レジリエンス(精神的耐久力)なんてあるわけねえだろ

 心理学界隈でこそーっと盛り上がり始めたレジリエンスという研究、”折れない心”という文言でNHKなんかでも特集された。
NHK クローズアップ現代
 実験なんかを見ててもストレスを与えて耐えれる人と耐えられない人の違いみたいなのを研究していて、耐えれた人は柔軟な思考がある、とかそういう偉そうな結論をつけている。
 だからといって僕はこういったレジリエンスの訓練が広まるのはあまり感心しない。レジリエンスを高めることとストレスをマネジメントすることは一見同じようで違う。

 心が折れるかどうかはもっと大きな要因がある。
 例えばそれがどういう意味があるのか見えないことを繰り返し行わされても人はストレスが極大化するだけ。実験者や実際の生活ならそれをやれと言った上司との人間関係の方が続けられるかどうかというのに大きく影響する。
 次に一番精神的耐久力に影響するのは利益連結性である。最近出川哲朗氏が車に落書きをされてそれを笑いにしようとした番組に批判が集まった。
出川哲朗の車にイタズラ! 全面に「バカ」落書き、ドッグフードで汚損…「アッコにおまかせ」演出に疑問の声 : J-CASTニュース
それが笑いとして成立するかどうかはともあれ、そういった一見いじめにちかいいじりを受けても耐えられるというのは、そこに金銭をはじめとした報酬や利益を生む関係性があるからである。逆に言うとわかりやすい、どれだけやっても利益が上がらない作業を繰り返させられたり、利益にならないのにいじめやいじりのようなことを行われると、耐えられる訳がないのである。コミュニケーションにも同じことが言える。居酒屋でお互いがバカにし合うようなコミュニケーションは、友人関係の維持ぐらいしか利益がない。
 日本の子供たちが特段自尊感情が少ないというのも当たり前で、利益連結的な活動というものを行わず、学校のほとんどが教師と生徒の関係、生徒同士の関係で、関係の維持を迫られるためである。対外的に利益連結的なイベントと言えば文化祭体育祭修学旅行くらいであるが、これらも学校側がある程度フレームを提供するため自由度が低い、機会不足であることが理由としてあげられる。

 レジリエンスを訓練することが叫ばれるのは後ろ向きな理由でしかない。不況で利益が出ないけど激務に耐えなければならない、そんなときレジリエンスが、といった文脈である。レジリエンスのあるなしや高低を問題にされると、それはつまり社会全体で議論すべき問題が個人の問題に矮小化されてしまう可能性がある。ブラック労働に堪えるためのレジリエンスと、リーダーシップとしてのレジリエンスではまるっきり性格が逆のものとなる。レジリエンスを叫ぶ前にちゃんと利益連結性を保つような仕組みを整備したほうがいい