愛国心という病-書評-<私>の愛国心

香山リカの本は好きだ。彼女の言論は認識の上で成り立つものが多く、専門の精神病理以外の分野となると評価は二分される。
良著はたくさんあるのだが、本書はちょっと惜しい部類に入る書だったのだが、僕はこの本をブックオフで105円で手に入れたので全く文句はない。むしろこの値段でこれだけ楽しませてくれたのはありがたいと思ってる。アマゾンリンクはっておくから1円とかで売ってたらついでに買って読んでみて!くらいの本だ。

まずタイトルからして中身がよくわからないよね。
結論から言うと「日本社会の傾向を心理にたとえて言うなら精神的な病気だよね」といたって普通。

取り扱っている内容はブッシュ政権イラク戦争とその日本の反応の傾向が非常にナショナリズムっぽいんだけど、著者的にはなんか違うんじゃないかって違和感を感じてる。簡単に言っちゃうと、歴史とか統計とか踏まえず身近な情報だけでいろいろ判断しちゃう人増えたよねって話。これをネオリアリズムって言って、たとえば若い人の犯罪増えたから厳罰化しようぜとか、北朝鮮ミサイル打ってくるから憲法改正して対抗する準備しようぜとか言っちゃう人が増えたんじゃないの、と著者は語る。

若い人の犯罪もポテンシャル(統計数字に表れていない犯罪)も一定数あるっぽいけど横ばいか減ってます。憲法改正議論も何十年も繰り返されては却下されてます。語りだしたらきりがないんだけど、僕が思うに要は問題は不寛容な態度、寛大じゃないことなんだよね。

世間的に「これくらいは許されるだろう」ってのがないと人間ストレスたまっちゃうから、躁うつ病になりやすいよーと。ほんでストレスたまると人に攻撃的になっちゃうよね。現代的病理。

その悪循環にはあまり触れてないんだけれど、屈託なくやさしく対応する一方で、受け入れることができないものには従来より強い拒否反応を示す人が増えた。歩み寄ろうとする姿勢すらない。それを神経病理の専門家が指摘する「社会的な神経性の病だ」って言説は意外と的外れで、どちらかと言うとかい離障害的なんじゃないか、という指摘をひたすらするだけの本である。

 ところどころアメリカのテロに対する傾向や極端すぎる意見を批判するのではなく病的だといってひたすら神経症じゃないんだ、境界例なんだとかいって解説したりするんだけど、愛国心とか定義があいまいなものをさらに境界性人格障害とかあいまいな定義のもので説明しようとしても、思考のプロセスとしては非常に参考になるんだけれど、解決までの強い説得力を持った言説にならなかったなぁというのが感想。たぶん著者本人も感じてるんじゃないだろうか。著者が本書で引用している日垣氏も本書に対して結構辛らつな評価をしている(いや読み返してみるとただ政治的な意見なのかもしれないが)。

 ただ、今このタイミングで読むのは面白い。先日の北朝鮮の衛星打ち上げ実験での日本の盛り上がりと飛翔体報道ミスのヒューマンエラーに対するバッシングの不寛容な態度、いまだにこの病理は続いている。ブッシュ政権が小浜政権になって、多少クリーンなイメージがついた今でも、日本は何も変わっていない。それは鎖国的風土だったり、日本人の国民性だったり、もしかしたらミーム的な何かだったり。精神的な、認識的な事柄に対してはいくらでも説明がつく。それがどれだけ妥当かを知るすべを意外と僕らは義務教育で教えてもらえない。もしくは忘れていく。

 この手の精神的変容を示す現象が納得できるかを検証するためには、昔と今の何が変わったかを考えることだ。「出来事」だけでは個人個人の考え方は変わっても社会的思想傾向はそうそう変わらない。歴史が変わっても、人のマインドなんて一個や二個のきっかけでは変わるものではないのだ。
 ここでポイントとなるのが技術の発展と制度の発展である。出来事はきっかけでしかないし生活様式の変化なんてものは表面上の結果でしかない。
電灯の発明が人間の生活時間帯を変えたし、銃の発明が個人向けのラジオやテレビという生活様式を伴った技術を普及させたことで、個人の充実と言う価値観が広まったし、PCやケータイ電話がコミュニケーションの幅を広げ、同時にケータイ依存なんかの弊害を起こした。軍事技術は政治の在り方を変えた。それに伴ってさまざまな制度が出来上がる。制度は新たな技術の需要を生み出す。

 この手の安っぽい言説は繰り返されるんだけど、意外と理解されていない。たとえば、どれだけの人間が産業革命の本質を説明できるだろうか。産業革命の発端は蒸気機関の発明だと思われがちだけど、その本質的技術は蒸気機関じゃない、その機関から取りだす力を「制御する技術」が産まれたことだったんだよ。ってかなり話それた。

 このネオリアリズムによる愛国心議論がどれだけ当てはまるかと言う部分でかなりの疑問なのである。例えば新聞と違って目に入る情報を極端に取捨選択できるウェブの普及率がこのネオリアリズムに大きく影響を与えた可能性はある。それが歴史や統計的現状を踏まえずニュースへのコメントを語る人が増えている理由なのだろうか。思考プロセスの分析の質の高さはあるにせよ、この本にはその思考プロセスに至った核心的な理由などは記載されてはいなかったように感じる。<私>という表記は私とかい離した<私>である。多重人格的なイメージで考えればよいだろう。<私>は私が何をやっているかを知ることはできてみ見ることはできない。自分と向き合っていない<私>の態度こそが屈託のない愛国的に見えている。でもそんな態度は私に優しくないよ。

末端であるが、教育者として付け加えるなら寛大な人間に育ってほしいからこそ教育活動をしている。毎日mixiニュースの言及記事には事件事故に対し"これはひどい"という意見を無邪気にぶつける人々。彼らはそれを「われわれ(コミュニティ)の問題」と認識しているのだろうか。一度言及日記を100件くらい調べてみたら8割がた文句で少し落胆したこともある。彼らは彼らなりのカタルシスなのであろうが、それは問題を覆い隠すばかりで、問題の解決には向かない。だからと言って、僕ができることは、技術が世の中をどう変えたかを身近な人に教えるだけなのだけれど。