カルト宗教化する教育・啓蒙

mixiの教育系コミュがキモい

 mixiで教員系とか教育系のコミュニティに入ってる。毎日情熱あふれる書き込みでにぎわっているのだが、ホント数か月周期くらいで必ず「何で勉強するの?」的な話題が上がってくる。「生徒になぜ勉強するのか聞かれましたー」とか「自分の教育観を見直したいんで」とか「生徒にどんな力をつけるべきなのでしょう」とか。

 この手の話題は教員もしくは教職志望者にとって道徳性を発露し意見をもらえる貴重な場であることや、教員の特性としてわからなくて困ってる人をほおっておけないなどの習性からか、かなり多くのコメントが付く。
この中に必ずと言っていいほどつくコメントがある。

「答えがわからないから勉強するんだよ」
「人生を豊かにするためだよ」
「楽しさとか、達成感を感じるためだよ」

ここ数年、これらのコメントがキモくてしょうがなかった。

ここに書き込みを行う人の大半が教職関係者か保護者。
もちろん教育に情熱を持っていることは大事だ。

それでも"評価できないこと"、特に客観的に評価しようがないことを書き込むのはどうなんだろうとか思ってたわけよ。でも教育技術がない時代は誰でも通る道だからしょうがないのかなとか思ってきた。

模範解答

 前提としてここでの教育とか学習とか勉強って言うのは学校教育のことを指す。
ちなみに模範的かどうかはわからないが、教育基本法では「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」と書いてある。
国家(つまり国会・裁判所・内閣)って機関を平和で民主的な機関として機能させる人を育てようと。
もっと前提として"社会の一員"として寄与することが前提で、だから社会性を身につけさせようっておおざっぱに読める。

ここの解釈が100も200もあるのは承知。だって最大公約数だから法律になってるはずなんだもん。重要なのはそこじゃない。
少なくとも模範的には学校での勉強は個人より社会のためだ。個人を高めるのは社会のためだ。ということになる。
「そのために学校教員は社会を評価する視点と問題意識を与えるべき。」と言うのが僕個人の意見。違うんじゃない?お前の教育観幼いな!って意見も歓迎だ。
 ただ決して個人が将来楽をするために勉強をするのではない。極端な例外は多々あっても勉強をすればするほど時間的に忙しくなるのが日本の社会のシステムだ。認識的に楽だとか充実だとかを感じるのはいくらでも可能だが。

 余談だが、僕は教え子たちが自分を取り巻くコミュニティや社会に寄与するつもりがないのなら「さっさと金を稼いで東南アジアでも行って誰にも干渉されず一生を送ればいい」と皮肉をこめて教え子たちに諭している。

 「どういうことか」と聞かれたらもっと詳細に「300万持って東南アジアで学校をつくれ。それくらい本気になればさっさと稼げる。現地では学校をつくってくれたってだけで神様扱いだし、物価も安いから当分働かなくても生きていける。逆に言うとそれだけ過酷な国がまだあるのよ。100円で売られてるバナナの99円が輸送費で、労働賃金が1円で、それを収穫してるのはお前らと同じくらいの年の子供たちで、バナナ1個売れてもその子らの取り分なんて1円以下なのよ?ただ燃料で地球汚しながらタンカーやら国内のトラックやら運転してる連中が9割取って行くわけよ。どうなの?俺はそういうシステムを変えるために勉強してほしい」的な話をする。極端に単純化してるからある意味釣りだ。聞いてくる連中は勉強するための口実がほしいだけな場合が多いからこれでいい。もちろん言葉や伝えるタイミングは選ぶけどね。

 トピックの中にも僕と同様の答えはたくさん見られた。この答えよりもっと優れた答えなんていくらでも見られた。「世の中とあなたのためだよ」と当たり障りのないものから、語られるもの。体験から、具体例から、各教科の特性と重要概念から語られるもの。勉強になる。ちなみにコミュの玉石混交な意見を読むより「16歳の教科書」一冊読めば事足りるよ。

だから「勉強や学習の努力が個人にとって報われるものでなければならない」という意見がキモいと感じるのかと思っていた。
でもどうやら違うらしい。

カルト宗教化する教育

これらの違和感、キモさの原因に今朝気づいた。

勉強や教育という言葉を「(宗教への)入信」と読み替えても話が通じる意見だからこそキモいのだ。

宗教が悪いと言っているのではない、僕の中のステレオタイプなカルト宗教の言っていることと変わらないことに非常に違和感を感じていると言っているのだ。この記事では何がカルトの定義かより、それがネガティブな評価の宗教団体として認識されていればそれらをまとめてカルト宗教と呼ばせていただく。

  • 「勉強すると人生が豊かになる」
  • 「入信すると人生が豊かになる」
  • 「答えがわからないから勉強するんだよ」
  • 「答えがわからないから入信するんだよ」
  • 「勉強は楽しさとか、達成感を感じるためだよ」
  • 「入信は楽しさとか、達成感を感じるためだよ」

怒られないことが正しい

 「人の中で生きていく以上学校で教えられたルールに則るべきだ」、ルール至上主義的なのことを教条主義と呼ぶ。これは僕が人生で最も嫌っているものの一つだ。すべてのルールをいったん振り返って自分なりに考えて正しいからしたがっているのなら文句は言わない。「学校において制服は乱れなく着るべき」「電車の中では通話は控えるべき」など、明確な基準がない慣例的なルールに対し、ただ従うべきだと彼らは主張する。個人の生産性向上と社会の生産性低下などのジレンマを超えての妥協点としてのルールを重視するのであれば構わない。教条主義は書いて字の如く教えられてそのまま従う人の事だ。教条主義はロボットと変わらない。いまどきプログラムだって確認・検証することができる時代なのだ。だが道徳教育を充実しろと言う主張はこの教条主義を主張しているに他ならないという見方もできる。

 学校教育の手法を追及していくとどうやら教員の技術と言うのはどうやら非常に高水準らしい。80年代のバブル崩壊までは受け継がれてきた教育手法で学校を卒業したとき、道徳性とやらを身につけた気にさせてきたのだ。この手法、ぶっちゃけ洗脳技術だと思っている。洗脳技術ってのは強い衝撃を与えてトランス状態にして正常な判断力を失わせ何が正しいかを刷り込む一連の手法のことを指す。例えば一番シンプルだが聞くのが「飴と鞭」というやつだ。いいことはほめ、悪いことは叱る。職人と呼ばれる教師たちのこのタイミングを読む技術はすごい。ほれぼれする。演技だとわかっていても当事者でない者まで一喜一憂してしまう。これらの手法が「怒られないことが正しい」という洗脳的価値観を蔓延させてきた。一概には言えないが。

学校教育は洗脳?

 と言うわけで職人レベルの教師はほぼ洗脳のメソッドを利用して子供たちを育てる。洗脳自体立派な手法だし、目的しだいでは効果の高い方法として、重宝されるし、基本的に教師って仕事をしてる人で正義感から教育をしていない人を見たことがない。もちろん絶対的な正義ってのはなくて、個人個人が思ってる正しいことがモチベーションとなってる。時々大きく外れた正義感の持ち主も見かけるが。かれらによる"極端な害のない洗脳"を教育と呼ぶのではないか。少なくとも一般的なイメージや認識はそうなのではないか。

 TOSS(教育法則化運動)とかもすごい。今朝久々に本を読み返してみたが、ポイントがわかっていなくてもできる実践、子供にとっても成功率の高い実践を共有する団体だ。

 よくよく考えると学校教育自体が洗脳的なのだ。はてな社会学的にいうと世間の消失とか大きな物語の崩壊とかで、徐々に社会の規範の力が緩くなり、僕みたいな教条的であることに批判的な人間が増えてくる。
 TOSSなんかは「水からの伝言」を普及させようとしてしまったことで批判の対象になったが、核心的にはもっと別のところ、そう、カルト宗教から脱した者がその宗教をバッシングすることに共通するような何かがあったんじゃないかと思うのだ。

 日教組も同様だ。いまや活動も穏健慎重になり加入率も低下し影響力も少なくなってしまったにもかかわらず彼らの教えが日本を変な方向に変えた、とマスコミの煽る姿は、カルト宗教バッシングの様相を呈している。

 ただし学校は寄付を募ったりしないしテロを行ったりもしない(はず)。飴と鞭に始まる学校の教育手法を無差別に批判しているわけではない。何度も言うが僕はこれらの手法を使いこなす職人のような教師たちを尊敬しているし、教員の質の低下と言われているがほとんどの教員は人柄も教育技術も信頼に値すると思っている。教育現場の問題性はそれらの能力や技術を思う存分発揮できない環境、関係性の問題だと思っている。

自己啓発Lifehack啓蒙と言う別宗派

 自己啓発やちょっとした○○術エントリでホテントリ入りした記事に必ずと言っていいほどつく「この手のライフハックや人生指南ってなんなの?」と言うコメント。一般的にはネガティブナコメントかもしれないが、これもそういう前述の観点から考えると「熱狂的信者キモい」をうまく言語化できないだけなのだろう。

宗教の存在やその教義、すなわち自己啓発ライフハックの存在やその技術を否定するつもりはない。ただそれを称賛する行為がどうも非常に宗教的に、そして教条的に映るのだろう。

教条的に「よい子」に育ってきた人たちほどその傾向は強い。ゆとり教育批判は教条的教育肯定ともとれる。教条批判派に見えてもその根は教条的であったりする。そういう自分も含めた教条的な態度を否定するのは非常に疲れるのだ。トレードオフとか最適化とか、ルールを作る教育の実践は少ない。

教育万能神話

日本の伝統的教育は現段階では非常に大きな宗教だ。言いきろう。無意識・無自覚のうちに教育と言う活動は人々の中に絶対化され、一部の脱信者、自分で学ぶことを選択した者たちから批判のマトとなる。そんな構造が見て取れる。

内藤朝雄氏はこの宗教化された学校の概念に対していじめや少年犯罪の視点から結構辛らつな意見を書いている。
http://d.hatena.ne.jp/izime/20070324/p2

「成獣」初期に、このような閉鎖空間で義務教育された人間は、市民的空間で自己決定権の行使を通じて自己形成してきた人間よりも、恨みや憎悪に満ちてくるのは当然です。快楽的「いたぶり」にふける者が増加し、一部が快楽殺人に走ったとしても、驚くことではありません。

むしろ現在のような学校教育にもかかわらず、殺人や自殺がたったこれだけの人数で済んでいる方が不思議です。

この事件が、「子ども」「学校」「教育」といった宗教から人々を解放する動きのきっかけになれば、と思います。私は、第二次性徴から18歳ぐらいまでの人間を、「こども」ではなく「若葉マークの市民」として扱うことを提案します。

これは何度も言ったとおりこの程度で済んでいるのは、質の高い教員が一定数いることによるものだ。

「教育は万能の神である。だって僕らの一番大切な時期の大半の時間は学校で過ごすものなんだもの。教育は充実しているべきだ。学校の教育があって今の僕があるんだもの。若いうちには可能性があるんだもの。先生たちが僕の可能性をきちんと鍛えてくれていたら今頃僕は…」

本当にそうだろうか?学校を宗教バッシングする連中の行為の裏にこのようなメッセージが隠れているのではないかと邪推してみたりもする。

個人的な体験で申し訳ないが大学で勉強していたとき、「体育は辛くて苦手でもいい、つらい体験を乗り越えたことを糧に人生を楽しめるようになるから。」みたいなことを語ってた友人がいた。でも学校の授業で苦労したから嫌だったからって、僕の人生や思考パターンに特に影響しているとは思えない。どこで学校教育を神聖視する風潮が生まれるのだろう。香山リカのいう精神病理的ななにかなのだろうか。

 教育は問題解決の手法としては、現段階ではあまりにも弱体化している。世間的なコミットメントやイメージ、予算、労働力、時間、足りないものが多すぎる。その点問題解決の場面になると過大評価されるという側面もある。
その点教育社会学広田照幸先生が書いた本は、学校で道徳性なんて育成できないよって書いた良著。まだ読んでないけど。

 これからもカルト宗教的な教育を受けてきて、カルト宗教的な発言をする教員志望者は再生産されるだろうし、別にそれを責めるつもりもない。これだけ情報量の多い時代に生きていればいつか本質に気づくだろうし成長すればいい。教員採用試験においては教育原理を学ぶしそれを追及するとなぜ教育が現代の形なのかが見えてくる。
 それより問題は教育に対して宗教に対してかのような依存と不信という状況が見て取れることだ。

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