perfumeのダンスはゲイカルチャーを許容するか

しばらく見ていないうちに2chのダンス板で面白い議論をし始めた。

142 名前:踊る名無しさん[sage] 投稿日:2009/06/18(木) 07:22:18
 MIKIKOJONTEをかなりパクってるよね
 GAMEでガニ股で体をストンと落とすところとか
 egdeで両腕を伸ばして前に突き出すところとか・・・
 Perfumeの掟ではJONTEの曲そのまま使ってるしねw

Creative Jenius Show - Jonte "J-Day" Escuelita
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【MIKIKO】Perfumeのダンス 3【ASH】

perfumeの振付師であるMIKIKO氏がbeyonceなどの振付で有名なJONTEをパクっているとかなんとか。影響くらい受けるだろ。それよりperfumeJONTEと来たかーってちょっと笑ってしまった。

JONTEと日本人のダンス消費

 ビヨンセの振付師として有名なJONTE、僕も詳しい経歴などは知らないが、本人もアーティスト活動をしているようだし、ビヨンセに「私が男子に生まれ変わったらJONTEになりたい」と言わしめた実力者である。

 僕は彼を一度生で見たことあるぐらいなのだが、しゃべったことはない。だが、あのショータイムは圧巻だった。金髪の女性用のかつらをかぶりもっこりレオタードを羽織り後ろを振り向くと背中が大きく開いておりお尻の割れ目が見えている。ダンスもやるし演技もするし歌うし放送禁止ワードを連呼するし、明らかにぶっ飛んでいるショーだった。日本人にはこういうアーティストはいないだろうな、とよく言われるが、実際にはたくさんこの手のアーティスト入るのだが、日本人メガネで見た場合、日本人が欧米異常にはじけたショーをしても受け入れられないから表に出てこないといった状態が本当のところだろう。
 日本の場合、ダンス消費者はパッケージ化した「欧米風」が大好きなので、欧米の流行の振付をいち早く取り入れた割にどこがダンスの始まりでどこが終わりかがわかる非常に「きっちりとしたダンス」を「黒いっスね(黒人っぽくていいですね)」と賞賛する。いや外国のダンス消費がどういうものかは実際のとこわからないのだが、少なくともメジャーに上がってくるダンスショーの構成を見ていても日本人はいい意味で律義だ。

ダンスは誰のものか

 一方でそんなもんだから日本のダンス消費者は非常に「パクり」を嫌う。パッケージとしてダンスを売っている以上それはコンテンツであって、著作期限の切れたステップ以外の特徴的な音取りや振付には著作権(既視感)が付きまとうのだ。
 ダンサーや擁護派の人間は「それはパクりじゃなくて、ダンスがジャンルとして成立しているから、そのジャンルを踊れば似るのも当然」という文脈を使う。ダンスの世界では、あるスタジオが有名ダンサーの振付を許可を取らずスタジオの発表会に使ったという話が噂として出回ったことがあった。
 この場合2つの問題をはらんでいる。一つは他人の振付でお金をもらっていいのかという問題。発表会の入場料は大抵バカ高いうえに出演ダンサーにノルマを強いる。その分出演者たちは自分たちでつくる文化祭のように非常に楽しい経験になるし、最近はそれなりに趣向を凝らし、質も高くなってきているためそれなりに見る人も楽しめる。
 もう一つは、文化の問題である。具体的には表現と人格の問題となる。振付を盗むことで振付師のダンサーの人格や利益を害しないか、「ダンスは自分らしさを表現する文化である」というイデオロギーも一方で強く、振りを盗むってお前にはアイデンティティがないのか、という問題、それからダンサーとしてはその振付をまねすることでリスペクトを示そうとした、という意識の問題など非常に他次元にわたる問題が語られる。
 何かを忘れている。追求すれば、ダンスは言葉や文章と著作権と同じ構造で語られる。日本語はみんな使うものなのに、なぜそれをならべた「文学」が権利を主張し守られるべき存在なのか。
 従来、その時代の新しい表現は弱者、もしくはマイノリティが行うものであり、大衆が消費するものであった。著作権や著作人格権(の一部)とは彼らマイノリティを守る制度であり、産業発展という視点を除けば彼らの居場所を確保するための制度と見て取れなくもない。文学から、音楽から、そしてダンスから、さまざまなムーブメントが起こり、大小さまざまな革命、市民権の獲得、平等化を加速させてきた。これらがすべてよい結果であったとは言わない。逆に大きな混乱が起きていることも歴史や文化に詳しい人ならわかるだろうし、それでもマイノリティが少しづつ居場所と主張と生活を確保できる権利、それが従来の著作権(という言葉を使うと混乱するので著作を守る権利)ではないだろうか。いつの間にか独占力とか権力というものを持つようになった既得権益だらけのメディア・コンテンツの世界にマイノリティという言葉を見出すのは少々ナンセンスなのかもしれないが。
 

ダンスに表れるジェンダー

 はるな愛なんかをテレビで見ていても僕は非常に切なくなる。トランスジェンダーの男性の方が女性の「女性性」を語れることは多いが、彼らは精神的には完ぺきな女性であっても身体は完ぺきな女性にはなれない。彼らは女性にあこがれ、それでも肉体的に女性になれないため、せめて振る舞いだけでも完ぺきな女性として振舞おうとするのだという話を聞いたことがある。それを表現するには高い技術と訓練が必要である。元DOSKABA.ちゃんなどもそれを体現した一人であろう。
 昔からトランスジェンダーは表現の中でのみ「異なる性別としての振る舞い」が認められていた。別にトランスジェンダーじゃなくてもいい、一般的にマイノリティと呼ばれる人たちは表現の中でのみ自分のアイデンティティを持てた。黒人のJAZZやスラムのHIPHOP文化なんかがいい例である。

 僕自身ダンスでユニセクシャルな振り付けを志していた時期もあって、JONTEは本当にすごい表現者だと思う。ドラァグクイーン、vogue、オールドスクールHIPHOP、見事なマイノリティ文化の調和と芸術性が見て取れる。技術の高さに裏付けされた表現はトップアーティストの振付からファッションに至るまで様々な表現に影響を与えている。それだけメインストリームに影響を与えているのだからperfumeコレオグラファーMIKIKO氏が間接的直接的に影響を受けているなという部分も当然見て取れる。
 僕がダンスを始めたころ、90年代のHIPHOPは日本ではまだまだ男性的な文化で、男性はダンスのファッション性を、女性はダンスで男性性を追求するというのが主流だった。女性的なダンス、たとえばGirls HIPHOPやCLUB JAZZなど、女性的な「ラインを見せる」ダンスは確かに多くの女性の間では主流であったが、ファッションモデルとしての素養や(アクターズ的な)芸能界志向として消費されるばかりで、多くが「女性としての武器」をリズムに合わせて羅列しただけで、「過剰な女性性」を求めるものではなかった。当時のそのルーツの多くはやはりマドンナの"vogue"であり、vogueもまたゲイカルチャーである。
 ゼロ年代に入ってからの、ブリトニースピアーズやビヨンセ、ジャネット、ファーギー、日本ではコウダクミ、島谷ひとみ谷村奈南ガルネク、西野奈菜など(スピードやMAXはアクターズ系に属するし安室なんかもTRF系列の別の系譜があったりするので割愛)過剰に「女性性」を強調するアーティストが出現し、女性とはこうである!という理想供給的なコンテンツ消費が行われた。だが、この裏で振り付けやプロデュースをしてきた多くは、いつの時代もセクシャルマイノリティの男性だった。歌手のバックダンサーで、女性とからんでいても、自信がバイセクシャルやゲイセクシャルであるダンサーも実は意外と多い。日本にいくつかある遊園地のパレードに出てくる王子様役のダンサーがセクシャルマイノリティであるという話もちらほら聞く。
 2001年のヘドウィグアンドアングリーインチ、PINK!やミッシーエリオットによるショーガールをモチーフとした歌でゲイカルチャー発祥であるドラァグクイーン文化が日本に紹介された。それに平行し、オネエマンズによりゲイをはじめとしたセクシャルマイノリティそのものが一般に許容されるようになった。舞台の世界だけであったドラァグクイーンの世界がいまは安室奈美恵のシャンプーのCMなどでゴールデンのお茶の間に流れている。
 マイノリティ文化のきゃずむと言おうか、排他・ゾーニングされてきた文化もある一定の認知度を超えると、あこがれの対象と化する。ゲイカルチャーは今や女性たちから圧倒的な支持を得るものとなった。余談だがキャズムとは普及の障害となる崖のことで16.5%を超えるのが難しいらしいので、EXILEも17人を超えれば一般的男性にもあこがれの存在として認知されるのではないか。
 
 表現の飽和・限界という視点も考えられる。歌で言えば、「女性性」を求めようとしても「恋愛依存」でしか女性性を語れない。若い女性特有の孤独感や根拠なき万能感を歌にする加藤ミリヤを除いて、多くの女性アーティストが「女性的表現の飽和」まで到達し、身体表現やファッションとしての「過剰な女性性」を求めだし、その結果、男性発のマイノリティ文化にたどりついた。
 
 マイノリティ文化の文脈でいえば、(電子楽器を起源とする)テクノミュージックもマイノリティ文化、クラブカルチャーとしてあったわけで、ネットの文化もまだまだ世間にはマイノリティ(それでいてらウドマイノリティ)であり、それらの系譜のキメラとしてperfume初音ミクは存在する。マイノリティ文化がメジャーな文化に台頭・隆盛した象徴としてのperfume崇拝という側面はやはりあるのかもしれない。そしてその表現の裏に、特に、女性が不自然なほどに過剰な女性性を求めるのは、いつの時代も「女性より女性らしい男性」が裏にいたからに他ならないのかもしれない。それらは当然悲劇的な文脈から発生・派生してきたわけだが、その部分はつねに表舞台では語られないものである。

※本文中にセクシャルマイノリティという言葉をなるべく使うようにしましたが、性のあり方も多様化して複雑なためLGBTなどを切り分けず混在させた表現を取ることとなってしまいました。不快を感じた方がおられたら申し訳ありません。