トラウマ思考と事後責任-メディア評-映画「モンスターズユニバーシティ」

 レイトショーで見てきたが非常に面白かった。よい子が見るには少々退屈かもしれないが、よい大人が見るには非常にエキサイティングで、泣ける。さすがディズニーというべきか、吹き替え版は作中の建物や張り紙などの英語も日本語に書き換えてあり、十分に楽しめる気の使いようだ。

ディズニー×ピクサーによる本作は、映画「モンスターズ・インク」の続編。エネルギー工場で働くおどろかせ屋のエリート、マイクとサリーの大学生活を描くビルドゥングロマン。才能はないが努力を惜しまず大学まで進学した頭でっかちのマイクと、巨体と恐ろしいほえ声という才能の塊サリーが喧嘩と団結を繰り返しながら成長していくまさに王道映画である。
 作品のストーリーとしては、喧嘩中のマイクとサリーがマイペースな仲間たちと一緒のチームとしてサークル対抗の怖がらせ大会に出ることになる。5人組6人組がさまざまな競技でたたかうこととなる。作中、アメリカならではのエリート思想が色濃くでたスクールカーストや自由さがキッチリと描かれており、日本で言うイベサーテニサーのように、サークルは男子はアメフト、女子はチアが一番かっこいいことになっている。サークル名がギリシア文字だったり、ハウスパーティやカルト儀式が行われたり、いろいろ分析しがいのある描写が並ぶ。例えるならアメリカ版奇面組である。
 作品を通して描かれるメッセージは、生まれながらのもので人の価値は決まらない、といったところに収束するのだけれど、よくよく考えるとこんな当たり前のことが映画のテーマになってしまうことこそが興味深い。
 ビルドゥングスロマンてきな成長とは何かと問われれば、過去からの脱却超越をどう果たすか、ということになる。親、遺伝、貧困、容姿、学力、そういったステロタイプな価値観を抜け出て、自分也に集団の中で能力を生かせる状態や戦略にたどり着くことである。
 劇中のサリーは自分の才能をひけらかし、他人に優位に立とうとする。マイクは小さい頃から才能が無いと言われて来たが、勉強に勉強を重ねこわがらせ学部に入学する。入学したはいいが、見た目的にちっとも恐ろしくないマイクは非常にバカにされる。黒人や障害者の暗喩ように、産まれ持ったものをあざ笑われるが、それでも俺には努力と個性があるんだ、と力を発揮しようとする。
 しかし彼らは自律して描かれた。すべての非成功は自分の力量不足であり、全ての成功は周りの人達のおかげとして描かれる。

事後責任社会

 これらの話が美談になるには背景の荒みようを考えなければならない。(外国は知らないが、)日本では「多くの失敗や問題は、誰かに責任があり、誰かに責任をなすり付ければそれで終わる」かのように報道される。若者問題やレイシスト問題を筆頭に、ハイリスクな人達を排除し隔離し、残った者は賢く振る舞えばそれで問題は解決する、という思考の上に立って、瞬発力で発言する人々はニュースについて検索すればいくらでも出てくる。以前奨学金についてのエントリにも書いたが、意思決定とは学習して来たことと環境とのダイナミズム(複雑性)の上で行われる。反社会的な思想を持った人間よりも、近くに「そそのかす友達」がいる人間の方が(検挙率等の統計的に)軽犯罪リスクは高く、貧困な家庭の方が犯罪リスクは高く、落書きが多い地域の方が犯罪リスクは高い。毎日のように上がってくる非常識な飲食店の店員の写メも、彼らの人格よりそういった「そそのかす人間関係」や「報酬不足」や「割れ窓理論」をまず疑うべきだ。
 情報に晒されながら人々は、犯罪者の過ちは犯罪者の人格に由来するものだと考える(この傾向を自己奉仕バイアスなんて呼んだりする)。そう過去の失敗事例をデータベース化して、アレをしないコレをしない、と言う思考/行動パターンに陥って行く。こうした思考の背景には、原因と結果がほぼ1対1で強く結びついており、ある種の問題の原因となる行動を忌避するトラウマ化が起きる。もっと激しいところまでいくと、好き=優しい、キライ=失敗する、みたいな結果は感情に起因するという思考にまで結びつく。人を喜ばせようとしても段取りを失敗しようもんなら愛が足りないだのと騒ぎ出すカップルの話もいくつか聞く。
 こうして、5分後にどんなに予想のつかない事件や事故や災害がおきても、それはリスク管理できるものであると捉えられ、事後に責任を問われることになり、最終的には社会の表舞台から排除される。家から出ない、何も買わない、恋愛もしないことが最適解となって行く事後責任社会ができあがる。
 排除された側はコミュニティに戻ることは(精神的に)難しい。よく「出て行け」みたいな張り紙がなされる漫画等の表現を見るが、あれは心象風景であり、現代で張り紙でもしようものならした者がハイリスクな集団の一員と認定され排除を食らう。毎日窮屈にルーティーンをこなしながら、テレビで逸脱した人々を見てはまたバカなことをして、とツイッター(やmixiニュース)でつぶやく。なにか自分たちのリソースを奪いかねない行動をとろうものなら、罰則を厳しくして、恐怖で他人の行動を制限しようとする。何度も言うが、うまく行かなかったことは全て他人のせいであり、自分は極力責任を取らず、見ず知らずの他人に対してばかり責任を追及し、論理的に成立しそうになければ倫理の問題だのマナーの問題を持ち出しどんどんグレーゾーンを増やし、最終的に自分たちの首を絞めながらもどんどん息苦しい社会を作る。犯罪の原因を「未熟」に求めてはいけない。
 そうして彼ら彼女らは何らかの理由でつまづいたとき、理想とかけ離れてしまった自分の問題の原因を血筋や遺伝や才能や産まれたことに原因を求め、呪い出す。高すぎる理想や排除に働く基準自体が徐々に高くなっていることもわからず見直しもせずパニックに陥るのだ。

 劇中モンスター達は、そうした血筋や環境のせいにせず、自分や友達や戦略を磨き上げることで、ダイナミズムを発生し運までも味方に付けて競技を勝ち上がる。こうした王道的体験をもっと社会は多く用意すべきだし、そんな物語が産まれるのなんていまやオリンピックとアイドルと映画の世界にしかないのである。
 善き自己啓発はあるはずだ。まずは映画を楽しむとともに、そんなトラウマ思考から自分を脱却させていくメタ認知も面白いのかもしれない。