やる気のなさって、その国の経済的成熟の指標じゃないの??

 こそっと水面下で日本のやる気が問題になっていた。

 日本企業の社員の「やる気」は世界最低だという。これは、アメリカの人事コンサルティング会社KeneXa High Performance Institute(以下、ケネクサ)の調査による「事実」である。

 正確に言えば、ケネクサの調査は「従業員エンゲージメント」についての調査で、28ヵ国の社員100名以上の企業・団体に所属する社員(フルタイムの従業員)を対象に行なわれた。サンプル数は約3万3000名。ケネクサが定義する「従業員エンゲージメント」とは「組織の成功に貢献しようとするモチベーションの高さ、そして組織の目標を達成するための重要なタスク遂行のために自分で努力しようとする意思の大きさ」ということで、要するに「仕事に対するやる気」である。

 この「従業員エンゲージメント指数」、世界最高はインドで77%。以下、デンマーク67%、メキシコ63%と続く。他の主要国では、アメリカが59%で5位。中国57%、ブラジル55%、ロシア48%など。イギリス、ドイツ、フランスなどのヨーロッパ先進国も40%台後半で弱い。韓国は40%でブービー賞。日本が31%でダントツの最下位である。というわけで、日本の社員のやる気は世界最低という次第である。

 実は僕自身も90年代後半くらいから、日本企業の社員のやる気、仕事へのモチベーションがどんどん下がってきたと実感していた。

世界でダントツ最下位!日本企業の社員のやる気はなぜこんなに低いのか? | 社会貢献でメシを食う。NEXT 竹井善昭 | ダイヤモンド・オンライン

ワシントンDCに拠点をおく世論調査会社、ギャラップ社が10月8日に発表した大規模な調査結果(“State of the Global Workplace”)によると、世界中で、意欲も積極性も持たず、他人の足を引っ張る従業員は、仕事に愛着があり、意欲を持っている従業員の倍も存在すると分かった。
(中略)
「意欲がない」「意欲を持とうとしない」を合わせると、世界の労働者の87%に達する。ギャラップ社の調査はこうした人々を「気持ちが職場から離れていて、生産的であろうとしない」とみる。言い換えると、世界の労働者の9割近くにとって、仕事は達成感ではなくフラストレーションの源になっている。これは、ほとんどの職場は本来もっている能力よりも生産性が高くなく、安全でもなく、雇用者は新しい仕事を作り出せずにいることを意味する。
(中略)
仕事をするうえで幸せを感じる意欲ある従業員の割合が最低だったのは東アジア地域で、全体でわずか6%となった。この数字は中国の結果でもあり、中国では、仕事で幸せだと感じる従業員がわずか6%だった。約68%は仕事から気持ちが離れていて、26%はひどく不幸だとしている。

 日本の結果にも筆者は驚いた。日本にはもっと幸せを感じている従業員が多いのではないかと考えていたが、結果は7%。中国をわずか1ポイント上回っただけとなった。69%は意欲がなく、24%は仕事が嫌いだった。
(中略)
 中南米では、経済規模が最大のブラジルが最も幸せで意欲的な従業員が多かった。驚くことに、27%が意欲があり積極的に取り組んでいる。しかし、62%は意欲がなく、12%は仕事が嫌いという結果だった。
(中略)
 この結果をどう考えるべきだろうか。ギャラップ社は120ページにわたり、多くのアイデアを紹介している。多様な手法でデータ分析しているが、多くは驚くものではない。教育水準の高い従業員は、教育水準の低い従業員より幸せだとする割合が高い、といった具合だ。

意欲なく仕事嫌いな従業員9割も 世界23万人調査 :日本経済新聞

 経営者系の人達が何かいいたそうにごにょごにょしていた。日本の特徴として、平均的な学力が世界一である一方で、人を評価する能力と言うものがメディアによりすごく偏った形になっている。心理学的には自己奉仕バイアスといって、うまく行ったのは自分のおかげ、失敗したのは他人のせい、といった、環境要因と心理要因を使い分ける傾向を見て取ることができる。日本の場合、契機の気は気分の気、などとワイドショーで文化人が連呼し、経済がうまく回らないのは気の持ちようの問題だ、と問題を矮小化する傾向が見て取れる。疲れやすさが勤勉性を示すように、やる気の無さも、報われない社会=経済的発展の停滞≒もう十分成熟しているというのを指摘しているのではないか。
元の調査はこちら
http://www.gallup.com/strategicconsulting/164735/state-global-workplace.aspx
Q12と呼ばれる12個の質問項目を聞くもので、

①自分が何を期待されているかを知っている
②必要な材料(情報)や道具を与えられている
③もっとも得意なことをする機会を与えられている
④良い仕事を認められ,褒められている
⑤誰かが気にかけてくれている
⑥誰かが成長を促してくれる
⑦自分の意見が尊重されている
⑧会社・仕事の使命・目的が重要だ
⑨同僚が真剣に質の高い仕事をしようとしている
⑩職場に親友がいる
⑪誰かが私は進歩したと言ってくれた
⑫仕事について学び、成長する機会がある

◆ギャラップQ12・・・これが答えだ! : クオリアの風景

 ほら、これって仕事へのやる気ではなく、職場のコミュニケーションや自由度を測る質問じゃないの??

報われない社会ならではの、心理主義への傾倒

 意識調査は意識調査で重要なのであるが、それが全てを物語ると解釈してはいけない。
 人間が一番測り間違いやすいものは、「感情」と「性格」だと考える。我々はこれらを当然のように語り、占い、共感するのだけれど、この当然さほど胡散臭いものはない。感情や価値判断に基づいた共感は人を操るために使われると、このブログではさんざん唱えて来た。
 まず、「感情」は物語の中でしか語り得ない。代表的な感情として、<喜怒哀楽>とあるけれど、それは物語の中で行動の理由として使われる道具でしかない。「殴ったのは怒ったからだ」、「泣いたのは嬉しかったからだ。」と。感情や性格という心理とよばれる言葉を使うことで、人間の行動に対していくらでも理由付けが可能だ。人々はこれに納得するように訓練を積んで来た。
 だけれど現実ではうまく言葉にできない感情がいろんな場面で噴出する。プレッシャーの中気合いを入れて準備していた発表会が延期になったときのあの開放感と喪失感。好きな子とデートをして見送った後の嬉しいような寂しいようなアンニュイな感情。
 そして最も自覚すべきは<感情>と行動や結果は、一致しないことの方が多いことである。
 顔で笑って心で泣くこともあるし、無表情で喜ぶこともある。新しい仕事に対して気合いを入れ直そうが普段通りこなそうが、やる仕事の内容は変わらない。高校野球をテレビ越しに応援しようがしまいがそれが物理的にリアルタイムに彼らに伝わることは無いし、活躍っぷりは変わらないだろう。だけれど人はなぜか失敗したら心理状態のせい、成功したら環境のせいにしようとしたがる。人の形をしているものは気持ちが伝わると考え、気持ちが伝われば全てはうまく流れ出すと思っている。

 性格となんだろうか?性格と言うのは、その人の心理と行動のパターンの傾向のことである。怒るとこうする、悲しいとこうする、嬉しいとこうする、といった一連の感情ー反応を物語としてヒモづけたものの総体である。笑いやすい人、泣きやすい人、マメな人、厳しい人。それらは外部の環境:刺激とヒモづけられるものである。泣きやすい人には、泣ける音楽、泣ける場面、泣けるパターンがなんとなく存在するんだろうな、というのは誰しも想像がつくだろう。
 けれど、<客観的>な「性格」等と言うものは存在するのだろうか。全く同じ言葉を投げかけても、時と場合によって反応は変わる。どんなに暑がりな人間でも、冬の北海道でかき氷を食べたいとは言わない。いろんな場面で何度同じ言葉をかけても毎回泣く人間はロボットか病気なんじゃないかと思ってしまう。こうした例外がほとんどない性質、というのが「客観性」である。
 人の性格として代表的な、面白い人、優しい人、のような基準はどこから来るのか。これも相対的なもので、自分の想定する平均的な人間A君と比べて優しい、面白い、と言ったものでしかない。ある小学生が、1週間練習しても覚えられない九九を、がんばったからといって許す先生と、ちゃんと全部言えないとダメ、と繰り返し課題を出す先生と、どちらが優しいのだろうか。その日単位で見ると出来なかったことを許す先生の方が優しいが、2~30年単位で見れば明らかに厳しい先生の方が子どものことを考えている。想定している期間によっても、その判断は揺らぐ。優しさの基準なんてそう言う意味で曖昧だ。短期的に見れば大人はうるさい、うざい存在だけれど、長期的にみてそれを優しさだ、と思えるかどうか、これは反抗期の経験に左右されるし、反抗期を得ない若者は教条的、刹那的な思考・結論に埋まって行く。

 こうした<性格>はその人を分析した人の<なか>に存在する。追求すればするほど、「性格」の意味は「俺からみたお前の感情の傾向」に収束する。つまり、おまえはこういう行動をしがちだからこういう性格だ、は成り立つが、お前はこういう性格だから、こういう行動をする、は成り立たないし、天気予報ぐらいの意味しか持たない。
 確証バイアスと言って、あなたはこういう性格だと言われたとき、「言われてみればそうかも!!」と当てはまる事例を脳みそがかってにサーチしてくれる機能がある。実際は当てはまらない事例も同等かそれ以上に存在する。最近ちょっとショックなことあったでしょ?とか最近嬉しいことあったでしょ?と言われればたいてい思いつくのと同じである。
 感情は、考えてみればわかるが、正反対に思える「嬉しい」と「悲しい」が同時に発生することもあるし、性格も、強い人でも弱気になることも、その逆もある。つねに起伏があり、同時に存在し、基準も人それぞれ、非常に不安定で瞬間的なものである。しかしそれがあたかも常に存在し、誰しもが同じ刺激を与えれば同じ反応(感情)が帰ってくるかのように語られることがある。例えば「幸福度」だったり、「泣ける映画」だったり、「自分が変われば世界が変わる」みたいな標語だったり。
 人は心理によって簡単に判断を誤るし、それを人間性だ、みたいな詩的な言葉につつんで正当化しようとしたがる。
 心理を目標におてしまうと、それが行動を規制する力となり、人格統制の装置として作用してしまう危険性もある。授業は楽しい方がいい、と作った授業では、笑わない生徒は指導対象となる。「泣ける映画」をみて泣けないのは人間性や人生経験が不足している、と言われる。やる気を目標に定めた会社では、やる気の無い奴は社員失格と言われる。その人が何にコミットするかなんてその人が決めればいいじゃん。やる気がなくても仕事できる奴もいるし、やる気があっても仕事できない奴や、教育を変える!とか言いながら、訓練や勉強しない奴を山ほどみて来た。
 それから大学の二次試験が廃止されて面接で「人間力」を測るなどという報道も出たけれど、結局「女子力」が男性に都合の良い力であるように、「人間力」も面接官に都合のよい力でしかない。もしくはどんなに勉強しなくても、どんなに性格が悪くても、”ポジティブな感情を引き出させる刺激”を面接官に与えるのが上手な人間が合格して行く。高卒大卒程度の人間に、その刺激の引き出しが何十何百パターンも存在するとは思えない。同じような話をされ、同じ刺激を与え続けられると、反応である感情の起伏は小さくなって行くので、後に面接する人間の方が不利になる。企業の人事達はこれを経験してか、最近の若者は画一化している、等と口を揃えて言ってきたではないか。
 心理が充足されればうまく行くと思ってはいけない。自己啓発のように、自分のなかでこうありたい!というマイルールを宣言するのはかまわないが、それを他人に押し付けるのにみんなが違和感を持つのはこうした心理主義からくるものだ。気持ちを変えれば全てうまく行く=心理主義であり、400年前とかから批判されているらしい。心理主義を許してしまうとパンとサーカスのみで生きる社会をつくることになる。そこに実存は存在しないし、実存を追求するスポーツ選手やアイドルをみてエンターテイメントとして楽しむだけの社会が到来する。心理的欠損を自覚しようとし、それを埋めるために走り回るカーニヴァル化する社会
鈴木謙介)がやってくる。心理を目標にしてはいけない。心理を正確にはかれると思ってはいけない。

報われない社会というのは、心理でなく制度の問題。

普通に若い人でも気づいてるぽよ。
自分はどんなに努力しても、これから先給料は上がらないだろうってことに。
努力で給料は上がりますか?
上がりませんよね?
じゃあ努力を強いるのはやめてくださいよ、一応頑張りますけどね?
残業します、はい、はい。
みたいな。
若さで突っ走るみたいな、そういうのあんまりないよね。
あっても最初だけ。


もうそれで病めちゃう人、多い。
だって頑張っても給料上がらないのに、嫌な上司と毎日顔あわせなきゃいけないぽよ。
残業もしなくちゃいけないんだぽよ。
夢も希望もないぽよ。
我慢して、我慢して、我慢して、鬱になるぽよ。
それで会社辞めちゃう人、多い。
そしてニート、フリーター化する人って割と多い。
(わるちゃん周辺調べ)

http://geriharawatako.hatenablog.com/entry/2013/10/30/%E3%80%8C%E5%8A%AA%E5%8A%9B%E3%81%8C%E5%A0%B1%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%80%8D%E3%81%AF%E3%80%8C%E8%AB%A6%E3%82%81%E3%81%AE%E5%85%88%E3%80%8D%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%8B

 全くその通りである。これが社員のやる気を下げている原因としては最も大きい。やる気があろうと無かろうと仕事をすれば同じ給料がもらえるのであれば、みなそこまで張り切ることはないだろう。勉強しても報われない、努力しても報われない社会制度の指標としてしか、この「やる気」というものは存在しない。
 まず報われると言うのは金銭的な問題を指している。単純化してお話すため漏れも多いが、社会人の大半が働けば働くだけ成果が出るわけでもなければ、成果に応じて昇進や昇給が決まる訳ではない。もっというと成果よりもコミュニケーションがうまい人が評価され(るように見えるし)、評価のためには成果につながる正しさより評価権を持つ上司の正しさを優先することもしばしば。勉強しても報われないと言うのはそう言う意味である。(断っておくが制度として完全な成果主義にしろという意図ではない)。
 かつてはそうやって学歴と収入と昇進が相関した時代があった。80年代は教育の黄金期と言われている(広田照幸)。
日本人のしつけは衰退したか (講談社現代新書 (1448))
 殴られようが叱られようが罵倒されようがそれは全て激励として機能し、踏ん張りがんばれば収入が増え、家族は楽な生活が出来、町並みや風景が劇的に変化し、自分たちがそれを作り上げ豊かな社会を作っていると言う効力を感じれる時代であった。バブル崩壊後、平均年収は減り、正規雇用者数が減り、労働力はダンプ(賃金が圧縮)されてきた。今度は真面目に働き続けても20年後年金がもらえるかもわからない。若者一人で高齢者4人を支える時代が来るかもしれないと言われ、競争が激化し、よい福祉を得るためにはお金が必要な時代になってしまった。念のためと言う人が増えたからこそアレだけ保険のCMが増える訳である。
 そんななか、お前は使えない奴だ!と尻を鞭で打とうが、お前はいいところあるじゃないかやればできるだろうもっとがんばれ!!と褒めようが、そのモチベートは空振りに終わることとなる。
 「がんばったけど、給料があがらなかった、でもそれは自分のためになった辛いけどいいんだやりがいのある仕事だったし、上司喜んでくれたし、明日もがんばろう」
 そうして努力や成果に応じた適切な報酬を与えず(自己)承認だけ与えることを教育(社会学)業界では「やりがいの搾取」という。最近はそう言う意味で褒める上司や先生も増えているはずである。褒めればちゃんと仕事をしてくれる若者は短期的に大人にとって都合がよい。そう言う若者を育てたと言うのも聞こえがよい。アルバイトなども時給50円しか上がらないのに店長候補にして、後は少々の褒め言葉と責任感を与えて正社員と同じ仕事を与えられる時代である。しごきもやりがいの搾取も構造的には同一線上の問題になってしまう。
 これは構造的立体的問題であって面の問題ではない。そう言う側面もあるよね、で片付けられる問題ではない。教育やコミュニケーションをいくら批判してもこれらの問題は解決しない。学校教員はこの社会背景から教科専門性だけでなくコーチング等のメンタルケアまでまかされることになった。一部の教員は昔から行っていたことではあるけれど、それがのれんに腕押しな時代になってしまったと感じている。それこそ報われない市場にモチベーションの高い学生を送り出すと言うのは、戦争に行かせるために兵士を育てる位の残酷さである。研修は成果の出る方法を教えなければならない、教育は社会と連動して報われない社会を打破するための、新しい人材を生み出す必要がある。(そしてその人物を生み出すために犠牲になるような人物を生み出さないよう配慮する必要がある)。そうしなければ、ゼロサムな利益を奪いあう組織が出来てしまう。社員が足を引っ張るのは組織がインセンティブを共有してないと言う制度的な原因にほぼ収束される。経済を回すためには無駄を作らねばならない。経済的な人間として振る舞うには無駄を消費しなければならない。

漁師とMBA

 何度もいうが、努力すればするだけ年収が上がり昇進が見込め、自分と家族が豊かな生活が出来るならみなやる気を出すのだ。発展途上国でそういったビジネスが許された人達は目を輝かせて身を粉にして働く。職場には自由度が無いし成果ばかりを求められるしそれでも消費は十分だと思っている人達が多い国≒成熟した国で、やる気を出すのは偏にコンサルが自分の仕事を売り込むための宣伝のための餌でしかない。最後にはたらくとはなにか、経済成長について考える材料となる有名なコピペを貼って終わろう。

メキシコの田舎町。海岸に小さなボートが停泊していた。
メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。
その魚はなんとも生きがいい。それを見たアメリカ人旅行者は、
「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」 と尋ねた。
すると漁師は
「そんなに長い時間じゃないよ」
と答えた。
旅行者が「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」
と言うと漁師は、
自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だと言った。
「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの」と旅行者が聞くと、漁師は、
「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。戻ってきたら子どもと遊んで、女房とシエスタして。 夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって…ああ、これでもう一日終わりだね」
すると旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。
「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、きみにアドバイスしよう。いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、漁をするべきだ。 それであまった魚は売る。
お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。
その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。
そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。
自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。
その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキシコシティに引っ越し、ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。
きみはマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ」

漁師は尋ねた。
「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」
「二〇年、いやおそらく二五年でそこまでいくね」
「それからどうなるの」
「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」
と旅行者はにんまりと笑い、
「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」
「それで?」
「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、日が高くなるまでゆっくり寝て、 日中は釣りをしたり、子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって過ごすんだ。 どうだい。すばらしいだろう」