精神分析学と言う思想の行く末-書評-フロイト以後

 日本でのユング信仰/フロイト信仰は異常だ。精神病のスペシャリスト達が無意識の構造と文字通り夢を見ることについて体系化したのが150年前。いまや半分カルト、半分社会権力と化したその150年前の手法が日本ではいまだカウンセリングで用いられている。
 その気持ち悪さの源泉は、精神医学は精神の異常を指摘して始まる学問であると言う本質的な部分にある。異常の裏にあるあるべき正常な人間像論に少々疑問がさしていたところで神保町の古書店で本書と運命の出会いを果たし購入。もちろん入門書であるが、軽い語り口とわかりやすい説明で期待通りもしくはそれ以上に、キレイに精神医学の"語られ方"の歴史と、その裏にある哲学の流れを網羅し、問題意識が一気にクリアになった。少し古い本であるが同じ問題意識を持っている人はぜひ手に取ってみてほしい。
 精神分析学の源流に位置し、フーコーにその裏にある権力性を発見され、ドゥルーズに批判されて来たフロイトとその精神医学の歴史。それらは批判的に発展継承されながら現代の文脈に「異常」という領域と、我々が異常ではないかと言う<不安>を生み出したと考えられる。だれしもが「異常」と呼ばれ仲間はずれにされることを不安に思ったことはあるはずである。

フロイト以後 (講談社現代新書)
鈴木 晶
講談社
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メスメリズム

 医学が「再現性」というキーワードのもと、自然科学の方法で探求されていなかった時代は、このメスメリズムと言う言葉で表される治療法が主流だった。
その前に当時の病気についての認識について、一つ具体例を提示しておこう。ヒステリーという言葉は現代では神経症の一種でスイッチが入ると急にわめき出す女性などを表す言葉として使われて来た。しかし精神医学で扱われるヒステリーと言う言葉は、器官に異常がないのに眼や耳が働かなくなるなどの症状がでること、であり、その異常は子宮が正位置から移動することで起きると考えられていた。ヒポクラテスはそれはくしゃみでなおる、と大真面目に語っていたらしいし、中世の「悪魔付き」も同様の原因によって引き起こされると考えられて来た。
解剖学がそのレベルからあまり進んでいない時代の話である。フランツ・アントン・メスメルという内科医が、お金持ちの未亡人と結婚し内科を開業、彼の画期的な治療法は、後にメスメリズムと呼ばれる。ある日メスメルは患者に鉄を含んだ薬を飲ませ、身体に磁石を貼付けてみた。すると患者は数時間後に全快してしまった。メスメルの研究はココから始まる。
彼がいうには世界は霊的磁気で満たされており、人間の身体の中にもその磁気流がありその流れが滞ると病気が発生するという。本人も磁石で病気が治るとは思っていなかったが、磁石を使うと思いがけないほど治療がうまく行った。
彼の顧客は上流階級ばかりで、個別な診察だけではなく、あるときは沢山の患者を集め手をつながせ回路を作り、その中に流れを作ることで集団診療を行ったという。

患者達は一人また一人と、痙攣発作を起こし、絶叫する者、踊る者、床を転げまわる者で、あたりは魔女の宴会さながらの様相を呈するのだった。

見てわかる通りメスメリズムは中国の気功や風水、そして昨今テレビをにぎわせるオーラやエネルギーの思想と非常に似ている。20世紀になってもオルゴン・エネルギーなどと称してフロイトの弟子が治療に使おうとしていたあたりからも、手を替え品を替え形を変えながらこの手の考え方は残っていくのだろうと考えられる。
と同時にこれらの治療は催眠と結びついた。1800年代末期、催眠研究は黄金期であり、未だにそのメカニズムは不明なものの、催眠は画期的な治療法であった。メスメルの治療も催眠と結びついたプラセボ効果による回復だと思われ、フロイトも最初は催眠研究から入った。催眠治療は何を行うか、患者に催眠をかけ、精神的オルガズムに達するようにしむける。治療でありながらエロティシズムに溢れたショーでもあった催眠は、作家や好事家や国内外の名士達が関心を寄せたと言う。
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どうして私たちが催眠を不思議がるかと言えば、それは催眠が、「自分は自分の意志で行動する」という私たちの信仰を打ち砕くからである。
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しかしフロイトは催眠と訣別し精神分析を一つのジャンルとして確立させる。催眠でもの言わぬ患者を治療するのでなく、患者に「語らせる」ことで病因を突き止める手法の源流を築き上げた。

フロイトユング、アードラー

フロイトの研究成果である無意識と抑圧の概念など数々の無意識の働きから、夢診断や無意識の構造、リビドーと幼児性欲。。。これらはフロイトに体系化される前もいろんな学者が訴えていたし、同時期に活躍した研究者ユング、アードラーなどと交流する中で磨き上げられていった。
彼らは最近になってまた注目され始めたが、ユングは神秘的な者を信じたい人たちに、アードラーは自己啓発したい人たちにうけいれられていてなんともな〜である。
ユングの研究は(本書にはそんなに紹介されていないが)非常に面白い。人間には普遍的無意識があり、それらは経験を積むことで人の形として6種類位に収束していく。そしてその無意識は夢の中にでて来て神話と同じ構造を取る、というのである。
そこに気づいたユングは後期には人間はその無意識の元型(アーキタイプ)をどっかで共有しているか埋め込まれている、とかいいながら曼荼羅を書き出すので大変気味悪いのであるが、シュルレアリズムなんかと結びつき、宗教カルト的な人気を博して今に至る。
アードラーはフロイトユングと3人ならび深層心理学の三巨頭と呼ばれる。アードラーは個人心理学と言う分野を切り開き、日本では無名だがアメリカではかなりのアードラー派の心理学者がいると言う。アードラーはフロイトを支持しながらも「劣等感」と「楽天的思考」の心理学を展開していった。
「勇気 Mult」を強調し、元気のでる心理がでる心理学としてバンバンで自己啓発やビジネス書に応用され書店に流通している、源流を作った研究者である。著者はこれはマーズローの人間制心理学とも異常に似ていると指摘している。
フロイトはいろんな研究者と交流したが、自分を無批判に受け入れる者意外とは訣別した。訣別した研究者達はみなノイローゼのようになったと言う。強烈な失恋だ。フロイト超自我的象徴でありたかったのかもしれない。

エディプスを巡る冒険

 本書に求めていた一番の部分はこの部分である。エディプス・コンプレックスが現代にどう残っているのか、ぼくはこれを知りたかった。フロイトは無意識は局所的に3つに分類できるとした。本格的な欲望のままにうごくエス(イド)、良心や論理的道徳観念の働きをする超自我、それらの調整役を行い様々な心理的防衛機能を行う自我(エゴ)がある。
エディプスコンプレックスとはこの3つの関わり方を表す言葉であり、コンプレックスとは一般的に用いられる「劣等感の理由」だけを指すのではなく、自我を脅すもの、という意味がある。超自我は自我にとって理想であるとともに禁止でもある。「してはいけない」は美徳であり禁止なのだ。これが自我を過度に脅迫したとき、自我は抑圧して思い出さないようにしたり反動形成したりするのである。
この自我をフロイトは神話エディプス(オイディプス)二なぞらえた。エディプスは王様の息子で、不吉な子だと予言され生まれてすぐ山に捨てられる。山で育ち街に赴く際にエディプスは父親であるライオス王を殺してしまう。そして街で英雄となり、未亡人となった母と(母とは知らず)結婚する。
フロイトによれば男の子は生まれてすぐ母親に恋をする。恋をするが父親(とその道徳観念=超自我)があるから母と結婚できない。すなわち、この母と結婚したい欲望がエス、それを実行できない理由となる父親が超自我、それに悩み葛藤しながら自我は父(の超自我)を取り入れ内面化するというのである。そうしてエディプスコンプレックスが消滅し超自我が発生する。
自分の中に超自我が芽生えるとともに禁止の理由は父(の超自我)が禁止するから、ではなく、自分の超自我が禁止するから、となる。すなわち父は殺されるのだ。
本書で圧巻なのはこれを中心に怒濤の勢いで研究者達のエディプスコンプレックスについての解釈が紹介される。箇条書きにしていこう。
ライヒ精神分析の際にあることを思い出すことを抵抗することがあり、その根底にある性格抵抗を分析べきだしそれが幼児期に親との関係で形成されるとした
サリヴァン、エーリッヒフロム、カレンホーナイは新フロイト派と呼ばれ、社会や環境が人間に与える影響を重視した
・マクルーゼは技術により「豊かな社会」が実現して生存のゆとりが以前より大きくなり、本来なら抑圧が弱くなるはずなのにそうではない状態=文明化社会による過剰抑圧を指摘した
・ハインツハルトマンは自我心理学を発展させ、自我は受け身ではなく自立であること、自我素質を自我屁と発展させる生物学的名考え方をした。自我が強いと健康で自我が弱いと不健康と言う話になりラカンにぶっ込まれた
エリクソンは自我理想と自我を同一化するアイデンティティとそれを会得するための猶予期間を経済学用語から拝借しモラトリアムと名付けた
メラニークラインは児童分析を通してフロイトの娘と喧嘩しながらフロイトの言う4〜5歳のエディプス期でなく生後1年以内に悪い内的対象が超自我になると唱え母子の相互関係が発達に影響を与える対象関係論の基礎を築いた
・ヴィンスバンガーは人間をエスや自我など概念装置に切り分けることを極力避けその様態と変化、それらが本来持っている指向性を全人的に理解すべきと考え、フロイトの「転移」だけでは精神分析には足りないと現存在分析の必要性を唱えた
ラカンは人間を言語動物と捉え、ソシュール言語学からフロイトを解読した。これにより精神分析は思想に位置づけられた
クリステヴァはインゲンの営みをシニフィアンス(意味生成)であるとし、主体は父親の脅迫を通してエディプスコンプレックスを克服し、不正的な言語秩序であるサンボリックに入っていくと考えた。また想像的父と象徴的父を愛の物語から読み取る。
フーコーフロイトのリビドーとかジャネの精神力に「神話すれすれ」とぶっ込み、収容施設が貧乏人を「狂気」として隔離し人々と境域のコミュニケーションを阻害したが精神分析はコミュニケーション取ろうぜって「偽善的に」でて来て結果ブルジョア的抑圧に加担したと指摘する。
ドゥルーズ=ガタリは「欲望する機会」というモデルを用いてコンプレックスを形成するのは必ずしも両親でなくていいのに精神分析家にかかると禁止から欲望を推論され、何か(父的なもの)に禁止されているからと理由を無理矢理付ける「癒されがたい家族主義」と指摘し、班精神分析、「分裂症分析」の提唱をした。
 一番最後にフロイティアンがフロイトから連綿と続く論に巻き込まれてしまい論理的に考えすぎてしまうことを指摘したのだろう。精神分析は説得力ゲームと化してしまった。心理学の本を読んでも何のエビデンスも用意せずこれらの概念を援用しているほんのどれだけ多いことか。現在並行してアンチオイディプスを読んでいるのでそこでも感想を述べたい。
 ずーっと考えているのだが、もしかしたら人間はそんなに論理的に人格は収束されないのにもかかわらず、社会秩序や資本主義によって無理矢理人格を一つに統制されているのではないか。そのために「精神異常」と言う言葉を使ってオイディプスを抑圧し秩序を維持して来た、そんな仮説を考えている。今は「承認」という枠組みを殺すことと、精神分析という無意識の権力を破壊すること、これをどうにか実現できないか
 平野啓一郎氏が個人でなく分人についての書籍を最近出したことを知ったのでそれもあわせて読んでみたいのであるが、人が言葉を作り出し、人は言葉に吸収されていき、最後は言葉にならない者は存在しない、そんな精神と「語られ方」に潜む欺瞞が本書からは感じ取れたのである。