教師の思想

時代とともに「よい教師」という条件や評価軸が変わるわけであるが、「よい教師とは?」という問題設定をしたときに語られるのは主に定義でなく条件である。

  • 「常に子どもたち一人一人を見ている」
  • 「発言は短く的確に」
  • 「いつも笑顔」
  • 「子どもの変化を見逃さない」
  • 「子どもたちに自由と権限を与えてくれる」

といった文脈である。

僕の夏休みの宿題として、そもそも教員の思想について一つの整理の方法を仮説として考えてみた。
図としては以下になる

児童主義と厳格主義

 主義とは何かと言われれば数多くある選択肢の中で、その選択肢を最優先する、という立場に立つことを想定している。
 「児童主義」および「厳格主義」は「日本人のしつけは衰退したか―「教育する家族」のゆくえ (講談社現代新書 (1448))
」において、広田照幸氏が提唱した教育観、特に子ども観についての主義である(参考)。教育を科学的に語る場合、まずは現状として教師は子供をどう見ているか、という部分から語られなければならない(場合が多い)。
児童主義とは、子どもは未熟で動物的な存在であり、元気にのびのびと健康に育つべきである、といったことを子どもに望む子ども観であり、現代でも多くの教師がこの立場に立っている。
厳格主義とは、子どもは未熟ながらに理知的な存在であり、大人と同様厳格にふるまうべきである、ということを子どもに臨む子ども観である。

 この裏には認知主義と行動主義という学力観の問題がある。

 行動主義はスキナーという学者行った研究に由来する。この研究で行ったネズミに「レバーを引っ張れば餌が出る装置」を与えたところネズミは試行錯誤した末、レバーを引っ張ると餌が出てくることを学習し、餌が必要な場合レバーを引くようになったというもの。装置さえ用意すれば動物が学習できるのであるから、教育者は装置として学習機会を用意し、子どもたちの発見や学習を制御べきである、という主張が広まった。スキナーは場当たり的に行う教育を批判した。ここから学習指導案に「本時の目標」を書かなければならなくなり、「学習の成果は行動に表れるものである」というイデオロギーが生まれた。

 しかし、近年になり認知主義というスタンスが教育学者の間で広まった。人間は動物ではない。身体が学習するのではなく、その場その場で最良の判断を決定しながら行動する理知的な存在である。そのため、さまざまな情報や知識を整理し優先順位をつけ記憶する(=認知する)行為そのものが学習であり、動物でなく人としての尊厳を与えながら学習の方策に従いインストラクション(≒授業の仕掛け)をデザインすべきである、といったイデオロギーが現代の主流である。また別レイヤーで個性主義と協調主義などもあるが、ここでは取り扱わない。*1

多くの教育書が子どもは理知的存在であり一人ひとりをみて個性を伸ばし苦手を克服する教育をするべきだ、といった「平等」「個性」「協調」に代表される教育独自の価値を説教する厳格主義・認知主義的なものが多く、一方で現場の感覚としては、いちいちすべての生徒の名前と顔を一致させ家庭環境や学習環境などの背景を深く理解するのは非常に高コストであり、特に美術や音楽の教師など学校に一人しかいない場合も多く、一人で学校全員の顔と名前を覚え、テストの採点をし、特性を見極めて評価をするとなるとかなりの負荷である。核になる教育目標は児童主義・行動主義をベースにし、特例を用意するほうがコストとしては低くつくため、どちらがよいとは言えない。
またこの対比も便宜上のものであり綺麗に背反する概念でないため概念整理及びブラッシュアップが必要だ。*2

職人的と専門家的

 「教師かくあるべき」論は山ほどあるがアティチュードとして切り分けると主にこの二つ「職人的」と「専門家的」である。そもそもレイヤーが違うためうまく切り分けているわけではないが、佐藤学氏は教員の評価の二軸としてこれを提示した。
 職人も専門家も何に対してプロであるかの違いであるが、職人的とは、実物を相手にする、すなわち教育現場では児童生徒を相手にした時、どう行動しどう対応しどう促すか、といった授業や生活指導の技能を中心とした態度を職人的とする。いっぽうで専門家は学問や心理学など、その行動や対応のバックボーンを追求する態度を示す。
 例えばTOSS(教育法則化運動)を提唱した向山氏などは完全に職人である。彼は授業するクラスの生徒の顔と名前はすべて覚えるし、性格や指の動き一つを一言でとっさに掴み、授業の進行に応用する。
 一方でどちらかというと専門家である大村はまなどは教材研究にとにかく力を入れ、生徒主体で授業を組み立てる。佐藤学などは、教師は授業の準備しかせず、生徒がお互い発言しお互いに聞きあうことで授業を組み立てる学びの共同体などを提唱しており、すでに全国で10000もの学校がその取り組みを取り入れているという。
 技能主義/知識主義と切り分けてもいいが、学術が得意/学問が得意として切り分けたほうがわかりやすいかもしれない。「教師は子どもの専門家であると同時に学問の専門家である」、という言葉もあるか、この子どもと学問のどちらを優先するか、という部分だろう。
 また個人的に職人と呼ばれる人たちは、教育書に説教くさいことしか書かないため嫌いだったこともあり誰がどういうことにたけた職人なのかという部分に関してあまり詳しくないため、この軸で整理して例をあげてみたが妥当かどうかはわからない。

切り分けは思考の参考程度に

 あくまで便宜的な切り分けであることを繰り返しておくが、教育議論がうまくかみ合わない場合、この思想や志向を共有していない場合が多い。学校でのリスクマネジメント一つとっても子どもは大抵の場合ものを壊すという児童主義にたつか、子どもは理知的だが大人と同様たまにモノを壊す程度の失敗もある、といった厳格主義に立つかでレディネスのありようも変わるだろうし、ルールの組み立てや学級運営の方法も変わってくるだろう。このあたりについてあまり整理されていないことこそ教育現場の混乱の種ではないかと考える。整理することで結論として落とし所を見つける参考になればと思う。
 また、これらの思想が明示されていないことや、先にも言った厳格主義が現代的なんだ!みたいな一元的な見方をする大学の教員や研究者も多く、現場の負荷を考えず一方的に押し付ける態度から現場と研究者のディスコミュニケーションも深刻だ。以前理系社会化とその弊害 - 技術教師ブログにおいても同様のことを書いた。
 あくまで思想・主義であるため一人の研究者や職人の中でその態度が変容することがある。世間はこれをよしとしないが、この変容を起こすことこそ教育の最も根本的な原理であり、それをより社会的に価値あるもの=一般福祉として変容させることが教育の本質である。
 態度を変えることをよしとしない社会は反教育社会でありもう一つ上のレイヤーに属する。また、組織的な主義と社会的な主義など、別の評価もできるのだがそちらは僕の頭の中でまだ整理が付いていないため、別の機会に書きたい。

なぜ教育論争は不毛なのか―学力論争を超えて (中公新書ラクレ88)名門中学の作り方―未来志向の学校を選ぶ8つのポイント (学研新書)日本人のしつけは衰退したか―「教育する家族」のゆくえ (講談社現代新書 (1448))格差・秩序不安と教育教育 (思考のフロンティア)教育には何ができないか―教育神話の解体と再生の試み授業の腕をあげる法則 (教育新書 1)若い教師の成功術―「ちょっと先輩」からアドバイス新編 教えるということ (ちくま学芸文庫)世界一やさしい問題解決の授業―自分で考え、行動する力が身につく有田和正の授業力アップ入門―授業がうまくなる十二章 (若い教師に贈るこの一冊)TOSS流・初任者研修の進め方 (若い教師へのメッセージ)

*1:そういえば専門家も学問としての教育を語るときと子育てを語るときにまた主義が変わる事例もある。NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する: 教育を語ること

*2:ちなみに教育書の多くがコミット論(コミットはここでは責任を負う覚悟を持つこと)に終始し、「おまえらプロなんだから子どもらにちゃんと責任もてよ、プロだったらこれくらい知ってるよな?知らねえの?だから最近の教師は」という構造を持つ。あなたのペースで、とか書いてある本を読んだことがない。