福岡に帰って気づいたこと

 帰省のために福岡に2泊3日。東京とかなりのカルチャーギャップがあってしんどかった。東京の儀礼的無関心最高である。以下雑記。

1.天気予報でPM2.5予想が流れる

 空がかすんで見えるときは黄砂かpm2.5なのだそうだ。
 帰宅して風呂に入って耳をいじると黒いほこりが出てきた。これがPM2.5か!?と思ったがよく考えると花粉でさえ肉眼で見えないのにその12分の1とかの大きさのpm2.5が見えるわけもなかった。

2.ラジオでPM2.5対応家電のCM

 コジマのラジオCMでエアコンなどPM2.5対応家電セールを宣伝。そこまで過剰に反応しているというよりPM2.5が日常化していることが驚き。東京ではあまり騒いでないが、よく考えると震災後東京〜東北までが騒いでいて、福岡に避難したら「そんなに大変だったの?」と日常を送っていたのを思い出した。もう九州は本州とは別の国やで。

3.人気漫才コンビ「華丸大吉」の人気が異常。

 19時のゴールデンタイムからBGMもナレーションもなしに博多華丸大吉が県内の田舎を巡るだけという番組が放送される。たんたんと商店街のおばちゃんとかに甘えて店を紹介して、素人を地味にいじりながら仕事観と馴れ初めをインタビューする感じの番組がゴールデンタイムに成り立ってしまう。どうやら福岡では結構な人気らしくこの2人がくると取材拒否のお店も条件付でOKにしてしまうらしい。10数年前から吉本福岡の番組で活躍していて、福岡での芸風はおたこプー同様笑いのつぼが独特なので、僕のように古くから見てる人たち以外にはチンプンカンプンなんじゃなかろうか。

4.麻生グループの専門学校が増加。

 不景気で少子高齢化で介護系の職は需要が見込めるからと人気だというのは聞いていたが、麻生グループの専門学校がバカスカ建っているという。東京ではまだ先の話のように感じるが、地方では明らかに街中を歩く人たちの平均年齢があがっており、一方で九州は外食とエンタメ産業以外は衰退しろくな就職先がない。
 麻生系の学校は麻生太郎元首相のお膝元である筑豊地区から出発し、福岡市内でも見つけた。麻生家は長男はバカだから政治家にした、ほかの兄弟は賢かったから社長にした、と陰口たたかれたりしてるんだけれど、スーパーASOの経営、病院経営、セメントや建築、教育にいたるまで、筑豊は生活のいたるところにASOがあったりするし、スーパーは赤字でも遠くへ買出しにいけない老人が増えてるから閉店できないという話も昔からあった。ゆりかごから墓場まで筑豊の一生はASOと共にある。それでも発展してるあたり経営手腕サスガッス感は否めない。
麻生グループ

5.ムラ社会と世間体

 家族と話していると終始ありもしない世間体を気にしていた。結婚がどうだ学歴がどうだ。親と一緒に僕を育ててくれたご近所のおじ様おば様方をそんな狭量な人間に仕立て上げないでくれとお願いしたのだが、この世間体の本質は自分の中の被監視意識だ。つまり自分の中のコンプレックスを他人が笑っているのではないか、他人がそれを許容せず見捨てられるのではないかという不安が内面化されたものだ。
 心理的な発達の中では、他者の批判をどうにかこうにか乗り越えて、笑われてもいいじゃん、意外と受け入れてもらえるんだ、という経験をどこかで経る必要があるのだけれど、田舎のように住宅密度が低く、移動距離が長く、必要以上に顔見知りを作らない文化の元では、そのような経験が得がたい。メディアの数も少ない分、あるべき像の多様性も小さく、コンプレックスを埋めるために手に入れてきたものもいつ失われるかと言う不安と、コンプレックスを強化する。
 ましてや経験や機会がないために今のコンプレックスだらけの自分から抜け出せない、という「トラウマ経験」を自分の中に作り出してしまうと大変なことになる。「今の環境じゃなければこんな自分にならなかった」と何もかもを常に他人のせいにする。攻撃的な人格が出来上がってしまい、それでも田舎から出るつもりがないのでお互いに自分を擁護しながら相手を攻撃するような会話ばかりが繰り返され、閉塞感に拍車をかける。家族や兄弟はコンプレックスを寛容に受け入れてくれるはずの存在であるのが理想だが、田舎の中間層の現実は、常に家族や兄弟から世間体を求められる。
 考えてみれば、近所で悪口を言う人なんて基本的に嫌われるか信用を失っていくし、平均年齢が上がっていくなかで年配の人間にそんな圧力をかけられる権力も暇もあるとは考えにくい。結局自分のコンプレックスにちかい会話が出てきたときに世間体を纏い、自分を守っているのだ。世間体は家族を経て次世代に受け継がれ、負の連鎖としてミーム化する。専門学校で学ぶ内容でこれらの世間体を乗り越えるような経験ができるとは到底思えない。
家族は東京の人は冷たいとか周りに無関心だとか言う話をしていたが、そういうムラ的な、自分の中に、過剰に自分を監視し続けるような機能を内面化してまで生きていたくない人たちが地方から流れてくるのかもしれない。