ねえねえ聞いて、といえる場所の強さ

つい先日、昔住んでいたシェアハウスのパーティに顔を出してきた。

仕事がらオチのある会話を一生懸命考えては話すようなコミュニケーションしかできないのだけれど、このシェアハウスの住人たちはみんな家族のようなもので、何が言いたいかわからない会話もオチのないただの報告のように語ることができる。

語りながら人は頭の中でその出来事を意味づけしていく。自分と関係ないはずの出来事がなんとなくいやだった、という話をすれば、それはどんな前提を無意識に持っていてどんな感情が発生したのか、ということに気付くヒントを住人たちは返してくれる。

一人で自問自答しても気づかないようなことや、同じような体験をした話などが世界と自分をどんどん接続してくれる感覚を得る。

昔は親がその役割をしていたのだけれど、反抗期を経て、親元を離れて一人暮らしを始めて、そうした相手を作ることがなかなか難しく、結局友達づきあいはするのだけれど、そうした会話のプロトコルは踏めず、もしくは踏んでも面白くないやつ、と評価され、結果、自分の世界に籠りがちになってしまう。

大人ですらそうなのだから、子供のときにもっとねえねえあのね、ねえねえきいて、といえる場所や人をたくさん持っておかないと、子供は社会と半ば断絶された偏った社会と接続してしまう。

人の強さは能力でなく場所をいくつ持っているかなのかもしれない。能力があってもそれにそぐわない場所ではその能力は意味をなさない。積極的にあのね、と言われるようなプレゼンスを身に着け、普段から強い否定の言葉を使わず、会話に落ちを求めず、共感や自分の体験の言語化を相互にできるような別の場所をいくつもいくつも作っておきたいと思うし、それが今のシェアハウスブームのトリガーな気がしている。

 

あのね♪DS
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