男は娘を血の袋として愛してしまう。自分と同じ血が入った袋として、それを娘のように、母親のように、そして自分のように愛そうとした。「欠損家族」の中でハカり知れない孤独と、それによって繰り返し訪れる破壊衝動とを情愛に依って覆い隠し、血がつながっている他の個体に自己を憑依させ、それを愛す。一度血のつながりを知ってしまえば、それはただの理由の一つにすぎないはずなのに、血がつながっていない者を愛せなくなる。そんな狂ったような実直さを淡々と再現した物語。
本書「私の男」は桜庭一樹による同名の映画の原作小説で直木賞受賞作。小説なんて滅多に読まないのだけれど、映画を見たと言ったら批評家クラスタに原作も読んでみて下さいと言われたので図書館で借りてみた。
映画とは逆の時系列で、この物語は群像劇形式で各章の主人公視点から始まる。ヒロインである花が映画とは違う男と結婚するところから始まり、過去にさかのぼりながら、一つ、一つ、主人公達の放つ「象徴的な言葉」の発生したエピソードが描かれていく。いちいちねっとりした表現と、女々しい語り口調に作者は女流作家かと錯覚したら、本当に女流作家だったらしい。
90年代以降主流なテーゼとなった機能不全家族を、快活にあつかった作品を何度かブログでも紹介してきたけれど、気づけば逆にここまで女々しい作品は見たことが無かった気もする。すべて希望へつなげようとするか破壊衝動につなげる作品が多かった中、本書は「消える」。どこへかはわからないが、「消える」。近親相姦を扱った本作は、第一章で、父が消えてから物語が始まるのである。
本書でも取り扱わなかった、愛情と血が濃すぎて父を嫌いになる描写の代わりに、スローモーションのように<恐怖>が愛情へ、母性へと少女を変えていく描写が何度も何度も描かれる。少女と男の中には自己、親密な異性、家族、他者、各々にすべてが住まっており、イベントごとにペルソナを変えていく。お互いがお互いの望むものを、今力の及ぶ限りに於いて贈与しあい、やがてその世界を守るために人を殺してしまう。あっけなく死んでいく描写については何とも言えないのだけれど、(そして殺す必要あったのかという議論もあるのだろうけれど)本書のミソはそこではなく、やはり自己愛を家族へ投影することの病理をこれだけ極端な例で描いたことである。家族というもの、血統というものが呪いとしてしか機能しなくなってしまった現代に於いて、ある程度のしがらみを感じながらも自由な野に放たれた二つの個体は、アメーバのように溶解し合成しては分裂する。合成し分裂するたびに、お互いの一部を自己の一部として身体に刻み、やがてもう一人の自分を愛するようにもう一人を愛するようになる。それは決して方翼のからすのような生易しい描写ではない。
作中、彼らは妄想をしない。互いに思いを馳せることや、過去を振り返ることはあっても、想像や妄想の世界を広げることは無い。えんえんと、判断についてが記述され、それが一番病的な世界観を醸し出しているのかもしれない、
何人か映画と原作を両方見た人の話を聞いたが、皆やはり原作の方が良かったという話をしている。現代の映画は基本的に2時間かけてPVをつくるような構成になっているため、作品自体の魅力が消臭されてしまっている気もした。
読んだのはハードカバーだったのだけれど、文庫本も出ているらしいので、そちらを求めるのも良い。欠損した何かを埋めるための恋愛と、欠損した自己を肯定するための恋愛が両立するのだと気づかせてもらった作品であった。
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