意識の高い人追悼2012

 意識の高い学生(highconscious通称ハイコン達)はなぜ死にものぐるいで殴られても意識高い学生を演じ続けるのか、最初は笑い者だった意識高い若者()達もいまや笑い者にすらならず、バカにしてるのは常見陽平氏とその取り巻きくらいである。あれはあれでプロレスなので楽しみにしているが。
ムーブメントは飛び火して立派な社会人様方まで休日返上で社会貢献のための勉強会やら講座に顔をだし、かなり煙い状態が広まっている。意識高い勉強会はこの1年で存分にマーケットとして熱燻され、情弱達を転がして満足感だけ与えて搾取するビジネスときちんとした情報やプロジェクトを与えてしっかり育て上げるビジネスとに2極化しつつある。
また教育の業界も例に漏れず、意識の高い社会人たちによっていろいろかき回されている。教育の理屈も理論も背景も全く把握してないけど社会的な実績がある人たちがキャリア教育だのキャリアコンサルタントだのと名乗り最近の若者は恵まれていないかわいそうだだがもっと夢を持てもっと本を読めもっと遊べ車を買えとビジネス書に書いてあるようなマッチョイズムと武勇伝を語り旧世代の価値観を伝える様はまさに宗教勧誘の様相をきたしている。
夢を語り共感してもらう仕事と夢見がちな奴をぶん殴る仕事が交互に来てマッチポンプする自己啓発社会を利用した発電をなんとか作れないものかと毎日思い悩む日々である。

意識の高い学生()はなぜ生まれどこへいったのか

 twitterで話題になった意識の高い学生たち、代表的なのは以下のようなプロフィールを書いちゃう学生だ。

就活はじめました。 学生団体HighConscious代表/ビジコン最終選考/リーダー/勝てる就活/内定/ベンチャー/シリコンバレー/起業/TCD/コンサル/マーケティング/iPhone/iBot/第二のジョブズ
[twitter:@omaehikui]

https://twitter.com/omaehikui

 そもそもなぜ意識の高い学生が生まれてしまったのか。これは青年心理学の「アイデンティティ拡散」という言葉で説明できる。アイデンティティは日本では”自己同一性”として紹介され自分とは何か、というかたちで紹介され浸透しているため勘違いされるが、実はこの問題、あくまで"拡散"なのである。
 「若者の自分探し」などが有名だが、これ、アイデンティティを喪失したから探していると言う意味ではない。正確には自分の欲と社会の利益を一致させるための模索が課題となり試行錯誤する時期(モラトリアム)なのだ。
その中で必ず若者は自分と社会の同一性を刷り合わせるために、デモや社会貢献への参加のように、強弱はあれど社会の意識を代表するような態度の自分を演じ、他人にそれを強調し、繰り返し肯定する態度に出ることが昔から指摘されている。それは次第に人々に反抗期と呼ばれるようになった。
70年代、それは学生運動として表れた。
80年代、それは校内暴力として表れた。
90年代、それは引き籠りとして表れた。
00年代、それはインターネットの炎上として表れた。
00年代後半、それは意識の高さとして人々の前に表れるようになったのだ。
10年代前半、主にwebを使った就職活動のために意識が高くありたいが能力ややり方が伴わない若者達が意識高い(笑)と賞賛されるようになった。
 モラトリアムまっただ中な学生達にとっては不幸な時代になってしまった。まだまだ意識の高い学生は沢山いるのであるが、なにかプロジェクトに打ち込もうと思えばお金や情報など支援が必要となる、ソーシャルツールがその情報を拡散してくれると、そしてそんな活動や、活動している"僕"を支援や応援と言う形で承認されると2010年までは思っていた。
しかしインターネットは所詮道具であった。使い方を間違えれば虚言であっても停学や退学など大きな事故につながりかねないという手榴弾性を持つ。その火力は情報収集力がない学生達さえ萎縮させてしまった。結果ツイッターには当たり障りのない誰得な日常を書き込むようになり、活動は水面下に移行し、公開範囲を限定したfacebookで自意識を発露するフェーズに移った。いわゆるtwitter疲れだ。
なので意識高い学生はいまだに水面下で細々と活動してるし、ブログは身内には届きやすく検索性が乏しくRSSに引っかかりにくいamebloだし、意識高い学生サミットみたいなものがFBで関係ない人たちまで告知を回していまだに開かれたりソーシャルネットワークを使った就職活動がようやく本格化して来たりなんか社会人紹介してくださいて的なお願いが定期的に飛んで来たりする。今やツイッターは中学生がRTすると願いが叶うという画像を拡散するか、ヲッチャーが廃品回収をするか古参が老人会を開くだけの公民館となりつつある。
 僕の記憶の中でブログが普及して意識高い学生としてもてはやされた先行世代の代表であるはあちゅう氏のコピペの衝撃はすごかった。キラキラしていてかつ面白くて。新しいライフスタイルや価値観を提示しつつある後続世代については別に述べよう。おっと今年炎上したあいつらの話はそこまでだ。

大人になれない社会と執着が生み出すアイデンティティ

 さて、アイデンティティだの自己同一性だのの獲得は、現代多くの場合発見でなく保留される。いったん仕事につけば、自分は社会の利益に貢献している、という免罪符を得ることができたのだ。就職のシステムはいす取りゲームであり、学歴や成績と態度や人脈力が伴う学生から採用されていく。競争に勝った人たちの大半は自分たちが勝った競争の権威を神格化しシステムを強化させることでイニシエーション(仲間や共同体に入るための儀式)として機能させようとする。
 結果、日本では働くこと=人生、のような労働論が跋扈し、ワークライフバランスって何?ワークってライフじゃねえの?みたいなシステムがライフと言うなのワークを増やし労働のブラック化を進める。社会人として美学を語ることが誇りである、というアイデンティティ言説は、気づけば誇りがないものは社会人ではない、という排除の理論にすり替えられる。やめて!もう社員のライフはゼロよ!
 もう一つ問題なのは引退年齢の引き上げである。一昔前までは12歳で一人前、40歳で寿命みたいな時代だったのに、気づけば平均寿命は約2倍、60歳定年65歳で第2の人生、75歳で後期高齢者と、仕事に現役である時間は大幅に増えた。それから日本で言えば明治元年から150年弱で人口は4倍に増え、結果競争も激化することとなる。インフラがある程度整備され仕事が無くなって来たり参入障壁が高くなっていることも大きい。
 40で不惑といっていたが、気づけばモラトリアムの延長が可能になり、このときまでにこれを達成して、みたいなロールモデルは技術革新も相まってがっつり崩壊し、競争は激化し保留の不可能性が高まったため、王道に居続けられる人以外は常に不安を抱くようになった。いつ首が飛ぶかわからないと言う生活の不安とともに、アイデンティティ崩壊の局面を迎える。結果、会社で仕事ができない訳ではないが目立って成績がある訳ではない人たちからダブルキャリアだのパラレルキャリアだのと言って社会貢献活動や勉強会に出向くようになる。
 ここがガッツリ構造的な問題で、もっと仕事ができてキャパシティが余っている器用な人たちこそこういうキャリアに進めばいいのに、なかなかそういう話にはならない。結果、元意識高かったおっさん意識高い若者や同僚を叩くプロレス本を出版する訳である。意識高いこと自体は誇っていいことなはずなんだけれど、なぜか黒歴史化するのがこの国の嫌なところだ。
 一方でアイドルのライブやコミケなど参加型の文化に包摂性を見いだし腐女子やオタクになっていく若者達もいる。広義のソーシャルゲームに身を置き、無限に発生するイベントを求め、そこに貢献することで彼らはアイデンティティを獲得(のように見える保留を)しようとする。
 王道に立ち続けるためにブラック労働に堪え続ける質の高い人、パラレルキャリアだのダブルキャリアに夢を求めて自己啓発に走る意識高い人、包摂を求めてオタクになろうとするにわかおたくたち。日本の労働市場は3層化していくし、どれが一番健全かと言われればなけなしの金を払ってでもオタク文化に走ろうとすることな気がしてくるのがつらい。
 そう、こうして分析してみるともはや意識の高い人ではない。労働システムの老朽化に見捨てられた老若男女そのものだし、彼らに旧来の世界観の上に立った処方箋を渡そうとしても、どうしてもパイは限られているものばかりで、最終的には競争になってしまい、マッチョじゃなければ生きられない論か生まれない。
 そうした不安につけ込むビジネスも増えたし、政治による不安払拭型政策が新しい不安と長寿を作り出す、我々は自由の刑に処せられ、ゾンビのような状態で長生きを強要される。息苦しさから逃げ出すためには能力を上げるか鈍感になるかオタク文化を始めとした消費に走るしかないのである。ゾンビに安らぎと追悼を。アーメン。

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