本書は定時制高校の教師が、学校でのエピソードを通して生徒たちの思考のプロセスを追いながら、従来教育で良しとされてきたことを問い直す本。本書が面白いと思えるのはそこに7割の不幸と3割の幸せがあるからである。
本書の帯には内田樹氏推薦の言葉も書いてある。
教育は生活指導と授業
いっしょくたに語られることも多いが学校で教育といった場合、大きく分けて「生活指導」と「授業」を指す。もちろん個別の行動は会話や提示や運動なのだけれど、この二つの"時間"で切り分けると、見えてくるものがある。
学校の教員たちは「授業」を守ろうとするということである。
小学校から高校まで担任制が導入されている学校の多くが1クラス40人。義務教育であれば全体の2割がドロップアウト気味の生徒と言われ、彼らの大半が軽度の発達障害であるという指摘もある。2割の生徒のために8割の生徒の「授業」を妨害してはいけない。生徒と教師の確執が描かれるコンテンツや現実の多くはそこから亀裂が入る。
定時制とカーニヴァル
そうしてドロップアウト気味の生徒たちが集まってくるのが定時制高校。本書の舞台となる高校は悲劇を抱えた生徒たちばかりの悲しい学校である。あるものは家庭機能不全、ある者はいじめ、ある者は引きこもりから脱出するために、ある者は大学を目指して。いまだにこれらの生徒たちの数は減っておらず、一方で社会的に抹殺されハイリスク名集団として描かれ、勧善懲悪の元ドラマにおいて裁かれるのである。
そして本書に登場する生徒たちに共通するのは、学校とまた別の社会を持って生きていること。ある者は暴走族、ある者はとび職、ある者は援助交際。そんな彼らを著者は関西の方言になぞらえて「輩(やから)」と呼び、彼らを理解するために彼らの思考を追い様々なコミュニケーションを試みる。
本書で問われる従来の教育とは、制服であり校則であり、テストであり学級であり生活指導である。誰だって生活指導の意味って何だろうと一回くらいは考えたことがあるだろう。そして彼ら輩達にとって、これらがどんな意味を持つのか、本書は徹底的に考える。マルセル・モースの贈与論など哲学的な思考も交えながら。
輩にとって教育に求めるものはカーニヴァルであり、校則に従っているかどうかや正しいかどうかなど規律や秩序ではない。掃除をするという名目で廊下を泡だらけにし、同じクラスの生徒たちが「仕方ない」と言いながら雑巾を持って拭き取りを手伝いだす。大人にとっては事件かもしれないが、生徒たち輩達にとっては斬新な"ネタ"であり、ネタを笑い続けるカーニヴァルなのだ。彼ら輩は一見ハイリスクな集団だが、理解すべき愛すべき人たちである。いや、必要以上にもっと愛してやらねば、承認してやらねばならない病的な存在なのかもしれない。
殺される教師
本書の半ばにこれだけ輩を理解しようとしても理解し合えなかったというエピソードがいくつか描かれる。単純に言えば生徒に変なレッテルを貼られたり、生徒に「殺すぞ」と言われたり、学校の同僚も著者の言い分を信じず生徒の言い分を信じてしまったり、管理職が対応を放棄したりするというもの。
著者は本書で何度も何度も精神的に殺される。
この著者がすごいのは教授の関係でなく信頼関係をベースに教育を行うという姿勢を終始貫き通していることだ。教師の仕事は信じることと裏切られることであり、ベテラン教師になるほど裏切られることにうんざりして生徒を信じなくなる。明らかに著者は教職者の中でも「強者」に位置し、いち早く頭を回転させさまざまな困難に対応できるだけの強さを持っている。
だからこそ生徒から「殺すぞ」という言葉を使われるのは、いくら親しい中であったとしても心の底に包丁を突き刺すような痛みを伴う。ここで死ぬことができればどれだけ楽か、という視点で考えれるのが適切かもしれない。お前の存在を俺は必要としていない、という訴えかけは普通の人間でも非常に痛いはずだ。
一般の学校でも子どもたちはある一定ラインの力量の見えない教師を敵視する。学校の中で敵視されやすい教員ほど実は仲間は多い。そして力量のある先生ほど孤立する傾向にあり、彼らを支えているのは生徒たちからの承認返しだけでしかない。別に力量でなくてもいい、ある種のアクティブさと読み替えるほうがしっくりくるかもしれない。
しかし著者は別の輩達を味方につけることで精神的安定をはかる。殺された輩に対して心から笑うことはできなくても一方的に理解してやることには成功する。GTOのような面白さと金八先生のような繊細さを兼ね備え、不幸な環境にいても降伏を感じる著者のエピソードたちを、夏休みの感想文ように一冊読んでみてはどうだろうか。