かなり参考になったし笑わせてもらった。2002年の本なのに書いてある状況がほとんど変わっていないことは悲しいし、当時としてはセンセーショナルだったのかもしれないが今読むとあれ?となる内容も含まれている。それでも教育に興味がある人であれば、だれでも手軽に読めるなかなかの面白本。
教育を考える視点
第1部では「教育を考える視点」として、学級崩壊の背景やバリエーション、カリキュラムと学び、教育方法の変遷、ヒドゥンカリキュラム、教育評価、教員養成や教師の課題など、しっかりと端的に述べている。また、一項一項が課題意識をベースにかいてあるため、メッセージとしてもちゃんと伝わるように工夫されている。
統計の読み方を丁寧にしなければならないことや、結論を出すには留保すべき点(これは本書の中でも著者たちが留保している)をきちんととらえる必要がある。例えば教育評価の項では、グールド「人間の測りまちがい〈上〉―差別の科学史 (河出文庫)」を引き合いに出し、人間をIQや偏差値のような単一の尺度で測ることは宜しくないといいながらも、EQ(こころの知能指数)のような客観性に乏しい評価指標を紹介してくる。EQは本書でも指摘しているように数値的評価にはなじまないことから、成績に反映させることは非常に難しい。ポートフォリオ評価や観察評価で評価するしかなく、テストによる客観的な指標でつけた通知表の数字でさえクレームが入る現代の学校になじむシステムかと言われれば非常に難しい。とはいえ学校の成績では「意欲・関心・態度」を評価せねばならず、現場もどう評価すべきかいまだに頭を抱えているところである。
一つ一つの議題を取り上げて輪講やゼミ形式の発表などで深めるのも面白いかもしれない。wikipediaを使った学習よりもこの本一冊を読むほうがよっぽどお勧めできる。
コミュニケーションと人間関係
そして読み物として面白くなるのが第2部の応用の部分である。4つの小論が紹介されており、一つ目は聞くことの重要性、二つ目はなぜ日本人は英語が使えないのか、三つ目はなぜか恋愛スキルの指南・啓発、四つ目は学校の先生の権威の崩壊についてなど、一つ一つ掘り下げても一冊の本になってしまう内容がわかりやすく紹介されている。
黙っていることもコミュニケーションであること、英語をほとんど不自由しない程度に話すためには2000時間必要だが、学校だけでいくら頑張ってもせいぜい1000時間程度であること、「聞き上手」になることが人間関係を構築する上で重要なスキルであること(これについては緊張すると声が出ないなどの非コミュ特有の問題があるので訓練が必要だし簡単な事ではないのだが)、教師と生徒の間に心理でなくシステムによる構造的な大きなズレが生じていることなど、いくつかの(初歩的ではあるが忘れがちな)重要な示唆を与えてくれる。
黙ることもコミュニケーション
「沈黙は力」や「目は口ほどに物を言う」ではないが、自分の意見を言わずに自分の考えを伝える方法というものが昔から存在する。しぐさや表情、一緒にその場にいて空間をともにすること。ただ、人間は沈黙が苦手だ。叱られた時以外の沈黙を読むスキルのようなものが訓練されていないのかもしれない。特に、日本の教員は沈黙を自分のせいだと捉えがちで、賑やかでメリハリのある授業を目指しがちであるが、実際に例えば発問後の(教師の)沈黙を維持したほうが正答率が上がる、と言った調査も行われている。
言葉は時として万能ではないし、言葉は他者の言葉を殺してしまう場合がある。大学の時にこの事に気付けてよかったと思っている。
聞き上手になること
恋愛テクニックの本を読めば1章のモテる心構えの次に必ず書いてあるのがこの「聞き上手」になるためのスキルである。本書では学生の視点から聞き上手になるためのトレーニングやアプローチの方法を示している。
ただ個人的な経験からも言えるが、本当にコミュニケーションが苦手なものは相槌を打つだけでも結構な心労を伴う。うん、と言うだけでも声がかすれたり、気づけば不気味なヒキ笑いをしてしまったり、気を利かせようと思って相手が不快になるような突っ込みを入れたりと、できることならカウンセリングをしてくれる友人などもいることが望ましい。
むしろ緊張せずそれを頼む相手がいるかどうか、頼むことに対してプライドが反応しないかどうかこそが重要でないかとも考える。
教師の権威の崩壊問題
本書の最後に書かれているこの小論は個人的には賛否分かれるところであるかなと思っている。文献などから丁寧な分析を施しており、教師の権威がなぜ機能しなくなったか、若い教育者は学習者中心主義であるのになぜ歳をとるごとに保守的になっていくのかなどが丁寧に描写してある。
一方で権威が崩壊してどうすべきかの処方箋として提示してあるのが、アメリカにおけるグリーン・コミュニティの紹介と、「子供たちに何を学びたいか聞こう」という内容である。
グリーンコミュニティとは、例えばコミュニティスクールを内包する社会システムを持つコミュニティであり、学校が社会と連動して機能する。学校だけを取り上げて従来の学校と何が違うかというと、生徒も保護者も先生も一市民でしかなく、学校職員も先生もスタッフと呼ばれそれぞれがそれぞれの仕事を全うすることだけが重要とされる。例えば学習に関係のない服装や頭髪の乱れについて注意すれば教師が悪いと問題視されるし、内申書なども書かない。一方で学生は市民として責任感を持ち学習をすることが望まれるため、教師がシステムを背景にした権威を発揮する必要がない。
またリーダーシップをとる役割にも流動性を持たせ、日本のように教師だけが特権を持っている(ように見える)仕組みではないということを強調している。蛇足ではあるが、本書では「市民意識」と書いているが、市民と書くと日本人はついついその土地に定着することを念頭に考えてしまう。何かの本で言っていたとおり「公民意識」と表現したほうがわかりやすいだろう。
このグリーンコミュニティの仕組みをそのまま日本に導入しても、文化背景が違うためうまくいかないであろうことも本書は但し書きしている。2000年代後半に流行ったフィンランドの事例もそうであるが、一見うまくいっている風の実践を取り上げそれを日本版にアレンジして導入しようといった実践は別のねじれをもたらす。実際にグリーンコミュニティにいる学生たちがみな公民意識を身につけているのかと問われれば、きっと一部の適応できなかった人たちは日本と同程度かそれ以上に必ず存在するだろう(それはアメリカにおけるいくつかの識字率等のデータが示しているだろう)し、日本の場合原因は他にあるのではないか。
例えば学校に対する期待の過剰化(これは不況の時こそ加速するであろうし)、子供たちへの「なぜ学ぶか、なぜ自分を信用して学び続けなければならないか」などの説明責任、それ以前にそのクラスの運営に携わるのが教師一人だけであること(裏を返せば一人の教師が子供たちに影響力を持ちすぎること)などの人員不足問題と、並行して解決しなければならない問題はごろごろ転がっている。この点については方法を変えればうまくいくといった楽観論を取らず、慎重に考えていかねばならない。
amazonではいまのところ取り寄せが難しい様子であるが、薄い本であるし書店や古書店、他の通販サイトで見かけたらぜひ手に取ってほしい一冊である。