理系社会化とその弊害

 ここ数週間で、寛容さのない社会とか、若者の恋愛観とかいろいろ考えてたのだが、結局理系社会化してるんじゃないかという自分の中での仮説にたどりついた。

理系/文系

 理系文系の進路と学問領域という人間性以外のくくりを外せばそこに残るのは態度の差。理系文系の違いというのはスタンスの違いなんじゃないかと考えるようになってきた。
理系の人は一つの真理を求める、
文系の人は多様な心理を求める傾向にあると思う。
 本記事では何事においても理系=一つの正しさ(理)を求める人、文系=多様な文化(思想・心理)を求める人と読み替えてもらってよい。
 そういう場とスタンスの切り分けがごちゃまぜになっているため、大学文系学部の理系な研究者、理系な文系学生などが存在する事をうまく説明できなかった。ちなみに理系の場に文系の奴がいることを嫌うのは理系だ。

 先日、同じ世代の数学の先生と国語の先生と飲む機会があったのだが、彼らは急に言い争いをしだした。
 数学の先生は「僕は幾何のプロとして本当に数学をやりたい子どもたちに貢献したい。本当に自分を必要としてくれなければ学校を去ってもいい。僕は自分の中で純粋な学問は哲学と数学だけだと思っている。」
 国語の先生は「それは違う、子どもたちは教師から大人からの承認を求めている。あなたも承認不足なのではないか。そしてあなたの考えは強者の理論だ。でも、私はあなたを嫌いじゃない」
と要約するとそんな感じ。
 僕は基本的に関係調整要員なので、「数学の先生のその仕事観はアーティストみたいですね。一つの真理自分の中で絶対的に正しい価値観とそれに付随する自分のパラメータで勝負しようとする。その自分なりの真実が正しければ勝ち、地位とか関係ないみたいな。国語の先生は基本的に多様性を求めていて、お互い求めるものが違うので違うレイヤーでの議論になってますよ。」
 と笑い話に変えてきた。飲み会のムードはどちらかというと明るく、皆焼酎を飲みすぎて(僕も含め)その日はいつ寝たか覚えてないと言っていたのでお酒もそれなりに入って、少し本音トークだった頃の話ではないだろうか。

理系の恋愛論

 もうひとつ僕の大学の頃の話をしたい。教育実習で、隣のクラスを担当していたB君のエピソード。彼とは疎遠になってしまい今何をしているのかは知らない。

 彼は教育実習で、教材も用意しないし黒板としゃべりだけで算数の授業をこなそうとする典型的な学者肌の理系男子だった。子どもたちはB先生の授業が面白くないと不満を漏らしていた。
 実習最終日、彼は最後に担任の先生から、子どもたちに話をする機会をもらった。

 そこであろうことかB君は「このクラスに先生の初恋の人に似てる人がいます」と発言。何かいいことやためになる経験を話せばいいのに、何の教訓も見て取れない自分語りをしだしたことに子どもたちはどん引き。担任の先生が空気を立て直そうと思って「おっ、いいぞいいぞー」とはやし立てる。そこで笑い話ですませておけばいいものの、何を考えたのかB君「それは○○さんです!!」とご指名。その子は泣きだす始末。もう一人の実習生がなんとか別の笑い話でクラスの雰囲気を和ませて教育実習を終えたという。

 実習が終わってある日の大学食堂で彼を見つけたため、たまたまいたともに実習期間を過ごした友人数人で集まってご飯を食べることとなった。彼にその時のことを聞いてみたら
「僕の中で、好きになったら伝えないといけない義務があると思っている」
 何が正しいかは別として、彼の正しさを追求する行動力に少し感心したのを覚えている。僕は
「相手が告白して喜ぶかが大事。それは恋愛の名を借りた暴力だろう」
 とコメントして笑っておいた。

しかし、高校生くらいの頃は誰だって好きになったら告白しなければという焦燥感に駆られる。彼の恋愛はそれとはまた違う、彼なりの信念が醸成されており、それに従ったものである。「草食系男子」なんかも理系的恋愛なのかもしれない。最終的には一人の自分の愛する人と付き合いたいが、それまでは恋愛にかかるコストを下げたいし無難に生活したい。一つの真理と自分のパラメータで勝負しようとして、パラメータに自信が持てない人は非モテと自称する。一方で「肉食系女子」が増えてきたという話も聞く。これも多様性を求める女性が顕在化してきたにすぎない。男性が女性化し女性が男性化した、というと非常にあいまい。今まで男性的/女性的だと思われていた恋愛論・恋愛観が実は価値観の多様化により理系的/文系的にシフトしているんじゃないかと考えている。

大学と教育現場

 僕の教育の世界の話をすると、大学と教育現場のディスコネクション、すなわち大学でいくら研究しても学校現場が受け入れてくれないとか学校現場がいくら優れた実践をしても大学が受け入れないとか言われて久しいのだが、これも場におけるスタンスが文系的か理系的かの違いが原因じゃないだろうか。
 現場では多様な子どもたちがいて、毎日技術のある教師が弾力的に子どもたちに情報の伝達、対話、役割を与えるなど教育的指導が行われている。何を発言したかとか何をどう展開したかというノウハウは教師そのもの(もしくは教師の記憶の中)に蓄積され、実践される。
 一方大学では学問的に何が正しく、社会的に何が求められているのかをデータからシミュレーションし、ある一つの問題と答えを仮定として導き出しそれを解決・検証するのが研究の主だった手法である。
 現場にも理系な先生・文系な先生がいるのだが、やはり子どもたちの多様性を認めるというのは前提であったほうがよいし、また学問は真理追求で、生活は多様でいいじゃないか、という切り分けができない人も不思議と多い。大学以外の学校は学問するところではなく生活するところだというのが、一般的に生徒も教師も共有している意識でありそこに大学は学問を追求せよと迫ってくる。それはディスコネクションも起きるだろうな。と思う一方で、多様性を求める研究者の「ぬるさ」のような声も学者側から指定される場合もある。
 その場にそういうスタンスの人が多いというより、その場がそういうスタンスを醸成(ある意味で教育)するといってもよい。研究現場ではスタンスが普遍性を求めるものであったほうが都合がよいし、学校現場ではスタンスが多様性を求めるものであったほうが都合がよい。

理系社会化

 結局メディア技術やらなんやらでアティチュード(態度)の問題が可視化できるようになったのが良くも悪くも問題なのかなと思う。
世の中にはいろんな人がいる、いろんな人がいるけども人間的に普遍的なものがあると考えている人はたくさんいて、その普遍的なものは一つに収束すると考えている理系な人々が増えている。いや昔からそうなのかもしれない。「文系は理系教科のできないバカがいくところ」「理系は頭デッカチでモテない」僕が高校・大学にいたころからひたすらそれは言われていたし、そういう風潮があるのではないか。同じ大学内でも文系(人文学部教育学部)の学生が自嘲気味に「お前ら賢いな!」と理系学生(工学部・医学部)に話しかける場面もよく見た。
 2chでもブログでも何を守りたいかよくわからない「あなたのこれ間違ってますよ」指摘も、実は正しさを求める理系だからこそ行う行為なのではないだろうか。
 マスコミが思っている以上に現場の教師は優秀だ。世論がマナーを守らせろ!というなら"一般的な"迷惑行為をするなと教師たちは様々な教育技術を駆使して従わせる(もちろん限界はある)。
 「一般的な迷惑をかけない」ことが正しいと刷り込みを入れられた子どもたちが大人になっていき、「正しさを追求できない人間は教育が足りない!」と理系思考に偏っていく。本当は「迷惑」が何かを考えなければならないのだが、彼ら理系にとって「迷惑をかけること」=正しくないことをしないことが正しい。寛容さがないのは僕は気持ち悪いのだが、これを実社会で活躍されている官僚とか会社の偉い人なんかが、なにも疑わずそれを口にする。
 皆世間がお利口さん=理系≒教条的になりすぎていることに気付いていないだけなのではないだろうか。昔から理系の人間はいた。文系:理系の旧来のバランスが崩れ少し理系多めにシフトしている。僕の中でこれは「科学技術立国の弊害」などと呼んでいるのだが、文系の課題はそういう人も多様性の一つとして受け入れる力が必要だなオイ、といったところか。政治も非常に理系化傾向だ。一方で理系になりきれず自分の行動が理にかなっていないからと自虐的になる人間も多い。自分がどのスタンスを選びどういう態度として表すかは少し考えようだ。
 こうした視点で理系的/文系的で世の中を切り分けてみると、あなたの隣の人の思想がどんなものかがわかるのかもしれない。そして「考え方が多様じゃないのはおかしいから考え方を多様にすべきだ!」という発想も実は理系の発想だったりするのだ。

あとがき

人前で恋愛観を語るのは、ある意味人前でセックスするより恥ずかしい。

6/30追記

B君のエピソードを書きなおしました。
こちらの記事が人気のようなので嫉妬からリンクしておきます。
兄に教えてもらった、文系と理系のたったひとつの違い - 弁護士兼務取締役の独り言