似たようなタイトルの本があるし学力本とのことでまたかよ感のある内容ではあったが、初学者向けとしては非常にいい本なので紹介と批判メモを。僕が今考えていることのまとめでもある。学力学力って言うけど樹のメタファ使ってみたらドヤァ〜的なものはあるものの、歴史を追って学習指導要領の学力詰め込み重視と体験重視が入れ替わる右往左往批判から入るあたり非常に堅実。
以下要点だけ紹介
学力は低下している
この見出し、ずるいと思うのだが、正確に言うと貧困地区での低学力層の試験学力が、東大関西調査という89年の調査と2001年の調査で比較して、低下していると言う話。分布を調べてみると、普通は平均点近くに集まり外に行くほど人数が少なくなる山なりの正規分布を示すが、この調査では2こぶとか3こぶの分布を示し、つまり、試験が解ける層と解けない層が2極化していることがわかったと言う。教育格差問題の誕生である。
効果のある学校の発見と力のある学校
調査の中でも過酷な学習環境の子どもが集まる地区の学校で、一定の成果を上げている学校があると言う。それが「効果のある学校(effective school)」であるという。もともとアメリカのスラムや貧困地区で学習成績の良い学校をそう言い出したのが始まりであるが、その言い方は日本になじまないから「力のある学校(empowerment school)」と呼ぼうと著者は進言する。授業研究と言う日本独自の教育文化や同僚性の問題なのだろうが、なにが違うのかよくわからなかった。
基本的に低学力層が点数悪いのは家庭環境が悪い、ものすごい相関があるってデータいくつもでてるよと。でもどうしようもないから家族だけが子どもの教育を面倒見る、学校の時間は先生だけが子どもの面倒を見る、と言うのをやめよう、という提言がコミュニティスクールの紹介を通してなされる。
コミュニティスクールは学校に「学校運営協議会」が設置され、学校職員だけでなく保護者や地域が関われるようになった学校で、学校にコミュニティの中心となる場として機能を持たせたものだ。H24年度現在で1183校、これら全てが成果を出している訳ではないが、今保護者さえ味方に付ければ教育委員会にもの申せたり学校に先生や職員を1人多めに配属できたりと権限が大きくなるため注目されている。
本書では東京みたいなプロダクトアウトで教育プログラムやカリキュラムつくって学校選択制より、マーケットインで、校区にあわせた教育プログラムやカリキュラムつくってやってる大阪の方がいいよねという話と、地域が面倒見れば家庭環境の逆境なんて吹き飛ばせるだろ、的な言いたいことはよくわかるけど、な論が展開される。
教育格差の誤解
ココからは僕の考え。タイトルの通り、教育格差自体は試験を受けさせれば必ず発生する分布のことなので問題ではない、格差が問題というのは出来る子とできない子の点数が開いていることが問題ということなのだ。しかしこの点がおかしいのではないかと一部の学者たちは批判する。出来る子が教育環境に恵まれてさらに学習が進むことは別に良いことではないのか?問題は出来ない子普通の子が最低限の教育環境にすら恵まれずさらに学力が低下して行くタイプの学力格差の拡大である。
学校はその学習環境としての最後の砦であったが、体罰の禁止、学級崩壊以降学校はその機能を発揮できない。多くの親の学歴が教師の最終学歴を越え、専門性を疑われ、不況の原因を学校に求められ、アカウンタビリティを求める声とともに学校教員の多忙化が加速している。学校が荒れたのは学校をさんざん馬鹿にしてきた大人達とメディアの責任であることは多く指摘されている。そして学校の先生達がこれに共謀関係であったことも否定できない。だから学校をコミュニティ化しよう、という敗北宣言はいかなものかと個人的に思っている。コミュニティ化は過渡期であって、解決策ではない。保護者は(環境保全主含めた)経済活動に、学校は教育活動に注力できる分業が元通りきちんとなされていることの方が健康なはずだ。
その他メモ
・意欲関心態度は根っこの部分で表に出ないとする学力の樹のメタファは客観的測定のしやすさの基準を示したものか。著者のいう学力は「経験の総体」であり蓄積型。<学力>を物語として捉えている。
・意欲・関心・態度は学力の微分や積分であるという考え方が一般的ではないか。以前と比べ点数が高くなると意欲があると見なされるし、高い点を取り続けると学習に対する関心があり学習態度が良好とされる。
・興味や意欲・関心・態度を喚起する教育に偏りすぎると出来る子とできない子の格差が開く可能性がある。授業でやる気がでても家に帰ると勉強できる環境がなかったり、親が面倒を見てくれないことも。「『体験』を中心とした学習をやれば、家庭環境の違いによらずどの子供の興味・関心、学習意欲を高めることができると言った『子供中心主義』 教育の神話が、かえって、曖昧で『目に見えない』教授法を広めることで階層差を広げていく」(苅谷剛彦)
・メタファの秀逸さより学力が就職や進学や生産など、何と接続するかが大事。低学力層を資本主義の仕組みに乗っからせる以上資本主義と指導要領と学力がどうマッチするかを評価する必要がある。学力の中からは学力は語れない。
・教育の2重性。教育には国や地域のための教育と、個人がどう成長するかという教育サービス(=学習)がある。個人がどう成長するかという物語ばかりみんな興味を持つ。出来る子がそこそこ偏差値の高い大学に進学したからって何も面白くない。
・階層や再生産の問題は、欧米であった支配被支配構造やフィリピンのような階層固定による搾取問題こそが問題であり、社会移動出来なくともそれなりに自由な生活を送れる環境であれば良いのではないか。
・日本の場合は社会福祉が雇用福祉に盛り込まれすぎていることや、不況で収入が減ると一気に生活のグレードがダウンすることが大きい。その制度を変えられないから教育、と言う構図になりがち。
・階層移動により文化資本が違う層とうまくコミュニケーションがとれないと悲劇が起きる例も。大人が担保すべきは進学のような一人一人の成功物語ではなく社会流動性と、階層が下がっても悲劇が起きない福祉。(「英国立身出世と教育」小池滋)
・日本の教育費の私的負担は3割強、対GDP比1.7%、公的負担は3.3%。教材教具通塾費用など単親家族などはやはり不利になる。本書の最後の方に紹介されているフィンランドは私的負担が対GDP比0.1%、公的負担は5.7%。}^¤wZ³çïÌÎGDPäiÛärjより