きましょう、などと書かれた本のほうが実は効果は高い。一般の教員の専門性をもっと信頼し、かつ教師を適切に取りまとめる少数のエリート教師をどう育てるかという方法を模索することのほうが現代的課題である。学校が組織化するにつれてリーダーやマネージャ不足であることがだんだん明らかになってきている。

 社会学者と学校でさえ、お互いがどういう価値観でどう働いているかを理解しあえていない。こういった教員と社会とのコミュニケーションの隔たりの問題は年々強くなっているように感じている。学校が独立した組織であればうまく回っていた時代のしくみが残ったまま、文科省の方針で学校は社会に開かれようとしている。これがどう転ぶかはまだ分からないが、少なくとも教員の仕事が大変であることを理解している保護者は増えてきているように感じる。理解できないというより理解する心の余裕がない親は一定割合存在するし、それは教育でなく社会の問題である。教育現場と社会がもっと理解しながらも適切な距離を保ちつつ応援し合える関係になること、これは理想論であるが、我々は適切な資源分配をしながらそれに全力を尽くさねばならない。

 本書にはもちろん社会学者として非常に有用な知見も多々書いている。いじめは属人的な要因を見るだけでは治らないこと、コミュニティの形成期には非常に高い秩序が作られ、徐々に飽和し崩壊して行くことなど、言われてみればなるほどと思うことが多々書いてあった。我々は定期的に祭りを起こさねばならない。学校の役割は文化の継承と発信であり、文化でも文明でもイベントでも、なにかをつくり上げることが最も成長を実感できる方法である。ぜひ学校にイベントを、教員に信頼を!といったメッセージを発する本がもっと増えればと日々願うのである。

なぜ教育論争は不毛なのか―学力論争を超えて (中公新書ラクレ88)
苅谷 剛彦
中央公論新社
売り上げランキング: 58206
おすすめ度の平均: 5.0
4 社会変化を踏まえた教育方針の必要性
5 「ゆくえ」,「危機」,「幻想」,そして「不毛」
5 教育問題は教育のみの問題にあらず
5 金持ちの子供ほど高学歴という現実
5 社会科学の視点
中学改造 学校には何ができて、何ができないのか日本人のしつけは衰退したか (講談社現代新書 (1448))教育言説の歴史社会学教育には何ができないか―教育神話の解体と再生の試み格差・秩序不安と教育