いじめ、でもしか、2世の教師論

短期間で教育技術系の本を数冊読んだ。
どれも職人と呼ばれる人が新人や年輩だけど技術のない教師にひたすら説教をたれるというもの。
いや、本の内容は結構いいこと書いてあったりするし、後日書評もしたいと思うんだけど、
すべての本に共通しているのは「教師の現状把握」の欠落である。
とくに報道でも不適格教員問題が最近取り上げられることが多いのだが、教師をハイリスクな集団としてバッシングするカタルシスか、教師の過去が…悲劇が…など「心の闇」とかいう言葉ですぐコンテンツ化しようとするだけに収まって、何も解決しない。むしろネタとして消費することが目的化して解決する気など毛頭ないというのはうすうす感づいている。
 そもそもそんな報道ばかりでは教員のモチベーションは上がらない。天下りたたきのようなもので、官僚のインセンティブとして引退後のおいしい生活としての天下りは非常に重要だ。若いうちは政策や仕事に反映できるよう昼夜を問わず資料統計の処理をこなし、馬車馬のように働く。それは短期的には自分のかかわった政策が実現すること、長期的には天下りという安定が動機づけとなる。僕の目には官僚の政策を実行しているだけの麻生内閣が比較的安定して動いているように見える。しかし、一方で官僚バッシングや天下り批判のせいで国家公務員の志願者数が大幅に減ったという報道は記憶に古くないだろう。
 同様に長期的なモチベーションという視点で教員を見たとき、何がおいしいのかがよくわからない。
教育の現状、教員の現状を動機という点から考えてみたい。なお本文中のインセンティブとは賃金と承認を合わせたもののことを指す。

教育をめぐる言説

 教育社会学者の広田照幸氏は著書「教育 (思考のフロンティア)」の冒頭で、教育をいかに組織化するかについての言説4つに分類している

  • 普遍性を持つ原理を求める理論

 人類史を通して妥当性を持つ普遍的人間を(学者が)追求し(教師が教育の)理想として(生徒が)目指す、もしくは教育すべき普遍的な原理がありそれに基づいて教育を行うというもの。おおざっぱに解説すると100年先も1000年先も語り継がれるような、もしくは評価されてもおかしくない人間を育てる必要があるという議論だ。しかし、技術に携わった人間ならわかるだろうが、何が正しいか(妥当か)はその時代の文脈によって180度変わる。僕は普遍性などというものは「ない」もしくは唯一普遍性があるとすればそれは「普遍性などない」ことだと思っている。神様が「誰にも動かせない石」を創って、それを神様が動かせるのかという議論に似ている。深入りすると哲学的反論が来るのでこれ以上は触れない。
 人間の普遍的に妥当な特徴(本質)といえば「時代に合わせて常に変わり続けること」と「科学を技術として利用すること」位で、普遍性を求めるという視点からいえば、この特徴を伸ばしてやる位しか教育にできることはない。

  • 当面の所与性への寄与

 簡単にいえば現状改善である。目の前の子ども一人ひとり、もしくは学習者の集団に何らかの問題を見出し、それを一つ一つ解決していけばきっとそこの子も日本の将来もよくなるという議論。少年犯罪の増加、自殺率の増加など、報道で目にする場合専門家たちはカウンセリングで解決すべきといった意見を出す。一方でどのような社会になってほしいかというのは専門家たちもテレビも政治家も語らない。ある人は死ぬことは人生で最も悲しいことだというし、ある人は自由に死ぬことも選択できない世の中なら死んだほうがましだと言うだろう。しかし現状ではこの言説が最も取り上げられているといってよい。これは成長の停滞や技術の物理的飽和状態にあることや、教員バッシングによる責任回避などの理由が挙げられる。その一つの課題として新指導要領に書かれていることを子どもたちが知らない→伝えることで解決、という手段が取られているだけにすぎず、しかし、これが世間の「教育」のマジョリティだろう。

  • 何が望ましいかを当事者にゆだねる方向

 一方で教員がもつ「教育」イメージのマジョリティは違う。ここ数年で変わってきた部分は学び手のモチベーションに焦点を当てた教育実践の議論である。教師は学び手に「何を学びたいか」を問いかけて、どんなリクエストが来てもよいように教育方法のバリエーションをそろえておけばよいという議論である。子どもたちに自己責任による選択を迫ることで責任感がつくなどという言説もあるが、責任感などというものは認識上の話で客観的評価ができないため僕は好きではない。ただ、話術によってどの分野どの内容に興味を持たせるかなどはある程度制御できるため劇的に普及しつつある。
 ただ加速しすぎた場合判断力が乏しい存在であるはずの「子ども」にすべてをゆだねミスチョイスをしてしまうこと、「児童中心主義」などの弊害が指摘されておりいまだ賛否両論である。

  • 未来予測・未来社会の構想からの演繹

一方で教育学者たちが"教育でしかできないこと"といった「教育固有の価値」を追求する中で、経済界や産業界からは自分たちの都合のいい社会を想定し、口当たりのいい言葉を通じて主張されてきた。NRIなどがまとめた未来年表などがおもしろい。結局これらが「教育固有の価値」と結びつくことで教育政策は進められてきたといってもよい。
 一番声が大きかったのが産業分野の教育である。日本の大手産業は質の高いOJT、ジョブローテーション、集団的な労働など、システマティックにマニュアル化したことで、学校教育に対しては「基礎的認知能力」と「集団的行動」ばかりを求めてきた。いわゆる工場型と呼ばれる教育である。一方で最近では即戦力を求める傾向があり、発想力やマナー、課題把握能力などがポジティブリストとして何を削るわけでもなく加算されてきた。
 そうしてドロップアウトした人間は派遣として低賃金低承認雇うというしくみを作り上げてしまった。企業は若者に道徳性を!倫理を!やりがいの追求を!と叫んでおけば自分たちが得をする仕組みを教育をうまく取り込むことで作り上げてしまった。

教員を取り巻く環境

 バブル崩壊後、新自由主義による平等観の蔓延と技術の普及による「個人化」と「多様化」、そこから発展したコミットする集団の解体・矮小化などから、その責任は一気に政治と教育へ向けられることとなる。
 「こんな自分に誰がした」という怨恨的発想から育児の責任放棄(ある種の学校へのしつけの押し付けなど)まで、特に環境というよりも関係性が変わった。
 広田氏は「日本人のしつけは衰退したか―「教育する家族」のゆくえ (講談社現代新書 (1448))」で以下のようなことを主張していた。

4.教育の黄金期はあった
 本書のおもしろい所はこの一節を言い切ったところである。
進学率の上昇、社会構造の変化、教師の信頼として、高度経済成長期は学校の権威が一番会った時期であるという。
だからといって教育が一番全盛だったといえるわけではない。 

5.問題は教師と保護者の関係性
 本書では、問題は教師と保護者との関係性であるという。教師が尊敬され崇拝されていた時代もあれば、今のように過剰な期待を寄せてしまう時代もあり、絶対的には変わっていなくても相対的に一般の教師にさえダメ教員の烙印を押してしまう教育評論家もいる。これは、教師や保護者の質の変化ではなく、教師と社会とがどれだけ信頼関係があるかという関係性の変容であるととらえることができる。教育不振の問題は「教育不振」や「不祥事」ではなく、世間が「教育不振」と思いこみ教育者を信頼しないことにある。
教育やしつけは協力なしにできないのだが、どちらが責任を負うではなく、社会全体がコミットするように、偉い人たちは声高に叫んでもお互いがお互いに期待ばかりを寄せているため、届かないのが現状である。

日本のしつけはよくなっている? -書評-日本のしつけは衰退したか- - BUILDING AND DEBUG ERROR
学校教育自体に求められるものがかなり変わった。

 教育自体は先ほどの現状改善の議論でいえば、昨今の経済不況もあわせ、人間を囲む環境が非常に不安定になり、一般と思われている親世代が非常に躁鬱であること、子どもに対しても承認活動に割く割合が増えていることが挙げられる。新し目の教育議論でいえば学ぶことは環境に適応することなのである。そういう知見からいえばクレーマーでさえ社会システムの不備から影響を受けたのであり、その親から影響を受けた子供が精神的に健康であるとは到底いえない。しかし世の中の親はクレーマーだけではないのだ。というか心からクレームを楽しんでいるクレーマーなどいない。状況が人を変える。きっかけがあれば人はいつでも追い詰められた顔を見せる。不況、世間の解体による相互不信・体感治安の悪化が穏やかな笑顔の保護者たちをいつでもクレーマーに豹変できる素地を作ったのではないかと思っている。あとはきっかけさえあればである。

情報統制ツールとしての私学

 そういう環境に影響されない層は確かに存在する。テレビや新聞で不安な情報に浸るわけでもなく、経済的に不安定であったり財が不足しているわけでもない層である。お金持ちはテレビを見ないという統計をどこかで見た。そうした層が教育として選択するのが私立受験である。私立受験は非常に加速している。2007年には一都三県で受験者数が五万人を突破し、小学生の6人に一人が中学受験を経験しているという。
 宮台信司の「援助交際本」を読んで激しく違和感を覚えた記憶がある。仕事の関係で私学の子供たちとも話すことが多いのだが、彼・彼女らは非常に牧歌的である。「援助交際?別の学校の友人がしていたという話は聞いたが、周りにそんなことをしている友人はいないし皆気持ち悪いと思っている」、という。
宮台 真司は「日本の難点 (幻冬舎新書)」において、

女子高生の間で「援交系=AC系」という図式が出来上がって、援交はカッコ悪くなったわけです。

と言っていたが、そうは思わない。それ以前に情報の統制がとれてきた学校が増えたというのが正直なところではないか。女子高生間だけの価値観の伝播というより、学校と社会とが情報の扱い方を従来のノウハウで伝えることに成功した。その一つとして援助交際がカッコ悪いという価値観が伝わっていったという部分は考えられる。
 ある種の自己啓発のように早いうちから進学目標を明確にさせ競争原理や伝統へのコミットから学習を促す。日々(ある種の)充実した情報に浸されることで、ウェブ上や一昔前のコンビニ前とは違った情報交換・コミュニケーションが発達し、これがうまいこと情報統制として機能しているとは考えられないか。

教員になるための試練としての「講師」

 教師の話に戻そう。日本の教育には臨時採用というシステムがあり、講師を学校の先生として一時採用された常勤講師と非常勤講師が多数存在する。日本の非常勤講師率は、14%と異常である。他国と比べてどう以前にシステムとしてうまく回っていない。
 非常勤講師の現状については調べればわかるのだが、給与は正規採用の半分、ボーナスもない。免許を持っていなくても適性があると判断されれば臨時免許を付与され免許外教科を受け持つこともある。教育界の派遣である。
 現場にはこの人たちを「修行」とみなして働かせる空気がある。一方で、「教壇に立てば誰もが先生」といった精神論をならべられ、教員として、正規採用教員と同等のコミットメントを求められる。一応教員採用試験には「講師枠」という特別枠が用意されているが、一番勉強しなくてはいけない時期にお金がないため、要領の良い先生から順次採用されていくわけで、年を重ねるごとに狭き門となってゆく。教員の世界は要領の良い教師が生き残り、本当に使命感や教育意欲のある教師など関係なくフィルタリングされてゆく。

 正規採用になっても給与は中の上であるという。時給換算すれば一般企業の平均以下、土日の部活動顧問はかなりの低賃金が指摘されており、昼ごはんと交通費などでむしろマイナスだという。これについては親から近年部活動を充実させてほしい、もっと面倒を見てほしいという声が上がっており、同様に宿題の増量を求める声もあるのだという。単純にいえば宿題を増やせば確認の手間も増えるわけで比例して仕事量が増えるといってもよい。この点についてはまた別の機会に語るとして、「多忙」「不信感」「割に合わない仕事」などからかなりインセンティブのバランスに問題があり、生徒からの小さな承認による「やりがい」でごまかしながら仕事をしているのが現状であるとの指摘がある。

参考:教員の仕事をどうデザインするか──教員勤務実態調査の分析から──

教育者になる動機

多分僕の知らない本に書いてあるんだろうけど、教員になりたい動機というものを、経験からパッと思いつくものを3つ並べてみた。

  • 憧憬型
  • でもしか型
  • 2世型

である。

憧憬型もしくはトラウマ型

 簡単に言うと、教員に何らかの恩恵を受けた、もしくは何らかの(軽度重度は別として)トラウマを教員に助けてもらったことなどから、教員をロールモデルとしてそれに追従しようというスタイルである。
 たとえばいじめ。深刻ないじめを受けていたが教師に助けられることで教員を目指すようになった、という声は少なくない。このタイプはどことなく個性が強く、間違った認識をされやすいというような特徴もあるのだが、一方で教師になるというあこがれや使命感は強い。ただ弊害があるとすれば自分の求める教師像を追求しすぎる傾向と、その教育観は自分が受けてきた教育を基準しかに語ることができないことである。自分が中学校の頃先生がこういう授業をしてきたから授業とはえてしてこういうものだという認識を持っている教師は意外と多い。一つのロールモデル固執することや多忙で情報が制限されている環境からたとえば体罰や長い説教、威厳など現代教育でタブーとされている行為を平気でやってのける。

でもしか型

 バブルで職が溢れていた時代、他にやりたいこともないので教師に"でも"なるか、教師に"しか"なれないから教師になるか、といったデモシカ先生が取りざたされた。これが精神的な問題でなく配分の問題として再認識されるべきであると考えている。
 大学の教育学部の入試偏差値は平均で53程度だという。これが一番高い大学が京都大学、次いで東大なのだが、東大は教育学を学ぶコースであり、教師になるための専門の学科はないらしい。よって偏差値的に日本で一番の教員養成コースは京都大学なのだが、その下は難易度が大きく開いて旧帝大と呼ばれる国立が並んでいる。偏差値的に中の上であれば入れるレベルの学部であり、進学したいから行くところがないから教育学部という人間は意外と多い。ていのいい学歴ロンダリング機関として機能してしまうトラッキング問題が生じる。結果として教育・教授に特化した教育を受けた人間は自分の特性を考えたとき大多数が教員を選択するしかないという心境になるのは想像に難しくない。もちろん教育学部から他業種という道も開かれてはいるが、そこには舗装された道などはまったくない。むしろ会社側は「教師になることをドロップアウトしてきたんだなコイツ」というような目で見ることもある。

2世型

 親が教師で同じ道を…という教師が増えている。正確な統計を取ったわけではないが、なぜ教師を志したかを聞けば、親が教師だったから大人になったら先生の仕事をすると思って育ってきたという同僚が多数いた。このタイプ、憧憬型とどう違うかというと、世間から期待されるのである。親が教師だからと言って自分も将来立派な教育者にならなければいけないというプレッシャーのもとで育ってきている。もちろんそんなプレッシャーなど無自覚な場合がほとんどだろう。彼らは期待できる一方で模範的な子供として生きてきた経緯がある人間が多いので、ドロップアウトする子供たちの心理になじめないものがある可能性もある。


 これらのどれかに属するというより、組み合わせて存在することが大多数であろうと思う。親が教師というだけで気体の目で見られ、いじめにあい、ヤンキードラマに見られるような、ドロップアウト状態だった人間が教師の支援により立ち直り、教師を目指すというストーリーも考えられる。そんな事実が統計的にあるのかというより、現場では追体験しようとするロールモデルの一つとして位置づいているのだ。僕もおおざっぱにいえばこのストーリーに近い人生を歩んできた。

 問題は、教員のインセンティブバランスと組織である。十数年前は収入も高く仕事が現在のようにシステム化しておらず、教師同士が助け合う余裕や共同体があった。それが昨今書類が年々増え、管理事項や要求が増えたことで収入と仕事の折り合いがつかなくなってきた。やればやるだけ結果が出ていた時代が終わり、現在はやればやるだけやる気がそがれていくシステム、雰囲気、環境になってしまった。
 このままでは今後教員志望者に「高い給料もらっている分質の良い教育を提供しよう」と思って集まってくる人間が極端に減少する、もしくは私学に流れてしまう可能性があるのだ。「教えるのが好き」な層はあえて書かなかった。彼らは塾や予備校で講師として働けば教員より高いインセンティブを得ることができる。人気商売でありノウハウの提供が比較的充実していること、技術さえあればそれだけで与えられる承認が増えること、集まってくる子どもたちはみな勉強をするために集まるのであるから仕事流行りやすいに決まっている。私学も多くが予備校化している傾向があり教員評価もそ積極的に取り入れる姿勢を見せている。

 教師の数を増やせ、教育財源を増やせというのはただ単に教員が楽をしたいという話ではない。理想が一元的であるべきという圧力が方々から集まっているらしいが、教育成果が一定でよければ録画したビデオを見せて再現しておけばよいのだ。今後の日本の在り方のようなものは教員によって考え方も違うだろうし、個性の尊重とか社会へのコミットとか何を優先するかも違うだろうし、教育組織としてそのバランスが取れていればよい。

 教員のインセンティブバランスは崩壊寸前どころか崩壊している。教員たちが「やりがい」「やりがい」と自己暗示をかけることで保たれているといっても過言ではないし、それがうつ病のかかりやすさに表れている。我々が教員ももとは人間であること、教員に適切な承認を与えることで尊厳を与え、インセンティブバランスを少しでも戻すことを心がけて接することができなければこの国の教育のつけは20年後我々の生活に及んでくる。というかもう取り返しは付かないだろうという声が現場からも出始めている。供給飽和状態の今後の日本は技術を発展途上国をはじめとした海外に売って生計を立てていくしかない。そうして社会的階層の高い層は海外でやりがいと適切な収入と承認を得る仕事を得る方向に進んでいく。日本の中にしかいることができない人(海外で仕事できない人)とますます格差は広がっていくだろうし改めて教育社会学や教員という存在のミクロな視点に寄与する存在が増えて質の良い議論とインセンティブが保証されないと大変なことになる。どうすべきか僕自身もわかっていない。ただ、教育界にパトロンがいないという事実だけは確かだろうし、教育においてはスローガン政治ばかりが行われている。新指導要領を創った方々の話を聞くと改革は始まっている。今後の大きな力点は教員の自己実現におかれるべきなのかもしれない。