イケダハヤト問題のイライラの原因がわかったので師を囲む周りの大人をぶん殴りたい

やまもといちろう氏とイケダハヤト師の対談イベントがあったらしく、ログを読んでみたけど行かなくてよかったと言うほか言うことがない。
ひとまず夏の薄い本でのCPには期待する。ブロガーBLが出来たらブログはキャズムを越えたという指標になろう。
やまもといちろう×イケダハヤト
やまもといちろう ×イケダハヤトの「ブログ論争」対談書き起こし - NAVER まとめ
【更新】「やまもといちろう×イケダハヤト対談イベント」メモ書きレポート #ブログ論争 - カイ士伝
やまもといちろう氏対イケダハヤト師観戦記 最低で最強だったイケダ師 – アゴラ
 個人的に、イケダハヤト師について、いろんな人がブログで取り上げて訳の分からないことを言っているからむかつくとか一貫性がないからむかつくとか言うけどそんな言葉ではまったくもって的確に表せないのでずーっともやもやしていたのである。
対談の内容を見てよくわかった。個別の話として、師に絡んでノマド労働問題とか、若者の意識問題についてはよく語って来た。
 ココ数年、アンテナは広いけど、それを分析する指標がポエムだったり、実績よりセルフブランディング先行だったり、本を紹介する割にその根底の思想とか詳細に触れずモチベーションを刺激する言葉だけ抜き取って本と正反対の話をしたりするものばかりだけれど若者のブログは増えて来たし沢山見て来た。
特段アンテナが広く、若手起業家界隈に顔が利いたのがイケダハヤト師だった。
皆が言う通り特段新しい思想なわけでもない、オピニオンリーダー風に振る舞っているけれど特に論壇に登れるほどロジカルでもない。ただ、ノマドのようなフリーランスの労働スタイルのブランディングには成功した。
僕のところに相談に来る学生なんかもイケダハヤト師はなんなんですか?と言われるが、この炎上劇は別にアンチが事務所やクライアントに電凸したり実害が出るような炎上でない以上ただのプロレスだから楽しむべきだと言うことを伝えて来た。
それから彼自身の発言から、「エッジのきいた俺でも受け入れてくれる社会が欲しい」と言いながら「社会が俺を理解してくれないのは、俺はエッジがきいた情報発信をし続けてるからだ」みたいな演出をし続けなければならない病気に自らかかってる思春期な傾向が読み取れる。
切り込み隊長に認められてみせた反応のように大きな承認があると微妙に態度を軟化させるし、一方でそれだけで彼が書くのをやめる訳ではないだろう。ブログが支持されるというのは支持者の思っていることを代弁しているに他ならないからだ。
現にイケダハヤト師を批判している学生もよくよく意見を聞いてみれば彼と同じような思考をしていることが多い。結果、スタイルを変えず情報発信を続けるし、誰かが批判するし、それにより彼は飛び出てる杭という自覚を強くするというループにはまる。父親に認めてもらえない反抗期の子どものように。僕はこれを「遅れて来た反抗期」として観察を続けている。
元をたどると彼がイライラするキーワードは再現性である。チラ裏か戦場かどうか、正義か悪かどうか、寛容的か排他的かどうか、自己主張かどうかなど、人格や矜持の話関係なしに、一連の問題は発言の再現性の問題だろう。皆が記事を書くためにある程度再現性を考えて書こうとするのに対し彼は自分がその場で思ったフラッシュなアイデアを実験だと言いながら書き散らす。だからみんなブクマで再現性が低い、って一言書き込めばいい。
具体的な方法の話をしよう。
再現性をふまえて問題解決を語るのなら、本来解決を目指すべき問題の所在は3つのレイヤーがある。
1,価値判断や心持ちの問題
2.個人のスキルセットやテクノロジーの問題
3,社会構造の問題
これらを3から1へ往復して語らなければいけないはずの問題であるが、意識の高い学生含め多くが1から2を素通りして3へ飛ばしてしまうのだ。彼らの中で社会構造は意識の総体という認識であり常に連動しているらしい。だいたいスキルセットを語らないマインド変えろ系の自己啓発も同じような書き方がされる。
「努力は実を結ぶ」「覚悟ある自己表現が人を動かす」とか、「楽しい活動が教育を変える」とか、「嘘のない新しいサービスが福祉システムを変える」とか。そんないい風に紹介されても、現実はいす取りゲームなのでどんなに楽しくても努力しても誠実でも誰かがワリを食らう。誰しもがその方法に準じれる訳ではない。
そして共感を求めるクラスタがよく勘違いしているが、感情や価値判断ほど再現性が低いものはない。だが感情や価値判断が必ず付加され、インセンティブとなりキャズムを越え、みなレミングのように同じ方向に流れると(そしてそれが円満解決の方向だと)思っている。
もっというとこれらの価値判断を含む言葉と言うのはバーナム効果やコールドリーディング等の技として、占い師やカウンセラー、ナンパ、キャバ、宗教等でフックとして使われる常套手段だ。
もしくはスキルがなくてもテクノロジーがあれば何とかなるでしょうという楽天的な記事は昔から叩かれて来た。完全なる進歩主義の議論であり、テクノロジーは人を自由にすると同時に人を支配する。もしくは日本のwebは残念、なんて発言も飛び出す。
そう言った進歩主義な人達のフォロワーは、たいてい主語が大きかったり結論が大きかったりする。なにかことがあっては日本人が、世界が。怠惰か勤勉か、誠意か失礼か、自由か責任か、生きるべきか死ぬべきか。そんなことを問うては病んでいく若者にとって、アンテナが広く断定的な文章が特徴的なイケダハヤト師はよくも悪くも特異な存在に映る。
そうして注目の数がキャズムを越え、ブロガー達の目に触れ、今度はその記事を読んだ人たちがあまりに再現性が低いため困惑するのだけれど、どう突っ込んでいいかわからない。
それでも突っ込もうとし落としどころとしてスキルセットへの言及が足りないでしょおかしいでしょという話になり「なにいってんのこいつ」状態になり会話はすれ違いになっていく。それこそボランティアしてる人にもっと「国家資格取らないと質が担保できないよ!」とか学生運動してる人に「ちゃんと投票行かないとなにもかわらないよ」とか、そういう類いのすれ違いレベルなのである。だんだんのれんに腕押し感が面白くなって来て、突っ込み大喜利が始まる。
 問題はこれもありなんだ、といって追随している大人や、フォロワーが多いからついていけば甘い蜜がお裾分けしてもらえるだろうと思っている大人達だ。話を聞いてやっぱり彼は幼稚だった、と自分の優位性を主張する。どう役立つか、のベクトルが違う!と(白熱教室を絶賛しながらも)功利主義に立脚したまま議論をしたりする。
ノマド論壇が盛り上がっても未だに皆勝ち逃げの方法を教えるだけで非正規雇用が対等に取引される仕組みとか誰も検討しない。
今回のイベントも「僕は修行僧で高みを目指すために滝に打たれてるんです!!」「そ、そうか!?俺はmixiがつぶれてほしい」みたいな不毛な会話で終わっていった。
その後の反応も多くの大人達が罪人かどうか、サンドバッグかどうかみたいな話で個人にばかり責任を帰属させて語るばかりで、彼を始めとした若者をそこに至らせたリソース不足やライフイベント事態の変容に全く目を向けない。全員が共犯者だよ。
今回の件、もっと寄付先についての話をしてほしかったし、芸風についてよりなぜその芸風に至ったかを深堀してほしかった。
今現在、目立たないところで小規模のメディアサイトを立ち上げて俺流正義感を発露しようとしている若者は山ほどいるしポテンシャルもすごい。これから爆発的に増加する彼らの正義感の発露を、芸風の問題として捉えてもしばらくは楽しめるんだけれど、精神論から社会を語る輩達にスキルセットがうんぬんと指摘する構造がそのまま続き、発電できるまでにマッチポンプ化していくブログ界隈を僕はあまり魅力とは思わない。
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