はてなキーワード「技術・家庭」を編集しました

さきほどはてなキーワード技術・家庭を編集した。

元のキーワードの説明があまりにもひどかったので、はてな市民になれるこの日を待っていた。


技術は家庭科の一部ではない

名前の通り、「家庭科」で行われていた内容の拡大発展版。

「家庭科」の目的は名前の通り日常生活(家庭生活)を行う上で必要な衣食住の知識を身につけることにあるが、このうちの「住」の部分を拡大発展させたのが「技術」の部分だと言える*1。

言わせねーよ!(我が家風)

とはいってもここに書かれていたのは一般的な認識の総意だろうと思ってる。家庭科の目的が「日常生活に生かす」であったため、技術教師も学び手も勘違いし「日曜大工」ばっかり行う科目になってしまった。中の人としてはちょっと考える。

ぶっちゃけネットいじめとか今ネット上で話題になっている問題の半分は技術教育の充実で解決できると思っているくらい、僕は技術教育万能論者だ。

技術科ってなんなの?

技術ってのは簡単に言っちゃうと知識を形にすることと、形にしたもの。いろんなスタンスがあるんだけど、僕は法律なんかも技術だって考える派。
技術科ってのは技術・家庭科の技術分野の総称で、日本じゃ中学校の3年間しか習わない。
こんなに時間数が少ない*1のにこれほど密度の濃い科目はないと思っている。
今度の学習指導要領で材料と加工に関する技術、エネルギー変換に関する技術、生物育成に関する技術、情報に関する技術の基礎的な知識と技能、およびに技術と社会や環境とのかかわりについて理解を深めろってことになってます。
んで最終的に技術を適切に評価し活用する能力と態度を育てる。

 多くの人はなんか木で棚作ったり、電気回路使ったもの作ったりとかしか記憶にないだろう。僕の周りでも技術科って科目の記憶すらない人もいた。
 でも大事なのはそのプロジェクトを通して、生産のための方法と問題解決の手立て、職業的知見とか周りの人とのかかわり方を学ぶこと。何が言いたいのかって、おおざっぱに要約すると方法と分析ばかりを学ぶ学校教育の中で唯一と言っていいほど「どう方法を活用するか」といった一つ上の視点を学べる科目なんです。

例えば大人になってからする仕事って、なにか目的があって、それを達成するために方法を選ぶわけだよね。仕事がうまく進まない時、「努力しろ」とか「好きになれ」とか、その方法って適切なの?好きこそものの上手なれとは言うけど、好きだけではその問題を解決できない。スポーツでさえ科学的手法が用いられる時代です。なのでそういう考え方を身につけておくことは将来国家の形成者となる人すべてに必要な素養なのです。
時代が変わって新しい技術と対峙した時、どう活用すればベストなのか。その情報をどこから仕入れるのかとか20年後も陳腐化しない思考術みたいなのをプロジェクトを通して覚えるのです。

詳しくはとんかち先生のブログを参照されたい。いや、すごい適切にまとめておられますので。
技術科の授業は「プロジェクト法」 - 知ってる?中学校の技術科って!
の記事がわかりやすい。
技術と家庭科がなぜ一緒になったかは技術・家庭科誕生!を参照。
他にも21世紀の技術教育とかも参照してほしい。

技術から世の中を見直す

身の回りの「技術」って呼ばれるものを頭に浮かべてほしい。レンジとか洗濯機とかケータイ電話とか。

  1. どういう仕組みで動いているか
  2. どういう流れでつくられているか
  3. その技術でどう世の中が変わったか
  4. その技術をどう扱うのが適切か

をあなたは答えられるだろうか。そしてそれは妥当だろうか?

1つ目は理科や数学で学べる
2つ目は技術科でしか学べない
3つ目は技術と社会で学ぶべき項目

3や4は技術を適切に扱うための教育としておこなわれるべきなんだけれど、実際問題そこまで浸透してないんだよね。


さらに学校教育では科学技術教育の振興と言いながら理科や数学の時間しか増やさない。そりゃ科学的な部分は発展するかもしれないけど、それを適切に扱うインターネット中毒とかケータ依存の子供がたくさん出てくるよ。しまいには「家庭での教育がうまく行ってないから」とか政策考える人たちが言っちゃうから性質が悪い。

技術の扱い方を考える

例えば車一つ例にあげてもけっこう深めることができる。
車は基本的に内燃機関をエネルギーとしてシャフトを通じて動力を伝えて動く仕組みだ。近年では電子制御なんかもおこなわれてる。
これが作られるために研究所で賢い人たちが一生懸命開発して、工場ラインで機械と職人が作ってる。最近ではマニュアル化されて職人じゃない派遣労働者も大量に働けるようになった。
車の普及により生活が便利になった一方で、人身事故も増えるようになった。排ガス問題が人間の体だけじゃなく環境問題まで発展した。
車を適切に使うために道路が整備されルールが作られ、免許が必要になった。

問題解決を考える

車同士の衝突が危険だってのは車が普及し始めてから当然のごとくあった問題だ。
まず一番最初に考えられるのが「事故らなければいいんだ」といってルールを作ることだ。道路をつくって車線を引いて左側通行にしておけば接触事故なんて起きないだろうと。衝撃の強さは速度の2乗に比例する。速度制限を設ければよいのだと。
だが、どんなにルールを緻密化しても、厳罰化しても、事故はなくならなかった。
そこで考えられたのがフェイルセーフだ。どんなに教育を徹底しても一定の割合で事故は起こる。なら事故が起きることを前提で設計すればいいのではないか。最初に設計者たちが考えたのは車体を固くすることだった。これで衝突しても車が壊れにくくなれば死ぬ人も減るはずだ。結果、衝突事故の衝撃で負傷する人が続出であった。
次に行ったのは科学的分析だ。衝撃の強さは衝突する秒数が長いほど減る。また車体が軽いほど衝撃は減る。車体を軟らかく軽い素材で作ればいいのだと設計を行った。結果、固い車と柔らかい車が普及してしまったせいで衝突の際柔らかい車が犠牲になることとなった。
そしてフレームを軟らかくし、運転席の周りは固い今の車ができた。

情報元が伝聞だったり、単純化しまくってるので若干厳密ではないかもしれないが、このように科学的な視点と技術的な視点を繰り返して問題解決は行われてきたことだけは事実だ。だが技術的な視点についての教育にあてる時間は非常に少ないし、この手の問題解決のプロセスを知る学習もまだまだ普及していない。

労働環境を考える

もしくは労働環境を考える教育と言うのも技術でしかできな実践だ。技術と人間の優先順位を考える。
工場で一億円で50人分の仕事をする工作機械技術が発明されました。それを導入したときその仕事をしていた50人はどうするのか。生産ラインが拡大すればまた新しい仕事ができるけど、不況で工場の生産数が減ったときどうするか。

多くの経営者が機械を売るより雇用を減らす方を選ぶだろう。そうして起こったのが派遣切りだという説明も成り立つ。
機械が人間の代わりに仕事をしてくれる社会は便利だね。一方で仕事が機会に奪われて減ったら俺らはどんな仕事をすればいいんだろう?機会の管理?知的生産だって?

学校を家庭環境や経済的理由でドロップアウトした人間って、結構たくさんいるんだよ?その人たちを雇って再教育しようとする会社がどれくらいあるの?あなたが経営者だったらそういう経営をしたいと思う?ってな話まで。

結局ジレンマから最適を選ぶ教育が足りてない

あなたが技術者だったら、あなたが経営者だったら、という教育が徐々に普及している。技術のものづくり教育を発展させた起業家教育(アントレプレナー教育)の実践ってのも、よのなか科のハンバーガー実践あたりから少し流行ってて、その本質はより多くのジレンマから最適を選ぶことなのだ。
消費者の視点で考えたら安い方がいい商品も、働く人のことを考えたら最低限の賃金は払わなければならない。割引した分は労働者が割を食ってしまう。その裏側にも「私たちは売ってるものを買うしかない存在なんだ」という自虐的消費者意識のようなものがあるのではないか。

そういう自分と社会の利益のジレンマの中で何を選ぶべきかと言う教育が絶対的に不足している。
そしてそれは総合的な学習の時間で基本的に行われてたんだけど、総合的な学習の時間も徐々に減らして無くなってしまう。その時間に行われていた内容をどの教科で引き継ぐかと言うのがホットトピックになっている。

結構ざっくり技術科を紹介したのでちゃんと伝えることができてない部分もあって誤解されちゃうとこまうんだけど、時間数を増やしてもっと充実させないと、20年後日本にガタが来ちゃうよ。高度情報化社会とか言ってる割にそのための教育は不十分。情報技術なんて技術の代表例じゃん。はてな的に技術科をもっと普及させようキャンペーンとかしないかなと思う今日この頃。

*1:中学校1,2年で週2時間、中3で週1時間、技術科と家庭科で分けるので実質週1時間以下