監禁と欲動の心理学

 元千葉大生が女子中学生を監禁した事件が発覚してしばらく経った。いろいろと事情が見えてきた様子で、監禁動機はいまだわからないものの、容疑者は秋葉原に足繁く通うタイプで、部屋からアニメやゲームのグッズが発掘されたことが報道で取り上げられた。そのため、ここぞとばかりに表現規制論が恒例行事として沸き起こり、アニメやゲームを愛するオタクが犯罪予備軍のような扱いをされている、とネット上では非難が起き、しまいには表現の自由を妨げるような事件に巻き込まれるJCが悪い、みたいな逆転の発想ネタが横行するような祭りと化している。個人的にはアニメやゲームよりも監禁映画の代表作「完全なる飼育」が見つからなかったことが気になった。この作品はストックホルム症候群をモチーフとし、長期間緊張状態を強いられる環境になると、一緒にいた相手に好意を抱いてしまう、という現象を扱った映画である。さて、はたして本当にアニメやゲームや映画のようなコンテンツは犯罪を助長したり暴力性をするのであろうか?

カタルシス論と欲望拡張論

 アニメやゲームが本当に犯罪を助長するか、ケースワーク的な研究はあるものの、統合的に比較したような研究はまだまだ散見されない。宮台学派のように、主に犯罪動機となるストレスの息抜きに使われる、というものと、触発されて模倣犯的に使った犯罪事例研究とがぶつかり合い、専門家の間でもコンテンツがどう作用するかという部分については議論が分かれている。これをそれぞれカタルシス(発散)と欲望拡張という呼び方をしたい。
 そもそもフロイト心理学の世界では、心の中には無意識と意識の領域があり、無意識の世界は常に欲動と呼ばれる「やりたいことの種」が渦巻いていて、それを普段は抑えていて、必要に応じて意識が取り出している、という考え方をする。そしてその意識や無意識から取り出した行動を評価して最終決定をくだす超自我と呼ばれる視点も持っている。超自我は自己肯定感の強化や反省を促すこともある。個人的には超自我の評価基準(マイルール)が高い人ほどメンヘラになりやすい傾向があるという仮説を支持している。
 ほとんどの場合この超自我が行動に移そうと思った意識を止めて、悪いことを未然に防ごうとする装置として作動する。
 また、犯罪心理学の世界では、例えば一般的に<健常>でない人、精神異常、発達障害サイコパスの人たちが犯罪を起こすリスクが高いと思われがちであるが、それは犯罪全体の4%程度と言われている。逆に言えば96%の人たちが「動機(例えば強い怒り)」と「必要な道具(凶器)」と「環境(誰も見ていない状態)」が揃えば犯罪に手を染めてしまうという証左でもある。多くの人はその全てが揃わない、もしくは動機を超自我が抑制することで犯罪を起こさないように訓練されている。蛇足だが、なぜか日本では意味を矮小化してこの超自我を鍛えることを「道徳」と呼ぶことになっている。

防衛機制の汎用性

 この考え方をベースに、強烈な欲動が発生したはいいが超自我の監視などが機能し実行しなかった/できなかった時、我々はやらなかった理由を欲する。そうして無理くり発生させた理由のことを防衛機制と呼び、防衛機制は得てして論理的に筋が通っていない(ように外からは思える)ものが大半である。ツイッターで支離滅裂な発言をする人がいたとしたらこの防衛機制が働いていると思った方が良い。
 防衛機制として、アニメやゲームは基本的な物語を提供して自分が経験できないことを代行してくれる装置として機能する。例えば少年漫画では、ある日不条理な要求をしてくる悪い奴が現れ、それを倒すことで平和を取り戻す物語が王道であった。そこに自己を投影し、悪い奴を倒すことでカタルシスを得る構造となっている。そこにあるのは自己の境遇との類似性で、例えば不条理な要求をしてくる悪い奴は、親のメタファであったりするのである。親を殺したいけど殺せない、だからこそ想像の世界やアニメやゲームなどの物語の世界で親に相当するキャラクターを殺してカタルシスを得るのである。
 逆に、例えばロリコンテンツを閲覧することで、主人公に感情移入をし幼女と恋愛することで、幼女と結ばれてカタルシスを得るという構造もある。同時にそれで満足して性犯罪の抑止につながるのか、現実でも幼女と恋愛をしたい!と思うかどうかという話である。多くの保護者はそういったコンテンツが欲望拡張して現実にも可能であれば幼女と付き合いたい、監禁して愛を育みたいと思うのではないか、という不安を感じている。

投影(同一視)消費と摂取消費

 分水嶺としていえるのは、アニメやゲーム、映画など、暴力描写や性的な描写を見た時、我々は3つの消費の仕方をする。
一つは単純に想像上の物語として単純に 教養化すること、自分と関係のない事実や物語として受け入れ教訓を得るタイプの消費である。これは作品の技巧や他作品との比較によって批評を行うことも文化として定着しており、国語の授業などでも扱われる程度に定着している消費形式である。
二つ目は自己投影型消費であり、日常系と呼ばれるアニメによく見られる。主人公やお気に入りのキャラクターに自己を投影もしくは憑依し、自分がやりたいことを代行してもらうことである。たとえばアニメ「けいおん」のように女性のキャラクターを愛玩しながらも、自分のやりたいこと(この場合は文化祭でのライブ)をしてもらってカタルシスを得る、といった消費の仕方である。また、この日常系のバリエーションは異常に増えており、日常系×鉄道、日常系×山登り、日常系×バイク、日常系×邪気眼など、男の夢やあるあると組み合わせることで特に抑揚のない作品たちに魅力を見出す消費者が増えている。また、ハーレム物やラッキースケベものなども同様の自己投影型消費であるが、昭和のラッキースケベは積極的に女風呂を覗きに行ったり女の子を脱がせたりしていたのに対して、平成のラッキースケベはみな誠実な主人公が気づけばエッチな境遇に巻き込まれているなど、自己投影しやすいキャラクターの性格の変遷も見て取れる。
三つ目が登場キャラクターたちの価値観を取り入れる摂取型と呼ばれる消費で、作品に登場したキャラクターたちの思想や行動を模倣し、自分も万能感や神聖感を得るといった消費、すなわち欲望拡張につながってしまう消費である。偉人や正義感の強いキャラクターに投影摂取することでロールモデルを得、成長や教訓を得ることがあるのだけれど、これが過剰になると例えば非モテキャラに共感摂取してしまうし、プロパガンダ映画などはこの摂取型消費を促進するような演出が散りばめられていることもあった。ロリコンテンツを見たら欲望拡張されるかといえばそうではなく、多くの人はそれがダメだと思っているからこそコンテンツに自己投影消費を行いカタルシスを得るのである。

おわりに

 結局摂取型消費を過剰に評価してしまった人が欲望拡張説を唱えるし、欲望が拡張されても僕個人がオタク心理学研究家として多くのオタクの人たちにインタビュー、フィールドワークをして分かったのはオタクの大部分は良い子(誠実)だし教条的だし超自我が訓練されているし、だからこそ自分ができないことをアニメのキャラクターに行わせる自己投影型消費が主流となっている。アニメやゲームにかかわらず映画やアイドルなどのコンテンツなどの消費傾向も教養化から自己投影消費に推移している。オタク化したヤンキーですらその傾向は当てはまる(あくまで例外はある)。
 一般的な結論ではあるが、一つの事例を取り出して一つの因果関係を強調して全体を語ることは人だけでなく自分の首すらも絞める結果になるゼロトレランス社会につながる可能性があるし、メディアも個人メディアも批判の手順は丁寧に踏んだ方が良いと思うのである。なお、防衛機制については様々なバリエーションがあり全てを網羅すると大体の人の行動原理が見えてくるのでぜひ学ぶことをお勧めしたい。

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