階層社会と幸福のジレンマ-書評-日本の難点

 僕はこの本の存在を支持する。この本に反論するぐらいに気合入れて勉強・情報収集して反論して社会を導いてくれる官僚やエリートの出現を期待している。

 本書は日本を代表する社会学宮台真司氏による日本の問題点をひたすら列挙した本。
 話題の切り分け方が不明瞭で、「なんでこんな構成になっているの?これ思いついたことを会話して録音したものを書き起こしたんじゃないの?」と思う部分は多々あるものの、人間関係、教育、幸福、アメリカ、そして日本について最先端の社会学の知見と教養から語られるものはやはり圧倒的なものがある。書き方ひとつとっても複雑な概念にそれを提唱した著名人の名前を添え、メタにメタを重ね、ある程度の教養がなければすらすら読めない代物になっている。私も(時間がなかったのもあるが)読み終えるのに一週間ほどかかった。書評も僕のような核や学識のない人間には決してまとまらない。そう思わせてしまう。
 ひたすらジレンマを与え続け、世界が、日本が今何を選択してきたか、そして我々がこれから何を選択すべきかを示してある。今読んでおいて決して損はないし、むしろ今読まなければ価値のない代物として著者が書いている。そのため本書は新書だし、論拠不在な記述も数多くみられた。少なくとも3カ月以内に手にしてほしい。選択権はあなたにある、「読むも選択、読まないも選択」だ。

日本の難点 (幻冬舎新書)
宮台 真司
幻冬舎
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起点は格差を肯定するところから

本書の出発点は格差が「ある」という前提から出発する。それは所得なものも、機会も承認も教育も政治も環境も軍事も。たとえば"学校"なんてものは、もともと家が貧しくて勉強できない子供のためにつくられたものだ。現代では学校というシステムは通過することが前提として語られ、学校は「学習」の場ではなく「生活」の場として位置づけられ、生活を縛るものという立場になってしまった。
 同様に、システムは広がった格差をある程度埋め、生産性を向上させる。その裏に何か別のものを犠牲にしたり、慣例や信頼関係など目に見えないものによって安定をはかってきたり、それが通じない社会になりつつある社会、すなわちポストモダン化など、日本の現状は複雑が一周戻ってシンプルになりつつある。
 本書はそれらを様々な知見を丁寧に踏まえて教えてくれる。社会学の専門家らしく、哲学、政治学社会学と著者自らの専門とする社会システム理論を、大学生でもわかるレベルまで議論をシンプル化して書いている。多分僕が持っている違和感はシンプル化されすぎたそれに対するものだと思っている。
 日本は三権分立と見せかけて二権分立でしかないとか、地球温暖化は政治議論であるとか、いろいろブログのアンテナが広ければどこかで拾うものばかりではあるのだが、著者なりの言葉で鋭くまとめてある。非常にブログ的な一冊である。

日本の難点は何か

 本書の核となる日本の難点、それは「包摂」が不足していること。包摂とは許容やフォローと読み替えてもかまわないだろう。まったくかかわりのない隣の人の生活や人生に、どれだけあなたが責任を持ちフォローしてあげるか。失敗をどれだけ許容し受け止めてあげるか。現代日本のビョーキとして語られる自己肯定感の無さや自虐、過剰な責任追及や貧富の差の加速など、これらの「包摂」が足りないという非常にシンプルな原因から語られる。秋葉原殺傷事件が起きたのは、周りに彼を支えたりフォローする人間が圧倒的に不足していたからだと著者は見る。一方で、それらを起点とする諸問題や包摂不足を導きだしたシステムの問題の根は意外と深い。僕は本書で語られることを語る技能は持ち合わせてはいないので是非読んでみてほしい。
 著者の弟子、鈴木謙介氏などはジョック・ヤングの「過剰包摂社会」を借りて著者に反論するらしい。著者の鈴木氏への

大丈夫か(笑)

というコメントに僕が恩師によくもらうものと同じものを感じる。
それは鈴木氏に対しての期待と圧力であろう。若手向けに人気があり社会を面白い視点で見ている彼の未来を叱咤しながら著者は応援したいんじゃなかろうかと勝手に考えている。

ヒステリックな日本

 本書の中で両極端な議論と一貫しない態度もいくつか見て取れる。「読み間違え」をする首相麻生太郎に対しアメリカにおける大統領のスピーチの重要性を提示し批判する割には、自信も「僕は爆笑します」などと、間違った日本語を使ったり(爆笑は大人数で笑うという意味。多分わざと)、ひたすらバカを連呼したり友人ですら論理がおかしければ人格を否定したりする記述がみられたりと、少々癖が強い。
 別に本書だけじゃないが、日本全体が極端になってきているというのは僕らの無意識に感じている印象だろう。普段は牧歌的に笑い、何か事があると鬼神のようにヒステリックになり攻め立てる。人はいつも2つの顔を持っている。「常時の顔」と「非常時の顔」である。本の内容とは離れるが、ブログでの炎上など何か事が起こった時に想像を超えて人々がヒステリックになるのは、非日常の顔を見せているからで、この非日常の顔に対して何をいくら反論しようと手ごたえはない。医療の世界ではこれはビョーキだ。
 そうして二面性を持った日本を社会学でどれだけ捉えられるかという疑問はある。包摂過剰と包摂不足の論理が両方存在する。
 それは実感的なものかもしれないし切り分け方がおかしいのかもしれないし定義があいまいなのかもしれない。多分そこにはコミットのレベル×包摂という指標があって、たとえば子育て一つに対しても過保護とネグレクトが語られるように、両方存在して、一元的には語れないものなのかもしれない。
 同時にやはり社会学という学問が、人を傾向や数字、そして動物としてしか見ていないことに、最初何とも許容しがたかった。

社会が僕らに貢献してくれるエリートを創ること

 著者の出した答え。非常に面白い。僕らが今後幸せに生きるためには、僕らのための無条件で貢献し、社会をデザインしてくれる官僚や政治家など、エリートを育てることである。江戸時代が士農工商の社会階級による貧困と格差の時代というのは嘘で、実は安定と幸福の社会であったように、実質的なエリート層を認め追求し、社会全体がそれらをつくること育てることにコミットすることで、僕らのために一生懸命働いてくれるエリート(情報処理の専門家)をつくる。これは非常に面白い議論だと思う。教育界の「教育固有の価値」ではひたすらに「差別」や「非平等なるもの」に対して僕らは学校で「トラウマ」を埋められ「才能」や「自分にない能力」に嫉妬するようプログラミングされてしまった。
 それらがうまく作動しているというのは教育がうまく作動しているということだ。このフィルタリングを通して「男は黙ってグランドデザイン」を美徳とするようなエリートをつくる。著者がそのロールモデルとなろうとしている事はよくわかるし、地頭のよい若者たちにミメーシスを起こしたいのだろう。
 本書が「わかりやすく書いた」体で難しい言葉を使ってフィルタリングしているのも見て取れる。"著者のフィルタリング装置としての新書"というのをはじめて読んだ。
 社会はこの考えをどこまで受け入れるだろうか。「エリートが暴走するのではないか」、「失敗したらだれが責任を取るのだ」著者は逆に考えろという。「エリートを暴走しないように見守る」「失敗した責任を全員が取る覚悟を持つ」ことが解決策だと。多分あと30年、団塊世代が完全に引退しないとこれは実現できないと思う。ただ、僕らがそれまでに「寛容な大人たち」をつくる事は可能だと思う。
 最後に著者がこの本を書くにいたった、それから社会学を志した動機が書いてある。本書の中ではセックスだなんだと下世話な話題も多いものの、チェゲバラ柳田國男など彼なりのロールモデルがあり、あくまで著者も普通の人から出発したという部分を強調しようという印象を受けた。

 僕はこの本の存在を支持する。この本に反論するぐらいに気合入れて勉強・情報収集して反論して導いてくれる官僚やエリートの出現を期待している。
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