オタクになろうとするヤンキーと、ヤンキー化する秋葉原-いまさらC84レポート-

 今更で申し訳ないが、気鋭の新人アーティスト、水曜日のカンパネラのボーカルを案内するためにC84 3日目に参加して来た。
 今回は3日間で59万人と過去最高の来場者数を達成し、また別の層を取り込みつつ市場は大きくなりつつあるのではないかと感じさせる。
 前回から変わったところと言えば、子連れや中学生や女子小学生だけの来場者が散見されたこと。もちろんアダルトじゃないブースもあるので特に批判するつもりも無い。
 それから気づいたこととしては、コスプレイヤーにちゃんと付き人がついていること、マネージャーか,専属カメラマンなのか、きわどいコスプレのお姉さんと一緒に行動しているのを記憶に残るほど見かけたのははじめてだった。
 オタクマーケットが徐々に参加型にシフトしてかなりの時間が経ち、マーケットは成熟し、オタク(コミュニティ)はヤンキーを越えた。もはやココにいるのはリア充よりリア充なオタク達だ。

再教育機能の不在

 連帯したオタク達は強い。ある者は合目的的にコンテンツを買いあさり、ある者達は足で情報を稼ぎ共有しあい、ある者達はウェブへおもしろ情報を発信し続ける。そうして物理的に存在するコミケと、ウェブに存在するコミケを往復することで新しい楽しみ方とコミュニケーションを身につけた。オタクを直列に並べるとすごい力を発揮する。
 一方、対照的に考えてみると、我々の頭の中にあるような昭和世代的ヤンキーの文化というものは徐々に廃れつつある。ほとんどがチーマー、ギャル文化に取って代わり、特に顕著だった暴走族は次々に解体されていった。
 暴走族を始めとし、音楽やダンスやスケボーやバイク等「ストリート」と呼ばれる文化には、そこに再教育機能が存在した。ドロップアウトした若者達が街中を浮遊し行き着いた組織に属し、目上の者の話を聞き自己の表現方法を学び何かプロジェクトを実行する、という一連のプロセスは、目的は反社会的であれまさに教育機能そのもので、ある種の「正統的周辺参加」であった。「モスキート」に象徴されるような、手すりのあるイスが増え立ち入り禁止の縄が張られ、警察が巡回し若者をストリートに出さない仕組みがどんどん増えてゆき、2000年代には商業施設以外に若者がたむろできる場所は激減した。メディアが演出した時代遅れ感とともに、ストリートやエクストリームスポーツはジムやサーキットの中に入り、金のない浮遊する若者と邂逅することは無くなる。そうして暴走族、ヤンキー、ストリートといった「文化」が衰退して行った。みなおとなしく金を払ってストリートを文化でなくスポーツとして嗜むようになり、昔を知っている者達はその現状を嘆く。お金を払う余裕がない者や情報に触れられない若者達は、ストリート的なものの恩恵も受けれず、ただ街を浮遊することとなる。
 象徴的に、ヤンキーの組織には、「やれ」だけでなく「その辺でやめとけ」も存在する。今年ブログ界隈で、冷蔵庫に入った画像をツイッターにアップする「バカッター」と「うちらの世界」が話題になっていたが、上下関係や組織の再教育機能が機能していない若者達は、排除のプレッシャーと周囲の期待の目に耐えられず行動がチキンレース化し、徐々に勇者型犯罪*1に流れて行くのである。
 そんなドロップアウトしたものや、喪失感を抱えた者達が浮遊し、行き着く先がオタクでありコミケであっても不思議ではない。情報インフラが無ければヤンキーになるしかなかったような、しかし別に破壊行動や上下関係に興味の無い若者達が見いだした場所がオタクの世界だ。そこにはストリートで得られなくなった再教育機能や連帯があるのである。先輩から後輩へ継承されて行く文化や、クリエイター達の破壊的創造、労働の対価など、旧来の社会とちょっとずれつつも、いやずれているからこそ、自分たちがそこに所属しているという満足度を感じられるコミュニティがオタクの世界にはある。コミュニティに所属することで様々な欠損を合理化することができる。自分が不器用なのは不良であるからだ、という言い訳が、自分が不器用なのはオタクだからだ、に変わるのである。

ヤンキーの「ウェーイ↑↑」問題とフォカヌポゥ

 ヤンキー文化とオタク文化は中心とするコンテンツが違うため、コミュニケーションの様式をそれに合せて変えて行く必要がある。
 ヤンキー文化は、すでにおおきく衰退し、ネット上でリブートしつつある。喪失感やファッション感覚、友人の誘い等に駆動され、若者達はヤンキーの文化(もしくはアウトサイダーの世界)に入って行く訳なのだが、地域性の解体や暴走族の解体等が進み、ヤンキーはかなり集団化が難しくなった。その分最近ではモバゲーやグリーやアメピグなどを使ってネットワークを広げ、その文化を維持しようとしている。一方で最後の大手暴走族世代は、暴力団が解体される中様々な形で連帯を発露し、関東連合のような集団による事件もメディアに顕在化したのは記憶に新しい。
 ヤンキーでもギャルでもチャラい大学生でもいいのだけれど、リア充と呼ばれる層の挨拶に「ウェ〜イ↑↑」という言葉があり、よく揶揄される。何人かのリア充擬態系の若者の話を聞いてみたり観察をしてみると、一件チャラそうに見えるこの言葉だが、どうやらコミュニケーションに自信のないヤンキー達にとってこの「ウェ〜イ↑↑」はかなりの万能ツールのようだ。目の前の集団に自分を受け入れてもらうための儀式として機能してくれるとともに無理矢理自分のテンションを上げることができる。テンションを上げることで「あのときはテンションがおかしかった」とセルフハンディキャッピングし、心理的な予防線を張ることが出来る。ギャルメイクをはじめ若者の過剰な装飾や過剰な振る舞いは、たいていの場合触れてほしくない内心から目をそらすための予防線である。それがプライドなのかコンプレックスなのかはわからないが、最低限守りたいものの防衛が出来る安心感があるからこそ、彼ら彼女らは円滑なアクションやコミュニケーションが出来るのである。「ウェ〜イ↑↑」はそうした弱い部分を隠すことができる。そうしたコミュニケーションをとりつつ、所属する集団、あわよくば自分を再教育してくれる集団を探している。自分が成長する機会を探しながらも、成長する方法がわからないため、次第にその集団は自己のアイデンティティを自分の持つスペシャリティでなく自分の周辺にいる他者に求める。フェイスブックでウェ〜イ↑↑から始まる飲み会の写真をあげ続け、「濃い俺ら最高」とタグ付けしつづけるのである。
 それに比べると、オタク達は独自のコードを進化させながら、もしくは目的を共有しながらある種の人達にだけ通用するコミュニケーションと卓越性を身につけて来た。普段は特に職場で明るくもない人達が、コミケのときはスタッフとしてこぞって面白い誘導を連発し、オタク達はそれに呼応し、情報をネットで共有拡散し合いながら楽しみ、それが自然と教育装置として働く。
 ヤンキーの文化が暴力的なものを孕んだヒエラルキーであるのに対して、オタクの文化はコンテンツに対するする情報をいかに文字や絵にして差異化して共有出来るかがものを言う。ネット等を駆使し、情報を集めることができれば誰にだって逆転や追いつきの可能性が開かれている。まさに綺麗な競争原理がそこに働いている。
 ヤンキーとしてアウトサイダーとして強がったところで、高卒資格が必要ない求人は激減しており、就職してそれなりの人生を送れなくなってしまう。であれば、同じアウトサイダー(に見える)オタクのコミュニティに参加した方が逆転可能性的に見ても成長可能性的に見てもメリットが大きいのである。
参考:「拙者なんたらフォカヌポゥwwコポォww」みたいなコピペください | ログ速@2ちゃんねる(net)

訓練されたオタクの欲望

 オタクの世界に入ると、高度に欲望が訓練される。
 興奮とは、文化的背徳感をベースに記号を消費するところに発生する。
 こんな話がある。ある裸族の文化圏では、腰にヒモのようなものを巻く以外基本的に全裸で、なにも隠さない、しかし、年頃の若者達が結婚し初夜になると、新婦は腰のヒモを脱ぐのを非常に恥ずかしがり、男性は女性の腰ヒモを外すことに非常に興奮するのだと言う。もうすでに全部見えていて隠すところ等何も無いのにも関わらずである。
 このように、人は文化に興奮する。最初、女性と言う記号やシルエットに対し興奮し、ある程度学習すると女性が普段とちがったあり得ない格好をしているところに性的な興奮を感じる。消費あるところに飽和あり、人は背徳感と斬新さにこそ興奮を覚える。いくら美人と結婚しても、毎日その美人が家の中を全裸で歩いているとだんだんセックスレスになってしまったり、しまいには浮気をしやすくなると言う報告もある。漫画やアニメやAVなど、アダルトコンテンツも、見なれると徐々に脳内にテンプレが出来上がり、テンプレからどうずらされているかと言う斬新さを評価して楽しむようになる。
 コミケ会場を歩き回ると、だいたい逆三角形の下で休憩している女性のパンチラや下着のラインが不意に目に入ることがある。これに対して周りで休んでいるオタクたちを観察していても、全く反応しないと言う面白い現象が見られる。みな変態と言う名の紳士であることはわかっているのだが、この嗜好は3次元で鳴く2次元に興奮するように訓練されていることや、パンチラは下着が見えないぎりぎりまでが興奮するという問題とつながっているのではないか。訓練されたオタク達にとって、見えてしまった下着に価値は無い。もっというと下着はお尻を隠すものであるはずなのに、お尻が見えそうであるよりも、下着が見え荘な方が嬉しい、といった逆転現象すら存在する。
 情報は繰り返し刺激として受け取ると、陳腐化していく。中学生の頃マガジンを呼んで興奮したラッキースケベ展開は、滅多に起きないからこそ興奮を覚えるた、女性が恥ずかしがることも要素として重要であった。高校大学と進むにつれて、どんどん過激さを求めて行った。日本では無修正のアダルトコンテンツは違法であるからこそwin98時代から大人達がこぞってインターネットで海外サイトを探していたし、ある程度それが普通になってくると、無修正よりモザイク、モザイクより着エロの方が興奮するように訓練されていく。普通の女性では満足できず、ロリコンに走ったり人に言えない趣味に走ってゆく。逆に言うと、なぜか規制の方向に向かっている創作エロ漫画もAVもそう言った実現できない背徳的欲望を可視化させることで欲望を発散させるという役割があった。こうした高度に訓練された背徳的欲望を、相互に創作物を提供しあうことで満たす場が従来のコミケでありオタクの世界であった。これを気持ち悪いという人もいるが、立派な訓練を通して築き上げたものである。今それがヤンキー層の流入により徐々に変わろうとしている。

 

ヤンキーを包摂する秋葉原

 秋葉原はオタクとヤンキー文化をハイブリッドした特殊な場として出来上がりつつある。
 人の思考は場に影響を受ける。ディズニーランドのようなテーマパークに来ると、人は仲間内でも外でもとても寛容になる。会話の対象が人(のいいところ嫌なところなど)ではなくコンテンツに向くためである。秋葉原もテーマパーク化により、その機能を実装しつつある。コンテンツが好きであれば、だれでも秋葉原というテーマパークに参加することができる。僕が定点観測を始めた5年前から、秋葉原はものすごい勢いで変化をしている。今年の夏はついに秋葉原に筋肉隆々の金髪タンクトップが徘徊するようになった。AKB48の残した功績は大きい。板野友美秋葉原にギャルを招き、篠田麻里子秋葉原にヤンキーを招いた。
 過去であればヤンキー文化に入って行ったはずの若者達は、オタク文化にはまりオタク的な競争に晒され、生き生きした目で自分の好きなコンテンツを語る。その結果、現在週末の秋葉原は、痛車や痛バイクが一列に並び、フリークが集まり撮影会や情報交換が行われている。
 昔からあるアイドル追っかけ業界には、ピンチケと呼ばれるちゃんと教育されていないチャラい若者が参入しており、同志としてどう教育するかが古参のファンの間での話題なのだと言う。
 洗体リフレなど、はっきり風俗って言えよ!と言いたくなるような店も増えて来ている。僕が観測してない範囲で、もしかしたら鉄ちゃんの店やメイドカフェもヤンキー文化とのハイブリッドが進んでいるかもしれない。
 これから数年で秋葉原は商業施設ができあがり、参加型の店がどんどん増えてゆくし、今までヤンキーのものだと思っていた文化とのハイブリッド化が進んで行くだろうし、風俗街化の兆しも見える。古くからいたオタクたちがそこに居続けることができる強度を保てるかはわからないし、居続けるにはそうした異文化に対する寛容さや理解と彼らへの教育システムに相当するサービスが必要であろう。時間があれば若者心理の話とともにもう少し掘り下げたいところである。

*1:うはww勇者wwwというコメントをもらうために行う軽犯罪