自虐的技術観・環境観の話

先日上司と今の日本人に自虐的な環境観の話をして盛り上がった。ホント20分くらいだったけど濃い話ができたので、了解はもらってないけどまとめておきたい。

「自虐的技術史」

まずはじめに最近感じることとして日本全体に「自虐的歴史観」のような形で自虐的技術史が存在することを切りだした。

僕:日本全体に自虐的技術史みたいな空気がないか。自分たちが作ってきたものが地球をここまで悪い状況に追いやった(それはたぶん宗教的なものや終末論にも結びつく)。だから特に自分が悪いわけでもないのに環境を良くしようとか言う声が強い気がしている。もともと小学校から学校でそういう授業しか受けてこないし自分たちが悪いわけでもないのに先人たちが汚してきた地球をなぜ自分がきれいにしなければならない(贖罪の様な)義務が有るのか疑問を持たないというのが不思議。ドラえもんでのびたのお父さんが「僕が子どものころは川がきれいだった」と言っていたが今の父親世代は一番日本が汚れていた世代だったという話をラジオで聞いて思った。

上司:若者の自己肯定観の無さや自虐性みたいなのは感じる。というより団塊の世代の自己肯定観の強さというか自分は間違っていないというある種の頑固さもすごい。僕も若い人から見たらそちら側かもしれない。環境にいいことをしたいという人たちには行動主義な傾向がある。どう環境によいかより何をしたらいいかが彼らは大事。技術を教える人間は「何が環境によいか」でなく「環境にいいとは何か」を認識レベルで教えなければならない。手回し発電機一台を1分回してできる電気は微量。蛍光灯1本をつけるのに200人が回さなければできない。エネルギーを手で認知する経験は重要。そうして初めてエネルギーの無駄がわかる。

僕:そう、環境にいいことをしないといけないという焦燥感のようなものがある。そして環境にいいことをしたことで安心感を得る。しかし実際に環境にいいわけではない。学校で教える3R(reduce,reuse,recycle)にしても僕はreduceしか認めないという立場。それを伝えてきた。reuseはフロンガスを出すようなクーラーやエネルギー消費効率の悪い家電を長く使い続けても逆効果だし、リサイクルにおいては再生産エネルギーのほうが高くついたり再生産の需要がない場合もある。

環境に良いことという短絡的思考

上司:確かにそのとおり。入学したての中学生に「なぜ技術を学ぶのか」と聞かれたとき「例えば環境問題を考えるときどうやって環境にいいこととはなにかを学ぶのか、技術でしか学べない」と答えた時「我が家はプリウスに乗っている」とにこやかな顔で答えられた。単純に環境にいい技術を使えば環境にいいという考えはある。


僕:短絡的な思考と、あとは同調圧力のようなものがあるのではないか。京都議定書を批准した国でまじめにやっているのは日本とヨーロッパ数カ国。アメリカやロシアのような大国は無視していると捉えられる空気すらある。というより日本が騒ぎすぎという気持ち悪さを感じる。僕らの受けてきた教育は資源を少なく使えとか技術が悲劇を起こしてきたから僕らはもっと自粛しろ、使うなと言う教育ばかりだった。本当に環境にいいことを求めるのであれば昔の生活水準に戻る必要がある。


上司:技術に対して自虐的にでも学ぼうとしてくれたらいい。例えばケータイを分解させた時、「このケータイの中にこれだけの部品が入っているとは思わなかった!」という感想が多い。表示部、アンテナ受信部、送信部、中央処理部、etc...すべてモジュール化してあって、それはわかるけど、中央処理装置がダイオードとか(記憶があいまい)を何百個も組み合わせたなんて意識はない。何万個の部品が使われていて、ケータイひとつつくるのにCo2が58Kgだったかな?空気としてCO2の重さを認識する機会なんてまずない。小学校で空気の重さをはかる実践があるくらい。だいたい容積で言うと体育館一個分。ケータイ一台で体育館ひとつのCO2が排出される計算。だからと言ってケータイを使うな、買うな、機種変更するなと言っても実行しないだろう。(ちなみに上司はいまだに2色画面のPHSを使用)

Googleは悪か

僕:結局昔から技術と環境についてはそういった歴史の繰り返し。新しい技術が起きた、悲劇が起きた、だから規制しようといった議論ばかりが強まる(活版印刷著作権が生まれたり、ダイナマイトは鉱山での採掘時の死者を減らすために作られたのに結果として戦争に使われノーベルは非難を浴びたり)。結果何も進展しない。昨今のケータイ議論もインターネット規制の話もそうではないか。しかも政策レベルで反映される。技術立国を進める一方で既存の技術や新しい技術については害として排他しようとする姿勢をどうにかしたい。技術が悪いのでなくそれを扱う人が悪いという側面の方が強い気がしている。

上司:しかし僕はそちらのインターネットが悪だという側。世代による古い考えと言われても仕方ないかもしれない。しかし、技術者が規制も何もしていない技術に対して法的規制が何もかけられていないというのもおかしい。Googleなんかがそうだ。すべての情報をキャッシュするというのは支配的な考え方。古い本や手に入らない本を公開しようと言って結局手に入る本まで公開されていたりする。大阪に別分野でそういう会社があったがそれはローカルで規模が違う。そうやって暴力とか性的な情報に子供が(フィルターなしで)晒される社会が健全だと思えない部分もある。

僕:たしかに手に入りにくい本を公開するというのは理念としてはよいものの、現実をみるといろんなデメリットがある。僕は技術は増幅器という考え。悪意(例えばストレスや悪口を言いたい欲求)があってインターネットを手に入れて初めて悪意が増幅されてアウトプットされてしまう。車もそうで悪意のない人はスピード違反しない。ヤフーなんかは自主規制をしているがGoogleは逆行している。使い分け方は自然に身に付くものじゃない。

環境問題は理数教育だけでは解決できない

上司:家族内での規制も無理になってきた。四六時中監視するのもおかしな話。環境の話に戻る。結局理数教育を進展しましょうとか理科や数学の教育だけでは環境問題を解決できない。あれは評価の仕方を学ぶ教科でしかない。フィールドワークで河がどれだけ汚れてますねと知ったところできれいになる使い方をしましょうという結論はスローガンでしかない。生産現場までフィードバックしないと本当の環境実践なんかの効果は得られない。もしくは学校で植物を植えたところで変わらない(場合が多い)という現実もある。

僕:聞いた話だと会社側が社内研修で技術的なことを教えるから学校教育側は余計なことはするなという圧力があるという話もある。確かに会社側で研修でノウハウを伝えていく方が洗脳しやすいし都合の悪い情報を与えなくて済む。技術教育が3年しかないのは日本だけ。環境をよくするために「車に乗るな」ではなく「環境にいい車に乗る」と教えることが本当に妥当か。結局企業の利益になるだけ。都合のいい教育だし、技術の先生以外が伝えることができるとは思えない。

上司:僕が知っているのは大学側に理科ですら間違った概念を教えられると困るから数学だけしか教えないでいいという人がいるという話を聞いた。技術はもっと上の概念だから教えなくていいという立場もあるのだとおもう。生産についての視点を知らなければ(技術者倫理だけでは限界があるため)環境を変えようがない。政府が本気で解決したいと思うのなら「18歳未満インターネット禁止、25歳未満は車に乗るな」って法律で決めるしかない。それができないのであれば技術を週5時間に増やすしかない。現在の理科の教員には教えることはできない。

まとめ

結局同調圧力とか自虐性(承認不足)とかいろんな要素が技術に対する目に反映されているんだと思う。この世界に正解はないので少なくとも"妥当な"、望むらくは"最適な"技術の使い方を追究する姿勢という部分に目を向けていきたい。自虐的技術観の払拭はこの先の課題かもしれない。と言っても問題意識なしに技術を使うようにしたいという意味ではない。

他にも電気の概念をどう伝えるかとか"職人"は工芸や生産の世界では尊敬の対象であるものの電機や機械の世界での職人は尊敬されない、エンジニアや科学者という認識だという話もしたが割愛させていただきたい。本当に短い時間だったが楽しかった。僕らはお互いに偏った部分がある中での会話かもしれないが、技術の先生や教育の世界での認識が上司位になればよいのにと本気で感じた。