毒祖の不禄

 2019年2月18日。 父方の祖父が肺炎で亡くなった。享年92歳。祖母の死から12年ぶりの法事だった。

 日曜の夜から容態が悪かったらしく、月曜日の朝、通勤中に母親から訃報を聞いた。どれくらい会っていなかっただろうか。そろそろかとも思っていたし、マジかよとも思ったし、どういう気持ちでいればいいかよくわからず、とにかく祖父の死を納得するための情報を探すために母とメールを数往復した。僕の中で、いつからか<死>は納得するためのものとして存在するようになっていた。

 通夜当日、午前で仕事を終え、飛行機で地元へ。母に車で迎えにきてもらい、到着した時には通夜の読経が終わっており親族一同で会食をしていた。祖母の時も同じようなタイミングでの帰省だった気がする。

 当時僕は地元から離れて暮らしており、福岡に住む彼女と遠距離恋愛をしていた。祖母の訃報を聞き、翌日地元に帰って彼女に車で通夜会場へ送ってもらった。その時の彼女とも、祖母とも久々の再会だった。おばあちゃん子だった僕は、彼女に故人となった祖母を紹介したいと言ったところ、そういうのは苦手だ、と言って彼女は僕を通夜の席に残して帰っていった。思えばあの通夜の日が、二人の間に亀裂が入ったきっかけだった。死が二人を別つまで、という言葉が頭をよぎった。

 祖父の通夜会場に着くなり、親戚への挨拶もそこそこに仏前で線香をあげ、死化粧をした祖父を見て、僕の中で怒りとも悲しみともとれない感情が蒸発していく。ひとまずお疲れ様、と伝えて、親族との会食へ参加した。

 祖父は古風で頑固で、今でいう毒親のような存在だった。僕の祖母は生前、少し遠くまで足を伸ばし、友人が働くスーパーに買い物に行き、短時間会話をするのを日課にしていたのだが「老人用カートを引いて歩く姿がみっともないからやめろ」と理不尽な理由で不要な外出を禁止してしまった。

 結果、祖母は生活が孤独化・単調化していき、会話ややることが一気に減ったことで、認知症を患った。

 ある日、祖父が入院することになり、認知症の祖母が深夜徘徊しないようにと祖母宅に泊まったことがある。祖母は認知症で僕の直近の記憶(例えば僕は成人式に一番最初に会いに行って写真を撮った)が思い出せない。

 僕については、二足歩行もおぼつかない幼児の頃から家の風呂の準備を手伝っていたというお利口さんエピソードしか口にしなかった。祖父については、本当に恋する乙女時代を思い出すのか、モジモジと、おじいさんはすごい人なんだ、という話しかしてこなかった。

 どんなに愛していても、不器用であれば意味がない。祖父の束縛が、祖母を認知症にした。祖父の美学だの、世間体意識だのが祖母を孤独にしたことは忘れない。家族、子供たちにも同様に、毒親のように振る舞い、世間体やルール意識の強い息子達が育ち、僕の叔父叔・母達はお互いがお互いの品のなさをたまに陰で気にしあっているようだった。

 毒のある祖父。毒祖とでも呼ぼうと思う。

 しかし祖父は、それが唯一許される職業、アーティストであった。作曲家として民謡や労働讃歌、学校の校歌などを作り、島倉千代子を始め、多くの人たちが祖父の歌を歌ってきた。気難しさや、時折見せる優しさ、娘や孫に囲まれた時だけ時折見せる笑顔。ほっほっほ、と笑う祖父の姿をよく目にしていた小学生時代は、そんな気難しい性格だとは思いもしなかった。むしろ祖母が僕をよく叱っていた。

 通夜の夜は、一晩線香が消えないようケアしながら、仏前で故人の思い出を夜通し語り合うのが慣例なのだという。しかし、5家族集まったにも関わらず、祖父の仏前に残ったのは僕と叔母の家族だけだった。叔父、叔母たちは基本的にいい人たちなので、それが悪いとは思わない。むしろ心の中で、祖父へざまあみろと思った。おばあちゃん子の僕は、祖父が生きているうちにできなかった祖父への反抗期に、ようやく到達した。

 そして僕は祖父の孤独な死をもって祖父を赦した。

 叔父、叔母たちは祖父の話をいくつもしてくれた。

 祖父の若い頃は農家をしていた。祖母の実家に間借りし、裁判所でも働いていた。父やその兄弟もよく農作業や酪農を手伝っていたようだ。僕の通っていた小学校の近くに農場があったらしく、家の跡地は病院や団地になっている。

 広い家を構えた後は音楽教室の先生をやりながら生計を立てていた。祖父はピアノ、マンドリン、バイオリン、ギター、管楽器と、なんでもできた。音楽隊をやっていた時代の熱心な追っかけが祖母で、それが馴れ初めだという。

 老後は少年犯罪の保護観察も担当していた(保護司だったようだ)。少年事件で保護観察処分になったり、少年刑務所から出てきた子供達と定期的に面会して様子をうかがう仕事だ。子供は好きだったのかもしれない。そこは受け継がれる我が家の血筋だ。

 通夜も葬儀も家族葬だった。新聞にも訃報は載せなかったようだ。叔父達がどんな判断を下したかわからないけど、幼馴染にも地元にも、自己紹介をしたら祖父にお世話になった人はたくさんいた。サヨナラくらい言わせてあげてもいいのに、と母は言った。 

 戒名には「音暢」という字が入っていた。祖母は「春香」という字をもらい、二人ともいい名前をつけてもらったなと、お坊さんに再び感謝をした。ひ孫である僕の甥っ子は、僕に懐いて大人しく隣に座っていた。新しい命が繋がっていく。

 礼記に「天子の死は崩(ほう)と曰(い)ひ、諸侯は薨(こう)と曰ひ、大夫(たいふ)は卒(そつ)と曰ひ、士は不禄(ふろく)と曰ひ、庶人は死と曰ふ」という一文があるという。中国の昔の身分制度、支配者層に対する死の呼び方を表したものらしく、何の表紙に知ったかは忘れてしまった。

 学校の先生が知っている程度に地元の名士であった祖父は、僕の中では、庶民よりちょっと偉く見えていた。でも、支配階級の中では一番下、武士っぽさも含め、士という階級がよく似合うと思う。なので、祖父の死を僕は不禄と呼ぶことにした。

 毒祖の葬儀は、島倉千代子の歌う祖父作詞の童謡が終始流れ、火葬され煙になった祖父は、骨太だ、喉仏には仏が宿るが、こんなに太い人は珍しい、と火葬場のスタッフに絶賛されて箱詰めされた。あれから一年経って、変化といえば祖母が夢に出てくることはなくなったことくらいか。息子娘はまだこちらにいるので、今度は世間体など気にせず、しっかり祖母の相手をして欲しい。