同質性の高い集団なんてあり得るんだろうか??

教育系のイベントに行くと、同質性が高くて多様性に関する寛容性が足りてなくて云々という話によく出くわす。とうぜん日本では男女の雇用格差すらまだまだ是正されておらず、性別が違うだけでこのありさまで、国籍が違ったらどんなもんじゃい、という話になってくる。女性管理職が足りない、キャリアコースが用意されていない、子連れで仕事ができる環境がない。子供も同様で、教室では発達に偏りを持つ子供たちが疎まれ1+1や1×1の順序があってないと×にされる。これ自体、型を習い守破離していくという発想に立てば理解はできなくはない。教室の教壇に立っている人は、2割を除いて同質性を育むつもりなんてみじんもないし、じゃあ何がそんなに寛容性をそいでいるかといえば権力なのだ。

寛容性のない、同質性の高い集団というものには必ず持って強い権力を持ったトップやその場を支配している空気が存在する。どんなにトップに多様性を許容しろとたてついたところで、効率至上主義の組織ほど多様性はコストになり切り捨てなければならないものになる。右利き用の工具しかないのに左利きの社員がいてもらうと生産性が落ちてしまうのだ。多様性を許容して共倒れしない会社や社会をつくるというのは並大抵の工夫ではうまくいかない。うまくいく例を思いついた人は、その多様さは実は大した多様さじゃない可能性のほうが高い。

このメタファが示すものは、締め切り・納期の問題だ。仕事に納期は必ず訪れるし、それまでに企業であれば最低納品数を確保しておかなければならない。同様に教室では学期という納期に合わせて指導要領の内容をこなしていかねばならない。教えが先、理解が後。そうした進度速度を確保するためにはどうしてもここで足切り、という手段を使う。手を挙げて多様な発想を語る生徒児童たちに対し、多様な意見や発表を許容している時間は確保できないというジレンマが生じる。ケアやフォローの時間が十分に確保できない状態で多様性も何もあったもんじゃない。逆に言うと多様性を育むのは時間だ。同質性が高いわけではない、一人一人の性格が似偏りすぎることはない、余裕がないことが多様であろう、差異化を抑圧しているのだ。

こうした締め切りの問題、つまり学校では学年主義を取っており、この年齢までにこの到達点に、というのを重視した教育が行われていて、それ自体は就職という出口が競争である以上悪くない制度だと思っている。ただ、就職って22歳でしなきゃならないものかね?というのは常々みんなが考えなければならないところであり、これも親が子供をニートにしておける経済的余裕がない、という問題とキャリアに溝があると人事がよく思わない、という採用の問題の2重蓋で多様性を封じ込めてしまっている。

個人的には16進数成人式というのを推奨しており、16歳でようやく0x10歳、32歳でようやく0x20歳で精神的成人になる、という成人先延ばしの発想だ。10年前にギャップイヤー論が出たけれども大して変わっていないどころか、2分の1成人式なるイベントが出てきたり、半年バースデーみたいな謎の文化が定着してしまいそうな現状は、要は早く大人にならなければならないという成人競争にも問題の一端がある。たかだか20年で大人になるのをやめよう。我々はもっと半人前として守られていいのだから。

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