ちきりん氏の科学教育論もそろそろ幕引きで

 チキリン女史が投げかけた俺流科学教育論がわけのわからん議論を呼び起こしている。
2014-02-25
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科学とは、科学教育とはなにか – The Long Wait
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上から3割の意識が高い信者のためのリテラシー教育 - あざなえるなわのごとし
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教育を語るならトレードオフを見よう! 経験学習vs系統学習 - 彼氏は日本人。彼女はフランス人。
 そもそも下って何を基準に下なのかしら。境界線当たりの人達はすぐに入れ替わってしまうのが<若さ>だと思う今日この頃。この手の話は結局「俺が報われなかったのは学校で役に立つことを教えてくれなかったのが悪い」という心象に見事にフィットし共感を得てしまうので怖いんだけども、こんな話は「形式陶冶(とうやと読む)と実質陶冶」どっちが大事?どっちも!クソみたいな問い立てんなよ!!みたいな話で100年以上前からこの業界では議論されてきたし、結論がでちゃってる訳で、そろそろ前進したいところ。なんか高卒ニートがそんなトラウマからか、調べて頑張ってる様子だったのだけれど限界が見えているので細くしておこう。それよりニートに屑とか言っちゃダメだよ増田。

役に立つかどうかは関わる情報の規模による

 一人で山奥に籠って生活する上では狩猟や栽培の知識の方が大事で、ある程度身体能力がある人であれば企業が必要とするようなコミュニケーション能力なんかは優先度が低い。そんなもん置かれている環境が違えば変わるし、「その場で役に立つ」をベースに教育を考えるならそれは逆にその人のライフコースを狭めてしまう<可能性>だってある。ほんで<可能性>と言う言葉に対しては僕も昔から使って来たけれど、これって実はブラックスワンなのである、すなわち<ない>ことを証明できない。ブラックスワンというのは「白鳥が白かを証明しろ」と言われ一万羽調べたり検定したとしても、「1万1匹目は黒かもしれないじゃないか」という指摘のこと。確率統計で見れば宝くじ買う奴はアホだし、当たった奴から見れば買わない奴はアホなのだ。なんとなくちきりんあたりの騒動からはそんな臭いばかりがする。
 僕も大学に入って山形浩生氏の本に触発されて(笑)徐々に本を読むようになって始めて学校で教わったことの大切さを知ったし、ある領域で大事な基礎を学校で教えられて無いじゃないかと思って調べていたら意外と僕の記憶に無いだけで教科書に載っていたり、よくできている。
 そのまんまテレビだけ、ラジオだけ、ネットだけ、友達とのメールだけ、みたいな小さな情報規模のセカイで生きていたらそんな発見は無かっただろうし、その教養によっていろんな業界の人達と仲良くなることができた。熱伝達と熱伝導の違いを話題に出すことでつながる縁もあるのだ。逆に言うとこの教育は不要と言う主張は小さな規模の世界で生きることを想定しているとも読み取れる。同世代で集まれば使う言葉はパターン化できるし同じ考えの人達が集まればジャーゴンが産まれる。具体的な学習ばかりを想定するのはただのコクーニング(個人の世界に籠ること)を促進するだけで、むしろ問題はどんどん若者のセカイを矮小化させることにある。まさにちきりんインサイド。しかもポジティブリスト問題といって「教育すべき具体的内容」は年々増え続け絶対に減らない。これが実質陶冶の問題点。

「役立つ」教育論からの脱却

 与える知識や課題に取って大事なのは次のステージへの連結だったりするし、その内容が実社会へ応用しやすいみたいなのがよいという前提は確かにある。学び続けそうした応用が可能なレベルに達することを熟達という。
 我々教育側が丁寧に論じなければならないのは、どんな学習内容を用意するかでなく、学習を「とおして」何を得るか、なのである。そこには抽象的な概念が沢山並ぶ。科学的数学的な考え方、学んだことを現実に応用する際の方法論、精神的な教訓、など。コミュニケーション能力、みたいな科学的一元的に評価できない話が出て来たり、それからクリティカルシンキング崇拝って面白い現象を見かけたりとか、プログラムを学ぶとロジカルになる、みたいな全くロジカルじゃないお話とかも偉い人達はしがちだけれども。その中でもさらに抽象化してフレームを取り出したものをシェマ(スキーム)と言う。統計的な考え方の応用はかなりの示唆を与えてくれるし、技術的なものの見方は両義性を教えてくれる。学校ではわざと抽象的な内容を教え、受験にはそれに関する問題がでることになっている。理由は二つである。一つは生活に関するより具体的な内容を試験で出すと、家庭ごとに有利不利の差が出てしまうため、出来るだけ抽象的な内容であることが望ましい。二つ目にある分野を学び抽象化できる位に熟達することで、隣接分野への応用がしやすいという研究結果がある。これを学習転移という。形式陶冶の問題点はココにあり、前述の通り昔はラテン語を学ぶと皆哲学と科学がわかる、と言われていた時代もあったし、前述のプログラミングとロジカルシンキングもそうである。大事なのはスモールステップを効果測定可能な形で設計すること=インストラクショナルデザインである。また、学習転移はオセロが得意な子は将棋をマスターするのが早い、と言った風に隣接領域に機能すると言われている。数学が得意な子は物理も得意になりやすいし、その逆は意外と綺麗な結果がでないという話もある。教科ごとに転移させやすい分野があり、教科の裏にはベースとなる学問があり、教科編成の会議の資料を見る限り学問に対してステークホルダーが多い順に教科化され時間数が増加されて行くという政治的な部分も少なからずある。それから受動的な学習では学習転移は表れないと言われている。この結論のせいもあり、能動的な学習ばかりに焦点が当たって、学習のためにモチベーションをあげる必要があるのに、モチベーションをあげるために学習をないがしろにしてしまうという逆転現象もやはり散見される。

なぜ科学を学ぶのか

 一つの方針として示しておきたいのは「学習は、思考をトレースすることをベースに行う」ということである。LLPなどの教育理論を援用してもいいかもしれない。LLPでは社会の一員として簡単なワークに参加することで、先輩たちの仕事や知識や思考をその一部を模倣していくことで学ぶのである。その道を探求して来た人達の人文系だと想像しやすいのであるが科学者たちも、いろんな思考を張り巡らせて自然科学を拡張して来た。科学とは即ち自然科学の中でも再現性の高い方法を追求した結果である。科学は分岐するまでは哲学と一緒だったし誰の言葉だったか失念したが「科学は全ての現象を法則性で表すことが出来ると信じをそれを証明しようと追求する営み」である。営みである以上、営みを追体験することで思考のトレースは可能である。自然科学の先生たちはついつい活動自体の楽しさとか自然のすごさとか数字の美しさとか、そう言ったものに興味を引かせようと研究してしまうが、彼らが考えて来たことの一部を、公式や法則や仕様を学ぶことでより自己を拡張して行く。科学のスキームを抽象化したものが「何らかの問題解決能力」であり、抽象化されて逆に含まれる具体的内容が大きくなりすぎて、何も言ってないのと同じことになる。科学はより再現可能性が高いこと、それから思考のフレームとして参照しやすいことも、僕は重要だと思っている。

デールの円錐とは?

id:Rlee1984の主張は、経済を勉強した学生によくありがちな「ハイ論破」のつもりで結局平面上を右往左往してる議論にしかかなってない。
トレードオフの話を取り出してくれたのは自分で落とし穴掘ったようなもので、結局つめこみvsゆとりの構造から脱却できてないわけでしょ?ぜんぜん脱構築アウフヘーベンもしてないじゃん。系統学習か経験学習か、と言われれば両方横断するのが一番なのである。僕の好きなメタファの一つに「デールの円錐」と言うものがある。人は見た目が9割と同じ位根拠レスに使われる学習ピラミッドの元ネタである。
http://sofustudio.com/study/learning_pyramid/The_Cone_of_Experience.png
青木双風ホームページ:双風館
デールが実際に自分の本で使った学習体験の抽象度を段階化したもので、文脈とは違うが、学習は具体⇒抽象⇒具体と円錐をダイナミックに往復することで、精神的に成熟する、という考え方を示している。であれば、そうした活動設計を教育に用いることこそが我々が訴えるべきことである。

レディネスの変化

 なぜこんな議論をしなければ行けなくなったかと言う話をしっかり考えてほしい。若者が劣化しているなどと老害発言が昨今も聞こえるが、子どもたちを取り巻く変化として何が変わったのか。
一番に生活体験の質が変わった。場所によって差異はあるが、ものをつくらない、土に触れない、ネットワークにつながっている。そういったこれからの学習者を取り巻く環境が変化しており、経験的に如実に学習体験に差が表れてくる。要は我々が想定している具体的な内容を知らないため抽象的な話が通じない場合があるのである。新人研修や部下の扱い方のノウハウ本がバカ売れしていることが示すのは、そう言った事実である。ちょうどJAバンクがそれをネタにしたCMをつくっていて、みてにやにやしてしまった。
TVCMギャラリー | JAバンク
 教育現場にはいろんなノウハウがあり、具体的な経験を抽象化する蓄積されたノウハウがある。昔のレディネスを前提に組み立てられており、いつの時代もそのミスマッチを埋めることに成功していない結果、自然科学不要論を唱えるような大人が育ってしまったという可能性は高い。ベテランの教師が言う<子どもの本質>はかわってなくても、 子どもが経験しやすい項目はやはり時代とともに変わって行くのである。

学校で行われている教育は100年の改善を積み重ねて来た等しく必要な教育。

 今回の話って教育を「(内容)を経験させる」と読むか「(内容)を学習させる」と読むかの違いなのかもしれない。いつの時代も、教育論は現場の人間ですら表層ばかりなぞって過去の議論をトレースしようとしない。教育はミニマムな熟達の連続である。熟達に達するまで内容を吟味したいところだが、いくつかの調査で時間が足りず全ての内容をこなすだけの教員が大半だと言う結果も出ている。(そして教師向けの指南書は第2章当たりでだいたいそう言う先生を叩く)。
 教育は学校で完結するものではない。学校で時間が足りないため家庭と協力し、家庭での具体的な経験を学校で抽象化し理論を学ぶ、もしくはその逆といった役割分担がうまく機能すれば理想的である。だが現実は世帯平均年収が下がり公務員ですらも年々収入額を下げられ、夫婦共働きを選択しそういった教育を出来る余裕が無いも増えて来ている。学力は家庭の経済力に相関するし、大阪では2000年の時点で如実にこの格差が3極化していた。僕の友人は、震災後東京から宮城県に帰ってそういった経済的環境的に恵まれない人たちのために学校外での教育活動を行う団体を作って活動している。学校を批判するでもなく、学校現場にも出入りしながら支援を続けている。別に背景に震災があろうが無かろうが格差は広がるし、どんどん貧困は顕在化しているし、貧困な子たちでも科学や国語のリテラシーをちゃんと身につけ、努力すれば貧困の連鎖から脱出、逆転できる仕組みこそが義務教育という仕組みである。理科や算数を無くしてしまうというのはその逆転のチャンスを無くしてもいいと言う勝ち組の論理でしかない。もっというとこの辺の教育しろ論は「ここら辺の自分の飯の種になる業界にもっといろんな人が参入してほしいな」ってメッセージになっている。
今回のちきりんの主張に賛同した人達はぜひ協力をしてほしい。協力したいがどうしたいかわからない人は僕にぜひ相談していただきたい。