死にたい奴は勝手に死ね

 学生の頃、追手門大学のカウンセリングの先生の講義を受けたのを思い出した。当時の僕にその教えは非常に刺激的で、一番最初に教えられた言葉は「正しいことは悲しいこと」であった。子どもが親に向かって「なぜ僕は頭が悪いんだろう?」という言葉を発した時「あなたがバカだからよ」と正しいことを言うとこれほど悲しいことはない。子どもは理由が知りたいんじゃなくて「今回は調子が出なかっただけだ、がんばれ」といったことを言ってまず受け止めてほしいし、「一緒に次の対策を考えようか」と寄り添ってほしいからその言葉を出す。
 言葉には、言葉通りに受け取り解釈する方法と、その裏にあるメッセージを解釈する方法がある。それに気づいたとき、僕の世界の広がりは2倍になった。
 そこで"「死にたい」という言葉を発した人は本当に死にたいのではない。より良い環境で、より良い条件で生きられるのなら生き続けたいに決まっている。それに対して死にたい奴は勝手に死ね、という社会はどこか間違っている"とおっしゃっていたのがすごく印象的だったのを思い出した。
 そもそもなんで常に死ぬこととか考えていきにゃいかんのか、と言う疑問は常々考える。生きづらさ、みたいな言葉に象徴されるように、人の役に立てと人は言うけど、役に立つためのイスは元々そんなに多くない。イスを作るか、役に立たなくても効力感を感じられるようにするために、それぞれが少しだけ譲り合って協力して動いていかないと、明日は我が身かもしれない。
 普段の何気ないときも会議のときも喧嘩のときも、常に会話にそのセンサーを立てておくことで、会話やコミュニケーションは円滑になるのだけれど、全員が全員そんなことが出来る訳でもない。ビジネスでも、客は穴をあけたがっているのであって、ドリルを望んでいる訳ではないのに、多くの人がどんなドリルがいいかと言う前提で話を進めてしまう。
 あなたはなぜそんな言葉を発したのか、なぜそんな言葉を書いたのか、その理由は不可避だったのか、余裕がある人は考えてあげてほしい。社会は煩わしいと思ってる人が、社会は煩わしいとぼやいた人に対して、石を投げつけて発散するような光景は決して健康ではないのだから。