イケダハヤト問題のイライラの原因がわかったので師を囲む周りの大人をぶん殴りたい

やまもといちろう氏とイケダハヤト師の対談イベントがあったらしく、ログを読んでみたけど行かなくてよかったと言うほか言うことがない。
ひとまず夏の薄い本でのCPには期待する。ブロガーBLが出来たらブログはキャズムを越えたという指標になろう。
やまもといちろう×イケダハヤト
やまもといちろう ×イケダハヤトの「ブログ論争」対談書き起こし - NAVER まとめ
【更新】「やまもといちろう×イケダハヤト対談イベント」メモ書きレポート #ブログ論争 - カイ士伝
やまもといちろう氏対イケダハヤト師観戦記 最低で最強だったイケダ師 – アゴラ
 個人的に、イケダハヤト師について、いろんな人がブログで取り上げて訳の分からないことを言っているからむかつくとか一貫性がないからむかつくとか言うけどそんな言葉ではまったくもって的確に表せないのでずーっともやもやしていたのである。
対談の内容を見てよくわかった。個別の話として、師に絡んでノマド労働問題とか、若者の意識問題についてはよく語って来た。
 ココ数年、アンテナは広いけど、それを分析する指標がポエムだったり、実績よりセルフブランディング先行だったり、本を紹介する割にその根底の思想とか詳細に触れずモチベーションを刺激する言葉だけ抜き取って本と正反対の話をしたりするものばかりだけれど若者のブログは増えて来たし沢山見て来た。
特段アンテナが広く、若手起業家界隈に顔が利いたのがイケダハヤト師だった。
皆が言う通り特段新しい思想なわけでもない、オピニオンリーダー風に振る舞っているけれど特に論壇に登れるほどロジカルでもない。ただ、ノマドのようなフリーランスの労働スタイルのブランディングには成功した。
僕のところに相談に来る学生なんかもイケダハヤト師はなんなんですか?と言われるが、この炎上劇は別にアンチが事務所やクライアントに電凸したり実害が出るような炎上でない以上ただのプロレスだから楽しむべきだと言うことを伝えて来た。
それから彼自身の発言から、「エッジのきいた俺でも受け入れてくれる社会が欲しい」と言いながら「社会が俺を理解してくれないのは、俺はエッジがきいた情報発信をし続けてるからだ」みたいな演出をし続けなければならない病気に自らかかってる思春期な傾向が読み取れる。
切り込み隊長に認められてみせた反応のように大きな承認があると微妙に態度を軟化させるし、一方でそれだけで彼が書くのをやめる訳ではないだろう。ブログが支持されるというのは支持者の思っていることを代弁しているに他ならないからだ。
現にイケダハヤト師を批判している学生もよくよく意見を聞いてみれば彼と同じような思考をしていることが多い。結果、スタイルを変えず情報発信を続けるし、誰かが批判するし、それにより彼は飛び出てる杭という自覚を強くするというループにはまる。父親に認めてもらえない反抗期の子どものように。僕はこれを「遅れて来た反抗期」として観察を続けている。
元をたどると彼がイライラするキーワードは再現性である。チラ裏か戦場かどうか、正義か悪かどうか、寛容的か排他的かどうか、自己主張かどうかなど、人格や矜持の話関係なしに、一連の問題は発言の再現性の問題だろう。皆が記事を書くためにある程度再現性を考えて書こうとするのに対し彼は自分がその場で思ったフラッシュなアイデアを実験だと言いながら書き散らす。だからみんなブクマで再現性が低い、って一言書き込めばいい。
具体的な方法の話をしよう。
再現性をふまえて問題解決を語るのなら、本来解決を目指すべき問題の所在は3つのレイヤーがある。
1,価値判断や心持ちの問題
2.個人のスキルセットやテクノロジーの問題
3,社会構造の問題
これらを3から1へ往復して語らなければいけないはずの問題であるが、意識の高い学生含め多くが1から2を素通りして3へ飛ばしてしまうのだ。彼らの中で社会構造は意識の総体という認識であり常に連動しているらしい。だいたいスキルセットを語らないマインド変えろ系の自己啓発も同じような書き方がされる。
「努力は実を結ぶ」「覚悟ある自己表現が人を動かす」とか、「楽しい活動が教育を変える」とか、「嘘のない新しいサービスが福祉システムを変える」とか。そんないい風に紹介されても、現実はいす取りゲームなのでどんなに楽しくても努力しても誠実でも誰かがワリを食らう。誰しもがその方法に準じれる訳ではない。
そして共感を求めるクラスタがよく勘違いしているが、感情や価値判断ほど再現性が低いものはない。だが感情や価値判断が必ず付加され、インセンティブとなりキャズムを越え、みなレミングのように同じ方向に流れると(そしてそれが円満解決の方向だと)思っている。
もっというとこれらの価値判断を含む言葉と言うのはバーナム効果やコールドリーディング等の技として、占い師やカウンセラー、ナンパ、キャバ、宗教等でフックとして使われる常套手段だ。
もしくはスキルがなくてもテクノロジーがあれば何とかなるでしょうという楽天的な記事は昔から叩かれて来た。完全なる進歩主義の議論であり、テクノロジーは人を自由にすると同時に人を支配する。もしくは日本のwebは残念、なんて発言も飛び出す。
そう言った進歩主義な人達のフォロワーは、たいてい主語が大きかったり結論が大きかったりする。なにかことがあっては日本人が、世界が。怠惰か勤勉か、誠意か失礼か、自由か責任か、生きるべきか死ぬべきか。そんなことを問うては病んでいく若者にとって、アンテナが広く断定的な文章が特徴的なイケダハヤト師はよくも悪くも特異な存在に映る。
そうして注目の数がキャズムを越え、ブロガー達の目に触れ、今度はその記事を読んだ人たちがあまりに再現性が低いため困惑するのだけれど、どう突っ込んでいいかわからない。
それでも突っ込もうとし落としどころとしてスキルセットへの言及が足りないでしょおかしいでしょという話になり「なにいってんのこいつ」状態になり会話はすれ違いになっていく。それこそボランティアしてる人にもっと「国家資格取らないと質が担保できないよ!」とか学生運動してる人に「ちゃんと投票行かないとなにもかわらないよ」とか、そういう類いのすれ違いレベルなのである。だんだんのれんに腕押し感が面白くなって来て、突っ込み大喜利が始まる。
 問題はこれもありなんだ、といって追随している大人や、フォロワーが多いからついていけば甘い蜜がお裾分けしてもらえるだろうと思っている大人達だ。話を聞いてやっぱり彼は幼稚だった、と自分の優位性を主張する。どう役立つか、のベクトルが違う!と(白熱教室を絶賛しながらも)功利主義に立脚したまま議論をしたりする。
ノマド論壇が盛り上がっても未だに皆勝ち逃げの方法を教えるだけで非正規雇用が対等に取引される仕組みとか誰も検討しない。
今回のイベントも「僕は修行僧で高みを目指すために滝に打たれてるんです!!」「そ、そうか!?俺はmixiがつぶれてほしい」みたいな不毛な会話で終わっていった。
その後の反応も多くの大人達が罪人かどうか、サンドバッグかどうかみたいな話で個人にばかり責任を帰属させて語るばかりで、彼を始めとした若者をそこに至らせたリソース不足やライフイベント事態の変容に全く目を向けない。全員が共犯者だよ。
今回の件、もっと寄付先についての話をしてほしかったし、芸風についてよりなぜその芸風に至ったかを深堀してほしかった。
今現在、目立たないところで小規模のメディアサイトを立ち上げて俺流正義感を発露しようとしている若者は山ほどいるしポテンシャルもすごい。これから爆発的に増加する彼らの正義感の発露を、芸風の問題として捉えてもしばらくは楽しめるんだけれど、精神論から社会を語る輩達にスキルセットがうんぬんと指摘する構造がそのまま続き、発電できるまでにマッチポンプ化していくブログ界隈を僕はあまり魅力とは思わない。
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尊敬しているからこそ、親を越えなければならない 反抗期の王道映画-映画評-「荒川アンダーザブリッッジ」

 漫画原作、アニメ化された荒川アンダーザブリッジが、実写ドラマ化。よく見てみたらキャストもおかしく、小栗旬がカッパ役だったのは声を出して笑った。山田孝之城田優林遣都桐谷美玲安倍なつみ。今をときめく舞台俳優や映画俳優、モデル、ミュージシャンと、何かおかしなことになっていて原作を見たあとだとかなり楽しめる。
 ただ、実写化は大切なものを盗んでいきました。演出や脚本のおかげで原作の破天荒さがなくなり、登場人物達はみな牙を抜かれてしまった。舞台でのお芝居のような世界観であり、わざわざ映画館で見るようなものでもないし、一方で原作になかった「同意」と右肘をあげる合図を含めた演者達のこだわりの演技は見ておきたい。
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http://autb.jp/

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キャリア教育で若者は就職で苦労しないようになるの?-書評-若者はなぜ「就職」できなくなったのか?

 いやー、めちゃくちゃ面白い。先日の就活について考えるイベントのスライド資料のベースとして使ったのだけれど、本書一冊で非常にわかりやすく若者の就職とキャリア教育について取り巻く環境について教えてくれる。
 薄っぺらいキャリア教育だの道徳教育だのの議論が若者を弾圧萎縮させる、とまでは言わなくても、それらは呪われている。安易なキャリア教育推進派こそ参考文献も含めしっかり読み込んでほしい。

一匹の妖怪が学校教育の世界を徘徊している、キャリア教育と言う妖怪が。

 と言う訳で妖怪退治。現代的には妖怪との共生を考える流れになるのだろうか。大卒時点での若者の就職(内定)率は6割である。院進学を含めても若者の就職難と労働難はどこから来たのだろう?本書の要約と、本書の核であるキャリア教育批判に答えはある。

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若者論3原則

 先日就職について語るイベントにパネラーとして誘われたので資料を作っていった。
若者の就職について語る時、皆が若者を何かが不足している存在として語ろうとするので牽制としてこんなスライドを用意してみた。雑な議論がイッキに慎重になるので場によってはオススメ。

1.若者を一元化して語らない

    • 能力の高い若者
    • 普通の若者
    • 特別な支援が必要な若者
      • 悪い例:「最近の若者は〜〜」
      • それぞれにそれぞれのアドバンテージや問題があるはずなのに一緒に語ってしまいがち。多様性があるはずの存在が一元的に共通の習性で動いているのならそれこそ問題では。

2.原因を問い、責任を問わない

    • 「若者」は守るべきもの
    • もし努力不足なら努力と報酬のバランスを問う
      • 悪い例:「あいつゆとりだから仕事でわからないところがあっても先輩に聞きにこない」
      • 新人類、3無主義、しらけ世代ゆとり世代と、歴代レッテルが貼られ様々な問題が彼らの努力不足や能力不足に集約される論がはびこった。若者亡国論などは繰り返されるが、「若者」や「子ども」と言う言葉自体は、彼らが大人と区分けして保護すべき存在だからこそつけられた。考えるべきは報酬(インセンティブ)だ。努力すれば、努力しただけの報酬が確保されていれば皆努力するはずだ。原因を若者に求めて批判しても余計動かなくなるだけであり彼らが何を求めていて何が報われないと思っているかという原因を探る必要がある。

3.過去の美学を押し付けない

    • 育って来た環境が違うから。
    • マイルール宣言は既得権益の強化にしか働かない
      • 悪い例:「俺らの若い頃は貧乏でも義理ってもんがあった」「俺ならその苦難を楽しむ」
      • 地域や時代によってインセンティブ構造が違うので自分が育って来た時代環境の道徳感が現代でも通用すると思ったら大間違い。若者の貧困を問題にしているのに「俺らの時代は貧乏でも勉強してたし助け合ってた」とか言われても。。。実際ふたを開けてみたら当時は経済成長が期待できて勉強し助け合えばお互いにその先のメリットが強かった時代だっただけかもしれない。美学には実行するための決定打(報酬)が必要であり「困ってる人は助けた方がいい(し、なにより情けは人のためならずだし)」と言った形だ。情報環境も産業技術も経済も政治も当時とは違うタームに来ているはずであり、若者を分析するならその背景を分析する必要がある。

 

死にたい奴は勝手に死ね

 学生の頃、追手門大学のカウンセリングの先生の講義を受けたのを思い出した。当時の僕にその教えは非常に刺激的で、一番最初に教えられた言葉は「正しいことは悲しいこと」であった。子どもが親に向かって「なぜ僕は頭が悪いんだろう?」という言葉を発した時「あなたがバカだからよ」と正しいことを言うとこれほど悲しいことはない。子どもは理由が知りたいんじゃなくて「今回は調子が出なかっただけだ、がんばれ」といったことを言ってまず受け止めてほしいし、「一緒に次の対策を考えようか」と寄り添ってほしいからその言葉を出す。
 言葉には、言葉通りに受け取り解釈する方法と、その裏にあるメッセージを解釈する方法がある。それに気づいたとき、僕の世界の広がりは2倍になった。
 そこで"「死にたい」という言葉を発した人は本当に死にたいのではない。より良い環境で、より良い条件で生きられるのなら生き続けたいに決まっている。それに対して死にたい奴は勝手に死ね、という社会はどこか間違っている"とおっしゃっていたのがすごく印象的だったのを思い出した。
 そもそもなんで常に死ぬこととか考えていきにゃいかんのか、と言う疑問は常々考える。生きづらさ、みたいな言葉に象徴されるように、人の役に立てと人は言うけど、役に立つためのイスは元々そんなに多くない。イスを作るか、役に立たなくても効力感を感じられるようにするために、それぞれが少しだけ譲り合って協力して動いていかないと、明日は我が身かもしれない。
 普段の何気ないときも会議のときも喧嘩のときも、常に会話にそのセンサーを立てておくことで、会話やコミュニケーションは円滑になるのだけれど、全員が全員そんなことが出来る訳でもない。ビジネスでも、客は穴をあけたがっているのであって、ドリルを望んでいる訳ではないのに、多くの人がどんなドリルがいいかと言う前提で話を進めてしまう。
 あなたはなぜそんな言葉を発したのか、なぜそんな言葉を書いたのか、その理由は不可避だったのか、余裕がある人は考えてあげてほしい。社会は煩わしいと思ってる人が、社会は煩わしいとぼやいた人に対して、石を投げつけて発散するような光景は決して健康ではないのだから。

なぜ若者は社会貢献をするのか -書評-SQ “かかわり”の知能指数

 2011年とかの本。久々に再読した。消費の形の変遷と若者の意識の変わり方をこれでもかと言う位にわかりやすく解説している。どちらかと言うと若者相手にビジネスとか商売したい人達向けに書かれた本なので少し癖はあるけれどめちゃくちゃ面白い。この癖と言うのがもったいない。

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イケダハヤトとロハス

 イケダハヤト氏の影響力の武器が話題になっている。氏とは挨拶したことはないが、同じ空間にいたこともあるし、近しい人もお世話になったことがあるので特に悪口を言うつもりはないし、会った人たちは皆口を揃えて「天然だけれどいい人」と言う。
http://www.hagex.com/pic/2013/0128002.JPG
 僕も今回の記事特に批判する気はないし、いくら叩いても一定割合同じような例が沢山出て来て終わるだけなので多分本当に問題だと思っているのならブログなんぞに書かずに消費者庁が対応してくれるよう動くしかないのだと思う。(僕はそこまで思ってないけれども。)経緯は以下だ

何に言及しようと彼の自由ですけれど、なぜか物言いが自分がさもその道であるかのような上から目線なのが何とも言えない。ネイティブに自己を拡大できる中二病的イノセントさを感じずにはいられない。それが彼の商品価値と言えば、そうなんだろうなぁ。(中略)
イケダハヤト氏の文章はワイドショーとしては面白いんだけど、ドキュメンタリーとして語るべき内容に素人童貞が手を出すから現場で頑張ってる人にすごく反感を買っています。もちろんブログの記事を読んで何かを行動して思わぬ結果が出たことはイケダハヤト氏の責任じゃないけれど、トイレでう●こして流さないまま出て行きやがってみたいな怒りがあるようです。なんにせよ、フリーランスの記事については頭に来て感涙したという報告を受けております。

イケダハヤト氏の文章がなぜ不快なのかをまじめに考えた - GoTheDistance

こういったネット読者によるイケダハヤト氏批判の構造は、「影響力がありそうだ」と批判者が観測しているという話だろうなと私は推測しています。 イケダハヤト氏の文章が嫌だというよりは、イケダハヤト氏の文章に共感する人が多く登場するのが嫌だという感じです。
どういうことかというと、批判者にとってイケダハヤト氏はハーメルンの笛吹きのように映っているのだろうと思います。

イケダハヤト氏批判の構造:Geekなぺーじ

 話はそれるが僕も昔彼に共感はしないけどもっと大きな仕事をしてほしいと応援する意味を込めてこんな記事を書いたことがあるが、pvが少なかったためか相手にすらしてもらえなかった。
ノマドノマドっていうけど経団連のシナリオ通りだからな - 技術教師ブログ
 僕は昔からこの手の問題は、情報の偏りこそが問題なので、偏った情報を元に戻してあげるような情報を与えることしかないと思っている。もちろん時には書き手を指名して批判する過激な芸風が耳目を集めるのに有効なときもあるし、それはある程度知名度がある人のプロレスだと思ってやっているという周囲の理解は欲しい。

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Yahoo!リアルタイム検索でFacebook発言検索できるのを知らず飲酒運転を自白する人が多発しているので注意

 結構前に実装された割に全く反響がなかったyahooのリアルタイム検索、FBで身元も明らかな状態で危険な発言が多いし、そうでなくても自分の意図しないところで検索に反映されているのでfacebookで公開設定にしている人はぜひ気をつけてほしい。
http://i.yimg.jp/images/search/blog/121016/121016_01.png
Yahoo!検索 スタッフブログ
 例えば昨日「飲酒運転」検索してみただけでも5人位飲酒運転を自白した発言があった。飲酒運転自慢をして周りから諭される発言も見受けられた。
参考:「飲酒運転」のYahoo!検索(リアルタイム) - Twitter(ツイッター)をリアルタイム検索

往診完了。
酔っぱらって、真夜中の往診はきついです。
ちょっと飲酒運転でした。

http://www.facebook.com/permalink.php?id=100001573111079&story_fbid=468698989859201

お医者さんがこんな感じだったり

飲酒運転からの帰宅(*_*)笑
ビールとハイボールだけで酒に溺れかけた自分が情けない!!!
これじゃあ飲み会真っ先に潰される(;o;)
...

http://www.facebook.com/permalink.php?id=100002901534568&story_fbid=319645594808822

 と会社員もこんな感じ。ネタだと信じたい。
 中には(リンクは避けるが)小さい子どもを乗せた状態で飲酒運転で家に帰って来た、などの自白もありネタでもやめてくれ状態である。一方twitterではフォロワー増加狙いの「飲酒運転なう」が定着してしまった。また「喫煙」「タバコ」などでも未成年の発言がうじゃうじゃ出て来てエキサイティングである。
 一方海外では逮捕事例も早速出て来た様子だ。
参考:Facebookで飲酒運転を自慢したティーンが逮捕された | TechCrunch Japan
 事故発生件数については確認していないが、12年連続で交通事故死者数が減少している様子だし、気の緩む正月こそスマートドライブを心がけたいものである。
JAPAN SMART DRIVER | ミチノミクス

意識の高い人追悼2012

 意識の高い学生(highconscious通称ハイコン達)はなぜ死にものぐるいで殴られても意識高い学生を演じ続けるのか、最初は笑い者だった意識高い若者()達もいまや笑い者にすらならず、バカにしてるのは常見陽平氏とその取り巻きくらいである。あれはあれでプロレスなので楽しみにしているが。
ムーブメントは飛び火して立派な社会人様方まで休日返上で社会貢献のための勉強会やら講座に顔をだし、かなり煙い状態が広まっている。意識高い勉強会はこの1年で存分にマーケットとして熱燻され、情弱達を転がして満足感だけ与えて搾取するビジネスときちんとした情報やプロジェクトを与えてしっかり育て上げるビジネスとに2極化しつつある。
また教育の業界も例に漏れず、意識の高い社会人たちによっていろいろかき回されている。教育の理屈も理論も背景も全く把握してないけど社会的な実績がある人たちがキャリア教育だのキャリアコンサルタントだのと名乗り最近の若者は恵まれていないかわいそうだだがもっと夢を持てもっと本を読めもっと遊べ車を買えとビジネス書に書いてあるようなマッチョイズムと武勇伝を語り旧世代の価値観を伝える様はまさに宗教勧誘の様相をきたしている。
夢を語り共感してもらう仕事と夢見がちな奴をぶん殴る仕事が交互に来てマッチポンプする自己啓発社会を利用した発電をなんとか作れないものかと毎日思い悩む日々である。

意識の高い学生()はなぜ生まれどこへいったのか

 twitterで話題になった意識の高い学生たち、代表的なのは以下のようなプロフィールを書いちゃう学生だ。

就活はじめました。 学生団体HighConscious代表/ビジコン最終選考/リーダー/勝てる就活/内定/ベンチャー/シリコンバレー/起業/TCD/コンサル/マーケティング/iPhone/iBot/第二のジョブズ
[twitter:@omaehikui]

https://twitter.com/omaehikui

 そもそもなぜ意識の高い学生が生まれてしまったのか。これは青年心理学の「アイデンティティ拡散」という言葉で説明できる。アイデンティティは日本では”自己同一性”として紹介され自分とは何か、というかたちで紹介され浸透しているため勘違いされるが、実はこの問題、あくまで"拡散"なのである。
 「若者の自分探し」などが有名だが、これ、アイデンティティを喪失したから探していると言う意味ではない。正確には自分の欲と社会の利益を一致させるための模索が課題となり試行錯誤する時期(モラトリアム)なのだ。
その中で必ず若者は自分と社会の同一性を刷り合わせるために、デモや社会貢献への参加のように、強弱はあれど社会の意識を代表するような態度の自分を演じ、他人にそれを強調し、繰り返し肯定する態度に出ることが昔から指摘されている。それは次第に人々に反抗期と呼ばれるようになった。
70年代、それは学生運動として表れた。
80年代、それは校内暴力として表れた。
90年代、それは引き籠りとして表れた。
00年代、それはインターネットの炎上として表れた。
00年代後半、それは意識の高さとして人々の前に表れるようになったのだ。
10年代前半、主にwebを使った就職活動のために意識が高くありたいが能力ややり方が伴わない若者達が意識高い(笑)と賞賛されるようになった。
 モラトリアムまっただ中な学生達にとっては不幸な時代になってしまった。まだまだ意識の高い学生は沢山いるのであるが、なにかプロジェクトに打ち込もうと思えばお金や情報など支援が必要となる、ソーシャルツールがその情報を拡散してくれると、そしてそんな活動や、活動している"僕"を支援や応援と言う形で承認されると2010年までは思っていた。
しかしインターネットは所詮道具であった。使い方を間違えれば虚言であっても停学や退学など大きな事故につながりかねないという手榴弾性を持つ。その火力は情報収集力がない学生達さえ萎縮させてしまった。結果ツイッターには当たり障りのない誰得な日常を書き込むようになり、活動は水面下に移行し、公開範囲を限定したfacebookで自意識を発露するフェーズに移った。いわゆるtwitter疲れだ。
なので意識高い学生はいまだに水面下で細々と活動してるし、ブログは身内には届きやすく検索性が乏しくRSSに引っかかりにくいamebloだし、意識高い学生サミットみたいなものがFBで関係ない人たちまで告知を回していまだに開かれたりソーシャルネットワークを使った就職活動がようやく本格化して来たりなんか社会人紹介してくださいて的なお願いが定期的に飛んで来たりする。今やツイッターは中学生がRTすると願いが叶うという画像を拡散するか、ヲッチャーが廃品回収をするか古参が老人会を開くだけの公民館となりつつある。
 僕の記憶の中でブログが普及して意識高い学生としてもてはやされた先行世代の代表であるはあちゅう氏のコピペの衝撃はすごかった。キラキラしていてかつ面白くて。新しいライフスタイルや価値観を提示しつつある後続世代については別に述べよう。おっと今年炎上したあいつらの話はそこまでだ。

大人になれない社会と執着が生み出すアイデンティティ

 さて、アイデンティティだの自己同一性だのの獲得は、現代多くの場合発見でなく保留される。いったん仕事につけば、自分は社会の利益に貢献している、という免罪符を得ることができたのだ。就職のシステムはいす取りゲームであり、学歴や成績と態度や人脈力が伴う学生から採用されていく。競争に勝った人たちの大半は自分たちが勝った競争の権威を神格化しシステムを強化させることでイニシエーション(仲間や共同体に入るための儀式)として機能させようとする。
 結果、日本では働くこと=人生、のような労働論が跋扈し、ワークライフバランスって何?ワークってライフじゃねえの?みたいなシステムがライフと言うなのワークを増やし労働のブラック化を進める。社会人として美学を語ることが誇りである、というアイデンティティ言説は、気づけば誇りがないものは社会人ではない、という排除の理論にすり替えられる。やめて!もう社員のライフはゼロよ!
 もう一つ問題なのは引退年齢の引き上げである。一昔前までは12歳で一人前、40歳で寿命みたいな時代だったのに、気づけば平均寿命は約2倍、60歳定年65歳で第2の人生、75歳で後期高齢者と、仕事に現役である時間は大幅に増えた。それから日本で言えば明治元年から150年弱で人口は4倍に増え、結果競争も激化することとなる。インフラがある程度整備され仕事が無くなって来たり参入障壁が高くなっていることも大きい。
 40で不惑といっていたが、気づけばモラトリアムの延長が可能になり、このときまでにこれを達成して、みたいなロールモデルは技術革新も相まってがっつり崩壊し、競争は激化し保留の不可能性が高まったため、王道に居続けられる人以外は常に不安を抱くようになった。いつ首が飛ぶかわからないと言う生活の不安とともに、アイデンティティ崩壊の局面を迎える。結果、会社で仕事ができない訳ではないが目立って成績がある訳ではない人たちからダブルキャリアだのパラレルキャリアだのと言って社会貢献活動や勉強会に出向くようになる。
 ここがガッツリ構造的な問題で、もっと仕事ができてキャパシティが余っている器用な人たちこそこういうキャリアに進めばいいのに、なかなかそういう話にはならない。結果、元意識高かったおっさん意識高い若者や同僚を叩くプロレス本を出版する訳である。意識高いこと自体は誇っていいことなはずなんだけれど、なぜか黒歴史化するのがこの国の嫌なところだ。
 一方でアイドルのライブやコミケなど参加型の文化に包摂性を見いだし腐女子やオタクになっていく若者達もいる。広義のソーシャルゲームに身を置き、無限に発生するイベントを求め、そこに貢献することで彼らはアイデンティティを獲得(のように見える保留を)しようとする。
 王道に立ち続けるためにブラック労働に堪え続ける質の高い人、パラレルキャリアだのダブルキャリアに夢を求めて自己啓発に走る意識高い人、包摂を求めてオタクになろうとするにわかおたくたち。日本の労働市場は3層化していくし、どれが一番健全かと言われればなけなしの金を払ってでもオタク文化に走ろうとすることな気がしてくるのがつらい。
 そう、こうして分析してみるともはや意識の高い人ではない。労働システムの老朽化に見捨てられた老若男女そのものだし、彼らに旧来の世界観の上に立った処方箋を渡そうとしても、どうしてもパイは限られているものばかりで、最終的には競争になってしまい、マッチョじゃなければ生きられない論か生まれない。
 そうした不安につけ込むビジネスも増えたし、政治による不安払拭型政策が新しい不安と長寿を作り出す、我々は自由の刑に処せられ、ゾンビのような状態で長生きを強要される。息苦しさから逃げ出すためには能力を上げるか鈍感になるかオタク文化を始めとした消費に走るしかないのである。ゾンビに安らぎと追悼を。アーメン。

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株式会社ファーストロジックの採用ページに感じる強烈な違和感

 twitterfacebookでがんがんにシェアされて来て話題になっていて、読み物としては面白いのであるけれど、調べてみると微妙な点があったので報告。関係者が見て気分を害してしまったら、ごめんなさいとしか言いようがないのだけれど、ブロガーとして、学校側の人間として、出すべき情報はだして、情報が必要な人にはそれを知った上で決断してほしい。

http://sp.rakumachi.jp/recruit/lp/
http://prtimes.jp/api/file.php?t=disp&f=d1240-211-574866-0.jpg

「学生」として就活している方を当社は一切求めていません。
お金をもらうと言うことは成果を生むプロになると言うこと。(中略)
会社はあなたの個性を求めていない。
成果のみが
あなたの価値になるのです。

http://sp.rakumachi.jp/recruit/lp/

 かわいらしいファビコンとは裏腹に、過激な文句でストロングスタイルな就活生を集める採用サイト。要約すると成長するしやりがいはあるし成果が出れば役職はあげるから、結果は出なかったけど努力したことに対する承認とか求めずに働いてくれる人だけきてくれと言うもの。強者の理論で話題を集める戦略は確かに挑戦したがりな能力の高い学生や要領の良い学生は集まるかもしれない。

 ココまではよくある話で、会社は利潤を追求する組織で、怠惰な人間など組織に取ってコストでしかないので最初から省きたいと言う意志はよくわかる。そして組織心理学の中では、最初ものすごい高いモチベーションを持っていた社員が集まったとしても、長期的にいくつかの策を講じないと必ずモチベーションは失われていくので実はこの採用活動もスタートダッシュになりはすれさほど効果が出ないと考えられるのだが、そこは置いておこう。
僕が感じた強烈な違和感は以下のこれ。

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経済格差、教育格差に続き、日本にも健康格差の波が来ている

 東大医学系の文科省科研費研究でそこそこ衝撃的なレポートが発表されていたので紹介しておく。
もんのすごくはしょって単純に説明すると、貧乏人は栄養不足とか肥満とかメンヘラになりやすいし病院に行くのを渋るという報告だ。ブルジョアジーな人たちの方がいい者を食べて太っていると言う時代は終わり、貧乏人の方が肥満が多いと言うのはすでにアメリカなどで紹介されていたが、日本も裕福層以外の収入が減っており、それに伴って同じような傾向の波が訪れているという。
 例えば平成22年に厚生労働省で発表された平成22年国民健康・栄養調査結果の概要データでは次のように紹介されている

〈たばこに関する状況〉
・現在習慣的に喫煙している者の割合は男性32.2%、女性8.4%、総数19.5%であり、前年に比べて男女とも減少(P24)。また、現在習慣的に喫煙している者で、たばこをやめたいと思う者の割合は男性35.9%、女性43.6%。前年に比べて男性は増加し、女性は変わらない(P25)。
受動喫煙の影響をほぼ毎日受けた者の割合は、平成15年と比べて全ての場(家庭、職場、飲食店、遊戯場)で減少(P26)。 

〈所得と生活習慣等に関する状況〉
・世帯の所得が600万円以上の世帯員と比べて、200万円未満、200万円以上〜600万円未満の世帯員は、女性の肥満者、朝食欠食者、運動習慣のない者、現在習慣的に喫煙している者の割合が高く、野菜の摂取量が少なかった(P31,32)。

平成22年国民健康・栄養調査結果の概要 |報道発表資料|厚生労働省

 同様にH23年のレポートではも同様に衝撃的なレポートが。内容を紹介すると

  • 低所得者で精神症状・精神疾患での受診率上昇。
  • 高所得層で精神科受診の控えあり。若年層ではいくつかの訴えで所得による受診抑制傾向。
  • 一般住民は高所得ほど生活習慣病が多いと認識。
  • 女性で肥満、高血圧、糖尿病が上昇。家計が高いほど多くの栄養素で必要量を満たす。
  • 正規雇用者では正規雇用者に比較して健康水準が低く、経済的な理由での医療受診の抑制が認められる。
社会階層と健康 | 研究成果

などが指摘されている。また労働ストレスや血圧などの研究も行われた様子である。ノマドブームもいいが非正規雇用の割合は年々増えており、収入が減る人が増えている上、健康や医療まで自己責任化されてきている。不安を煽って健康保険に加入させるタイプのCMも増えているので、それに加担したくはないが、保険制度もいつまで安定してあるかはわからないため、いざと言うときに健康だの介護だの皆で協力してセーフティネットを張っておかなければならない。医師不足も指摘されており医師は「先生と呼ばれているから天狗になって医療事故・医療過誤が起きる」とかtwitterで言ってる場合ではない。詳しくは以下のサイトで研究報告書などがリンクされている。
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精神分析学と言う思想の行く末-書評-フロイト以後

 日本でのユング信仰/フロイト信仰は異常だ。精神病のスペシャリスト達が無意識の構造と文字通り夢を見ることについて体系化したのが150年前。いまや半分カルト、半分社会権力と化したその150年前の手法が日本ではいまだカウンセリングで用いられている。
 その気持ち悪さの源泉は、精神医学は精神の異常を指摘して始まる学問であると言う本質的な部分にある。異常の裏にあるあるべき正常な人間像論に少々疑問がさしていたところで神保町の古書店で本書と運命の出会いを果たし購入。もちろん入門書であるが、軽い語り口とわかりやすい説明で期待通りもしくはそれ以上に、キレイに精神医学の"語られ方"の歴史と、その裏にある哲学の流れを網羅し、問題意識が一気にクリアになった。少し古い本であるが同じ問題意識を持っている人はぜひ手に取ってみてほしい。
 精神分析学の源流に位置し、フーコーにその裏にある権力性を発見され、ドゥルーズに批判されて来たフロイトとその精神医学の歴史。それらは批判的に発展継承されながら現代の文脈に「異常」という領域と、我々が異常ではないかと言う<不安>を生み出したと考えられる。だれしもが「異常」と呼ばれ仲間はずれにされることを不安に思ったことはあるはずである。

フロイト以後 (講談社現代新書)
鈴木 晶
講談社
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メスメリズム

 医学が「再現性」というキーワードのもと、自然科学の方法で探求されていなかった時代は、このメスメリズムと言う言葉で表される治療法が主流だった。
その前に当時の病気についての認識について、一つ具体例を提示しておこう。ヒステリーという言葉は現代では神経症の一種でスイッチが入ると急にわめき出す女性などを表す言葉として使われて来た。しかし精神医学で扱われるヒステリーと言う言葉は、器官に異常がないのに眼や耳が働かなくなるなどの症状がでること、であり、その異常は子宮が正位置から移動することで起きると考えられていた。ヒポクラテスはそれはくしゃみでなおる、と大真面目に語っていたらしいし、中世の「悪魔付き」も同様の原因によって引き起こされると考えられて来た。
解剖学がそのレベルからあまり進んでいない時代の話である。フランツ・アントン・メスメルという内科医が、お金持ちの未亡人と結婚し内科を開業、彼の画期的な治療法は、後にメスメリズムと呼ばれる。ある日メスメルは患者に鉄を含んだ薬を飲ませ、身体に磁石を貼付けてみた。すると患者は数時間後に全快してしまった。メスメルの研究はココから始まる。
彼がいうには世界は霊的磁気で満たされており、人間の身体の中にもその磁気流がありその流れが滞ると病気が発生するという。本人も磁石で病気が治るとは思っていなかったが、磁石を使うと思いがけないほど治療がうまく行った。
彼の顧客は上流階級ばかりで、個別な診察だけではなく、あるときは沢山の患者を集め手をつながせ回路を作り、その中に流れを作ることで集団診療を行ったという。

患者達は一人また一人と、痙攣発作を起こし、絶叫する者、踊る者、床を転げまわる者で、あたりは魔女の宴会さながらの様相を呈するのだった。

見てわかる通りメスメリズムは中国の気功や風水、そして昨今テレビをにぎわせるオーラやエネルギーの思想と非常に似ている。20世紀になってもオルゴン・エネルギーなどと称してフロイトの弟子が治療に使おうとしていたあたりからも、手を替え品を替え形を変えながらこの手の考え方は残っていくのだろうと考えられる。
と同時にこれらの治療は催眠と結びついた。1800年代末期、催眠研究は黄金期であり、未だにそのメカニズムは不明なものの、催眠は画期的な治療法であった。メスメルの治療も催眠と結びついたプラセボ効果による回復だと思われ、フロイトも最初は催眠研究から入った。催眠治療は何を行うか、患者に催眠をかけ、精神的オルガズムに達するようにしむける。治療でありながらエロティシズムに溢れたショーでもあった催眠は、作家や好事家や国内外の名士達が関心を寄せたと言う。
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どうして私たちが催眠を不思議がるかと言えば、それは催眠が、「自分は自分の意志で行動する」という私たちの信仰を打ち砕くからである。
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しかしフロイトは催眠と訣別し精神分析を一つのジャンルとして確立させる。催眠でもの言わぬ患者を治療するのでなく、患者に「語らせる」ことで病因を突き止める手法の源流を築き上げた。

フロイトユング、アードラー

フロイトの研究成果である無意識と抑圧の概念など数々の無意識の働きから、夢診断や無意識の構造、リビドーと幼児性欲。。。これらはフロイトに体系化される前もいろんな学者が訴えていたし、同時期に活躍した研究者ユング、アードラーなどと交流する中で磨き上げられていった。
彼らは最近になってまた注目され始めたが、ユングは神秘的な者を信じたい人たちに、アードラーは自己啓発したい人たちにうけいれられていてなんともな〜である。
ユングの研究は(本書にはそんなに紹介されていないが)非常に面白い。人間には普遍的無意識があり、それらは経験を積むことで人の形として6種類位に収束していく。そしてその無意識は夢の中にでて来て神話と同じ構造を取る、というのである。
そこに気づいたユングは後期には人間はその無意識の元型(アーキタイプ)をどっかで共有しているか埋め込まれている、とかいいながら曼荼羅を書き出すので大変気味悪いのであるが、シュルレアリズムなんかと結びつき、宗教カルト的な人気を博して今に至る。
アードラーはフロイトユングと3人ならび深層心理学の三巨頭と呼ばれる。アードラーは個人心理学と言う分野を切り開き、日本では無名だがアメリカではかなりのアードラー派の心理学者がいると言う。アードラーはフロイトを支持しながらも「劣等感」と「楽天的思考」の心理学を展開していった。
「勇気 Mult」を強調し、元気のでる心理がでる心理学としてバンバンで自己啓発やビジネス書に応用され書店に流通している、源流を作った研究者である。著者はこれはマーズローの人間制心理学とも異常に似ていると指摘している。
フロイトはいろんな研究者と交流したが、自分を無批判に受け入れる者意外とは訣別した。訣別した研究者達はみなノイローゼのようになったと言う。強烈な失恋だ。フロイト超自我的象徴でありたかったのかもしれない。

エディプスを巡る冒険

 本書に求めていた一番の部分はこの部分である。エディプス・コンプレックスが現代にどう残っているのか、ぼくはこれを知りたかった。フロイトは無意識は局所的に3つに分類できるとした。本格的な欲望のままにうごくエス(イド)、良心や論理的道徳観念の働きをする超自我、それらの調整役を行い様々な心理的防衛機能を行う自我(エゴ)がある。
エディプスコンプレックスとはこの3つの関わり方を表す言葉であり、コンプレックスとは一般的に用いられる「劣等感の理由」だけを指すのではなく、自我を脅すもの、という意味がある。超自我は自我にとって理想であるとともに禁止でもある。「してはいけない」は美徳であり禁止なのだ。これが自我を過度に脅迫したとき、自我は抑圧して思い出さないようにしたり反動形成したりするのである。
この自我をフロイトは神話エディプス(オイディプス)二なぞらえた。エディプスは王様の息子で、不吉な子だと予言され生まれてすぐ山に捨てられる。山で育ち街に赴く際にエディプスは父親であるライオス王を殺してしまう。そして街で英雄となり、未亡人となった母と(母とは知らず)結婚する。
フロイトによれば男の子は生まれてすぐ母親に恋をする。恋をするが父親(とその道徳観念=超自我)があるから母と結婚できない。すなわち、この母と結婚したい欲望がエス、それを実行できない理由となる父親が超自我、それに悩み葛藤しながら自我は父(の超自我)を取り入れ内面化するというのである。そうしてエディプスコンプレックスが消滅し超自我が発生する。
自分の中に超自我が芽生えるとともに禁止の理由は父(の超自我)が禁止するから、ではなく、自分の超自我が禁止するから、となる。すなわち父は殺されるのだ。
本書で圧巻なのはこれを中心に怒濤の勢いで研究者達のエディプスコンプレックスについての解釈が紹介される。箇条書きにしていこう。
ライヒ精神分析の際にあることを思い出すことを抵抗することがあり、その根底にある性格抵抗を分析べきだしそれが幼児期に親との関係で形成されるとした
サリヴァン、エーリッヒフロム、カレンホーナイは新フロイト派と呼ばれ、社会や環境が人間に与える影響を重視した
・マクルーゼは技術により「豊かな社会」が実現して生存のゆとりが以前より大きくなり、本来なら抑圧が弱くなるはずなのにそうではない状態=文明化社会による過剰抑圧を指摘した
・ハインツハルトマンは自我心理学を発展させ、自我は受け身ではなく自立であること、自我素質を自我屁と発展させる生物学的名考え方をした。自我が強いと健康で自我が弱いと不健康と言う話になりラカンにぶっ込まれた
エリクソンは自我理想と自我を同一化するアイデンティティとそれを会得するための猶予期間を経済学用語から拝借しモラトリアムと名付けた
メラニークラインは児童分析を通してフロイトの娘と喧嘩しながらフロイトの言う4〜5歳のエディプス期でなく生後1年以内に悪い内的対象が超自我になると唱え母子の相互関係が発達に影響を与える対象関係論の基礎を築いた
・ヴィンスバンガーは人間をエスや自我など概念装置に切り分けることを極力避けその様態と変化、それらが本来持っている指向性を全人的に理解すべきと考え、フロイトの「転移」だけでは精神分析には足りないと現存在分析の必要性を唱えた
ラカンは人間を言語動物と捉え、ソシュール言語学からフロイトを解読した。これにより精神分析は思想に位置づけられた
クリステヴァはインゲンの営みをシニフィアンス(意味生成)であるとし、主体は父親の脅迫を通してエディプスコンプレックスを克服し、不正的な言語秩序であるサンボリックに入っていくと考えた。また想像的父と象徴的父を愛の物語から読み取る。
フーコーフロイトのリビドーとかジャネの精神力に「神話すれすれ」とぶっ込み、収容施設が貧乏人を「狂気」として隔離し人々と境域のコミュニケーションを阻害したが精神分析はコミュニケーション取ろうぜって「偽善的に」でて来て結果ブルジョア的抑圧に加担したと指摘する。
ドゥルーズ=ガタリは「欲望する機会」というモデルを用いてコンプレックスを形成するのは必ずしも両親でなくていいのに精神分析家にかかると禁止から欲望を推論され、何か(父的なもの)に禁止されているからと理由を無理矢理付ける「癒されがたい家族主義」と指摘し、班精神分析、「分裂症分析」の提唱をした。
 一番最後にフロイティアンがフロイトから連綿と続く論に巻き込まれてしまい論理的に考えすぎてしまうことを指摘したのだろう。精神分析は説得力ゲームと化してしまった。心理学の本を読んでも何のエビデンスも用意せずこれらの概念を援用しているほんのどれだけ多いことか。現在並行してアンチオイディプスを読んでいるのでそこでも感想を述べたい。
 ずーっと考えているのだが、もしかしたら人間はそんなに論理的に人格は収束されないのにもかかわらず、社会秩序や資本主義によって無理矢理人格を一つに統制されているのではないか。そのために「精神異常」と言う言葉を使ってオイディプスを抑圧し秩序を維持して来た、そんな仮説を考えている。今は「承認」という枠組みを殺すことと、精神分析という無意識の権力を破壊すること、これをどうにか実現できないか
 平野啓一郎氏が個人でなく分人についての書籍を最近出したことを知ったのでそれもあわせて読んでみたいのであるが、人が言葉を作り出し、人は言葉に吸収されていき、最後は言葉にならない者は存在しない、そんな精神と「語られ方」に潜む欺瞞が本書からは感じ取れたのである。

学生にこそ知ってほしい戦略から考える方法

大学が学問だけを教える場所でなくなってきた

 大学時代から大きな勘違いをしていた。大学時代、アントレプレナー教育や起業教育研究をおこなっていた流れでドラッカー研究を行っていた。ドラッカー経営学のオリジネータだという。しかし、経営学は学問なのか?そう考えてドラッカーを取り扱うことをやめた。問題解決学だの経営学だのMOTだのと言った「学問」は分類は出来ても体系化できない。
これらは人材育成と呼ばれるカテゴリで扱われる。社会教育としてセミナーも行われている。
これらは<教育>ではなかった。起業教育なるもの自体が完全に語義矛盾であるか、言葉と学習内容が乖離している。<教育>とは何らかの形でテストを行い何らかの再現性のある達成目標に達したかを確認するものだ。これらの教育には収束するような正解はない。10000円欲しいとき、条件に合わせて100人から100円づつ集めるのも一人から10000円もらうのも正解だからだ。
 起業に(類似性は多々あっても)再現性はない。それだけではない、扱いようによってはそれらの教育モデル達は洗脳のようになる。起業家や成功者たちを尊敬せよ、という信仰を押し付けてくる。<教育>ではないのであればなんと言う言葉がしっくりくるか、<訓導>という言葉、すなわちその本質は戦略を考えさせることである。教育NPOや教育事業なんていいながらも戦略しか教えない団体は山ほどあるし、学習支援団体って言ってる方がよっぽど確実に<教育>している。
その上本人達はそれを戦略として自覚して教えている訳ではない。考えてみればわかるのだがずっとこの<教育>ではない<教育>について引っかかっていた。しかしそんな言葉の整理をしたい訳ではない。
 この戦略と言う言葉を知ることで分解能となり世の中がくっきりはっきり見えてくる。知識でも身体的ノウハウでもない、知的ノウハウが戦略であり、一つのカテゴリでありレイヤーでありジャンルでなのだ。
 いまあらゆるマイナー業界で高学歴化の波がきている。芸能なんかはわかりやすく、昔はアウトローがばくち的に参入するのが芸能だったのに対し、最近はある程度業界と言うゲームを分析し成功しているクラスタが存在する
一方で学校的な勉強ができなくてもバカでも戦略さえうまければ様々な分野で成功することは可能だ。ブログを炎上させるステーキ屋の社長や、あるいは選挙に出馬して自分の会社を宣伝する社長を見てうまいなーと感心したものだ。もしくは
アイドル業界ではアイドルを研究しながら自信もアイドルとして成功しようと活動しているメタアイドル達が増えており、アイドル戦国時代は一昔前のアクターズブームとは違った様相を見せている。
 では戦略として何から考えて行くべきかを示して行こう。もし仕事がうまく行かないときや、新しい何かを始めたいときのヒントにしてほしい。目次は以下だ

  1. 秀逸なビジョンとストラテジはバカをも成功させる
  2. ビジョンの検討と問題認識
  3. 理念・ミッションなんてくそくらえ、ビジネスは説得力ゲームだ
  4. ビジネス書は読むな、読むなら数百冊単位で読め
  5. 社長や上司がいけ好かないのは当たり前
  6. 勉強法はシンプル
  7. 肥大化戦略と縮小戦略
  8. 研究は新たな戦略が生まれる源泉
  9. 知識と戦略を両立するのではない、往復するのだ
  10. webサービス「synapse.am」が費用対効果から見てもオススメ

秀逸なビジョンとストラテジはバカをも成功させる

 研究の世界でも、ココ10年は、研究バカになりすぎるなといわれ、これが表面的には専門分野だけでなくいろんな他分野の教養を詰めと言う意味に受け取られて来たが正確には違う、その専門を生かす戦略を知れ、ビジョンを持たなければならないという意味に他ならない。
 またリーダーシップの涵養が叫ばれて久しいがリーダーシップとは戦略をどれだけ知っていて、ビジョンを作りどれだけストラテジに落とすことができてどれだけ実行できるかどうかという能力である。
 ビジョンとは文字通り戦略を達成した先にある世界観であり、それを達成するための段取りをストラテジ(方略)と言ったりする。方略と戦略はほぼほぼ同じものであるがここでは戦略はジャンルとして扱っているため分けておこう。
 ビジョンは世界観であるため世界の解像度が高くないと碌なビジョンが作れない。実際にいくらビジョンがあっても不況が解決するとは限らない、政治分野ではビジョンと知識の両立が不可欠である。あまりに高度すぎるためアメリカには選挙専門のコンサルタントがいるくらいだし、日本の政治家は慣習ばかり重んじて戦略性が低いため維新の会のような戦略重視のパフォーマーが注目を浴びることができる。。それでも戦略がうまく行かない要素が多すぎる世界が政治である戦略には相性がある。。
 戦略が通用する世界は限られている。戦略は、競争にしかいかせない。ワークライフバランスのように仕事とプライベートで分けるのであれば、戦略が活かされるのは主に仕事である。
 どんなにバカでも、収集な戦略と優れたパートナーや忠実に動いてくれるプレーヤーがいれば成功は不可能ではない。現に戦略家たちは教育コストを下げながら収益を上げるために、日夜優れたビジネスモデルとミスをしない組織の作り方を研究している。こうしたパッケージ化やオートメーションも優れた戦略である。

ビジョンの検討と問題認識

 具体的にどんなビジョンを描くかはいくつか流派があるのでいろんな人に聞き回って自分で分類することを勧めるが、日本語の解く緒もあって、日本人はビジョンから具体的目標に落とすことが最も苦手ではないかと感じる。例えば「幸せな社会にしたい」はいいがそれはどうなったら達成されたことになるのか。
「お金持ちになりたい」というビジョンはいいが、実際にいくら位稼いでどんな生活をすればお金持ちなのか、この辺りの発想が貧困だ。まず次の2つのアドバイスをしておく。

  • 目標設定によって問題は確定する

 例えば年収1千万円稼ぐ、という目標を設定したとき、年収が1000万円に見たないことが問題と見なされる。社会問題と言うものは多くの人々の関心を引くが、社会問題と言うものは自然に存在するものではない。人が数値を決めて初めて問題となる。
例えばNEET、定義は34歳以下の就業してない、職業訓練も通学もしていない人を指す。これは年齢を儲けることで34歳以下が労働力として重要であり全ての状態に属さないのは社会的に問題である、と定義から問題設定される。問題設定がアバウトすぎるとアバウトなビジョンにしかつながらない。

  • 目標設定はなるべく期間設定と数値を決める

そして特にへたくそなのは時期を考えた目標設定だ。短期的にはこう、中期的にはこう、長期的にはこうなっていてほしい、は基本だ。長期的に勝ち続けたり問題を根絶したい場合は中期的な目標として回り道を設定することだってある。
短期的には1年で純利益来年までに何%UP、中期的には設備投資の達成度を作り、長期的には何年で雇用何百人を目指す、など数値が具体的であるほど失敗したときの対策なども立てやすい。
数値と言うものは我々が考えるより一回り加速が遅い。そうして数値は直線上に、停滞と成長の波を繰り返し、指数関数状にあがって行く。

理念・ミッションなんてくそくらえ、ビジネスは説得力ゲームだ

ビジョン、ストラテジと一緒に語られるのがミッションと団体理念であるが、ビジョンもストラテジもミッションも理念もすべてストラテジに吸収される。PDCAのDCAがすべてPに吸収されるように。多くの本はこの4つの要素が全てのように語るがそんなことはない。より説得力の高いものができるのであればどんどん修正すればいい。
ビジョンやストラテジなんてモノは自分も含めた他人に伝えるために作るのだ。得に理念、ミッションは自己暗示・説得のためのツールにすぎない。自分を騙せ、他人を騙せ、自分ごと他人を騙せ。戦略は説得力ゲームの側面を持つ、他人をどれだけ深く多く説得して巻き込むかが重要だ。
もう一つ大事なことを話しておこう。他人に語った言葉が嘘かどうかは基本的に結果がでてから決まる。どんなに誠実に言葉を吐こうとどんなに軽薄に言葉を吐こうと従った結果が出たものが正直者であり結果がついてこなかったものが嘘つきだ。真偽というのはあとだしじゃんけんできまる。
予言の自己成就に至るまで説得力の高いビジョンやストラテジを繰り返し練り上げ、唱えるのだ。ミッションや理念は説得力を上げるためのツールでしかない。

戦略的な視点を嫌いな人こそ勉強をしておくべき、知らないと騙される

ココまで読んで戦略とか計算高い感じがいやだ、なんか吐き気がして来た、という読者もいるかもしれないが、戦略でなく善意や規範を軸に動く人ほど搾取されてしまう可能性がある。
自分が搾取されるならともかく、自分の大切な人たちが搾取されないためにも戦略と言う考え方の基本は知っておいた方が良い。規範を重んじる人の方が一人勝ちの状態を許容しがちであるし、戦略を重んじる人の方がwin-winの関係をデザインするのが得意である。

ビジネス書は読むな、読むなら数百冊単位で読め

ビジネス書や自己啓発の意義は2つ。一つは戦略を学べること。一つは自分のリミッターの解除の仕方を学べることであった。過去形である。
今でも一部のセミナーでは戦略の練り方とリミッターの外し方を教えてくれる。自己暗示をかけてテンションをハイにして頭の回転を早めたり速読の仕方を教えてくれたり、ピンチのときに人一倍働ける方法を教えてくれたりする。
なぜか。見込みのある人であれば何か事業を興してビジネスパートナーとしてお互いに美味しい話を持ちかけあうことができる可能性が高いからである。
しかしビジネス書となると、そのセミナーの宣伝材料として使われこそすれ、核心的なことは小出しにして、ひたすら単純化された戦略や過去の成功事例ばかりが述べられ、あとは勇気の問題だ、と結ばれる。
ある本には儲け度外視で責めろと書いてあり、ある本には慎重にいけとかいてあり、ひどい本には1章には楽観的であれ!踏み出せ!と書いてあり2章には悲観的であれ!突っ走るな!と書いてあることすらある。
物語を美化するために小さな失敗事例を紹介して成功ストーリーとして組み立ててくる場合もある。実際は別の事業で屍がうようよ浮いていてもそれを隠しながら最後に勝ったから俺の戦略は正しい!と叫ぶ方が受けがいい。
何が本当かわからない以上情報戦だ。業界に顔が利く友人などがいれば「あれゴーストラーターらしいよ」とか「あれ部下がやったことを自分の手柄みたいに言ってるだけだよ」などの情報は入ってくるが、それがないのであれば戦略と戦略の語られ方のパターンを知ることが重要になる。
読むなら数冊で満足せず、数十冊、数百冊眼を通すこと。目次を読むだけでも良い。読む本は古くてもいい。内容を整理しろ。どんなことを言うと人に受けるか研究しろ。なぜその本がブックオフの本棚に並んでいたのかを考えろ。だんだん本の著者たちが、賢くて戦略がうまい人、バカだけど戦略がうまい人、上司や部下が戦略がうまくて乗っかった人、のどれなのかが見えるようになってくる。

社長や上司がいけ好かないのは当たり前

 話は変わるが評判や感情の変化を戦略の中に盛り込まなければならないときがある。感情は不確定要素が多く、慣れていないと扱いがくいうまく行かない。その中で怒りや悔しさは一番演出が簡単で計算しやすいのでよく使われる。一番最初に難しい課題を課す会社があるのもこのためだ。社会学ではイニシエーションと言う言葉を使う。あるコミュニティに所属するための通過儀礼のことだ。
あの厳しい訓練を経ることで会社を簡単に離脱しないように、という意識を植え付ける、長期的に一緒に仕事を行ってもらうための研修戦略としては一番コストパフォーマンスが高い。社長や上司が無理解でいけ好かないのは当たり前なのだ。
もっと観察してみれば、そこから何が見えてくるか。例えば「最近の若者は」という言葉にはたいてい無気力で、無責任で、無関心で、と続く。「最近の若者は」は戦略をミスった上司クラスの人間が言う言葉である。
もっと言おう、たいていの戦略として語られるストーリーなんてものはあと付けだ。ビジネス書や自己啓発書の内容に最も多いのがこれで、戦略的にこうしてみたらうまく行った、などと言っているものの大半はもっと別の理由で支持されていたりたまたまテレビで取り上げられて注目されたりしてうまくいったのを綺麗な言葉に包んでいたりする。
新しいwebサービスがうまく行ったのは戦略的PRと斬新なUIが受けたから、なんていいながら実際の普及の理由はアダルトコンテンツがあるから、とかそんなものだったりする。多少差し引いたり実際を想像する訓練も必要だろう。ここらへんは情報リテラシーと重なるところではある。

勉強法はシンプル

 シンプルでなければ知識がない人でも成功するなどと言うことはあり得ない。物語の中から戦略を読み取りどんな場面に応用できるかをひたすらシミュレートするだけだ。友人などと語り合っても良い。ではどんな物語から読んでいけば良いかを紹介する。

  • 歴史から学ぶ

 王道であり、起業家達の一部は歴史物国取りものの小説が好きだったりする。逆に言えば社会で学んだ歴史や世界史の教科書を戦略を学ぶ形で読み直してみると非常に面白いはずだ。戦略と言う言葉を使わなくても時の一国一城の主達が考えて来たことを語るのは先生達も好きだ。
 注意すべき点はたいてい歴史の場合成功の秘訣は緻密な計画であり失敗の原因は怠慢である、と説明されることがあるが、ちゃんと読み込んでみると意外と属人的な問題で失敗することは少ないしむしろ戦略の失敗(根回ししないとか新しい政策のメリットを理解してもらえなかった田沼意次のような人物とか)の方が多い。
 歴史は誰かが教訓を与えるために編成したものだという前提は知っておきたい。その教訓の中には生兵法はケガの元というものもある。歴史にでてきた戦略に当てはめて考えることができるか、説明することができるかが問われる。

  • ゲームから学ぶ

スポーツも含めたゲームはルールの中でいかに巧妙に勝つか、という戦略が試される場面が多い。友人の田村社長いわく「朝までポーカーなどを良くする。ブラフなんて人生でそう何度もかける機会なんてないが、ポーカーではその機会が3分ごとにやってくる」とご飯を食べながら語っていた。
ボードゲームテーブルゲームなども意外と運以外に戦略が試されるものは多い。将棋やオセロ、カタンなどオンラインでも出来るものも多く、人狼などは楽しみながら嘘をつく、何をすれば誰が得するかという論理的戦略を練る訓練にはもってこいだ。

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  • 成功から学ぶ

 もっとも正攻法である分、書籍などははずれも多く、皆が欲しいと思うものを皆が欲しいと思うようにPRして売った、みたいなことを自分の過去の経験を交えて書かれているが、先に書いたように後付けの戦略も多く教訓も薄いものが多い。
事前に評判を調べて読むと良いのだがたいていそう言う本はバカな信者が天井効果が出るほどの好評価をしていたりするので、一つの成功事例(例えばアップルについて)をいろんな著者の書いたものを読んで多角的に分析する方を勧める。

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  • 失敗から学ぶ

小さな失敗は語られても大きな失敗をしたものは発言権を失うのであまり語られない。いろんな人の失敗を記録した本は貴重だ。
僕の専門分野である教育もIT戦略もwebサービスも、失敗事例が共有されにくいばかりに同じようなサービスが乱立しては消えてゆく。
どの業界でも同じなのかもしれないが、失敗を分析して原因を一つ一つ潰すこと、それからなにか挑戦して失敗したときにどうするかという段取りもちゃんと学んでおくことが重要だ。経済産業省がこれらの失敗をデータベース化している。失敗学のサイトも面白いかもしれない
ベンチャー企業の経営危機データベース(METI/経済産業省)
http://www.costdown.co.jp/blog/2011/09/post_2101.html

  • 道徳から学ぶ

学校の授業で道徳の授業、学校や先生ごとにやることが違うため一概に言うことは難しいが、一般的な道徳の授業は愛だの友情だの正義だの思いやりだの非暴力だのを扱いながら、よく考えてみるとそれらの葛藤をどう解決するかと言う戦略教訓を学ぶことが求められる。
試しにいろんなジレンマを調べて自分だったらどんな戦略で解決するかを考えてみると考え応えのある問題が多々あるだろう。
ジレンマ - Wikipedia

  • 統計から学ぶ

 統計的な思考は勉強しておきたい。いまや食もリスクも感情も、いろんなモノが数値化されている。数値を見ることで現状を解像度高く知ることができ、何が問題とされているかを知ることができる。
 数値化されたとき、大事なのはクラスタと呼ばれる正規分布に収まらないデータ達である。普通のことは普通の人たちはみんな考えている。普通に収まらない要素達がビジネスチャンスも失敗のリスクも握っていたりする。
 精神論的にいうならば皆が右を向いてるときに左にも気を配れるかどうか、が大事と言うことである。それから平均や中央値や偏差値など、数字は平気で嘘をつくため、騙されないよう簡単な数字の扱い方を知っておくこと。統計は数値化する際に、何を数値化してどう測っているかというヒントを得られる。例えばなにかサービスを考えているのであればなにが満足度と相関するかなどを考えてみるのも良いだろう。
オススメはŽÐ‰ïŽÀîƒf[ƒ^}˜^ Honkawa Data Tribune
ビジョンにも戦略にも応用できるデータが沢山ある。他にもいろんな統計データは検索したらでてくるので知識教養としても見ておくと良いだろう。

肥大化戦略と縮小戦略

 成功失敗の話をしたので一言書いておくが日本は肥大化や成長の戦略は得意であったが、肥大化しすぎて停滞しているときに縮小する戦略は昔から苦手であった。サービスが売れすぎたIT企業なんかは、お金を持った後は企業買収くらいしかすることがない。
 本当に成功するかどうかは引き際の戦略デザインにかかっている。例えば社会問題を解決するといってお金を集めている学生団体やら社会起業NPOが、何を達成したら解散するかや方向転換するかなどを評価方法すらアバウトに活動している事例も多々ある。
 不幸を無くす団体は最終的に目標を達成したら解散すべきなのだ。必要とされないことが最高の結果なはずなのに、必要とされたい若者達がそういった団体に集まってくる。東日本大震災の復興支援団体がどこでプロジェクトをやめて方向転換するか、質や実現可能制の高低はあれど僕が応援している団体はみなちゃんと戦略を練っている。

研究は新たな戦略が生まれる源泉

 戦略を練るとき、不可能に見えるものを可能にするにはどうしたらよいかを考える場面が多々ある。そんなとき大学や研究所での最先端の研究の仮説や成果は、可能性もマーケットも広げてくれるものだ。
iphoneだのipadだのは別に信者ではないが、不要な効果をどんどん外して最先端の技術を突っ込んだらあり得ないほどの経済効果を生み出した。世間はこれをイノベーションと呼びイノベーション研究なる戦略研究分野も至る所で立ち上がっている。
僕の尊敬する秋葉原UDXなどをプロデュースした妹尾先生なんかは長年この分野に携わり様々な実践をされている。
Simple x Japan 妹尾堅一郎氏インタビュー 前編 | Simple x Creative
NPO法人産学連携推進機構 – The Industry-Academia Collaboration Initiative Nonprofit Organization
スキマ産業はハイエナのようにいろんな戦略家が狙っている以上、一定の素養がないと扱えない最先端研究をどう活かすかを狙うのも戦略としては重要だろう。

知識と戦略を両立するのではない、往復するのだ

 知識が豊富で賢いから戦略が立てられる、という訳ではない、前エントリでも言ったが、日本には賢くても戦略が下手な人たちが多すぎるし、一方で無知であることも戦略に取り込まれてしまう、訓練すればロジカルな考え方が出来ないことですら戦略として取り込むことも可能だ。
知識と戦略のうまさは別レイヤーだ。知識でも身体的ノウハウでもない、知的ノウハウが戦略であり、一つのカテゴリでありレイヤーでありジャンルでなのだ。戦略を立てるときに知識を訪ね、知識を得るために戦略を立てる。戦略がないと何を学んでよいかわからず不安になる。
知らないことは知らないと言える戦略も時には選択する必要がある。何が一番説得力に結びつくか、戦略という視点からもう一度知識を見直してみることだ。

webサービス「synapse.am」が費用対効果から見てもオススメ

 ココまで語っておいてなんだが僕自身別に起業家でもなんでもないし説得力は弱い。しかし僕個人は多くの人が寛容になれる社会を作りたいと思っているし、マイノリティ出身の人が世の中に身を立て名を挙げるお手伝いをするのが僕のミッションだと思っている。だからこういった情報や情報の欺瞞を伝えることについては立場上言葉は選ぶが出し惜しみはしない。
 一番良いのは情報を提供しあえる間柄を作ることだろう。僕は学生時代から良くしてもらっている社長の友人が何人かいたり、空気を読まずにいろんな業界に顔を出しているのでこの手の情報を不定期で手に入れることができるが、実際にそういう人と出会えるかは運もあるためだれしもがそうもいかない。
そこでネット上でオンラインサロンでセミナー講義を受けたり相談ができるsynapse.amをお勧めしたい。先ほどもでた友人の田村社長が会社を思い切り方向転換して出来上がったサービスだ。facebookアカウントさえあれば月1000円程度でオンラインで最先端を走っている人たちの戦略を聞けるうえ、質疑応答も出来る。
一回5000円や10000円もするくせに講演者が延々と語り続けるようなセミナーにでるより全然費用対効果が高い上、facebookなので発言者の素性を簡単に知れて同志を見つけることも可能だ。師匠も兄弟子も同時に得ることができオンラインで切磋琢磨しあえる。
活用するも良し別の社交界にでてそう言う人脈を得るも良し、なにかプロジェクトをする訳でなくとも戦略と言う切り口で世の中を翻訳し直してみることも新たな発見につながるだろう。僕のこの記事も、どういう戦略で書かれたものか、ぜひ分析してみてほしい。
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 コストパフォーマンスで言えば最近は戦略を学ぶことができる漫画も充実して来ている。以下に紹介する本は今回この記事を書こうと思うきっかけになった漫画である。漫画から入ると非常に分かりやすい反面容易く信じてしまうことがあるので注意した方がいい。他にも取っ付きやすい書籍は山ほどあるのでぜひ開拓してみてほしい。

U理論――過去や偏見にとらわれず、本当に必要な「変化」を生み出す技術
C オットー シャーマー C Otto Scharmer
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小飼弾の 「仕組み」進化論グーグル革命の衝撃 (新潮文庫)アップル、アマゾン、グーグルの競争戦略MAKERS―21世紀の産業革命が始まるMITメディアラボ 魔法のイノベーション・パワーなぜ、あの会社は儲かるのか? ビジネスモデル編

頭の悪い人の逆転の方法

 最近テレビを見る機会が増えたため、メディア露出の作法や、楽屋落ちの作り方を観察している。テレビで爆発的に売れるためには「<キャラ>の作り方」が重要で、その「<キャラ>の作り方」は集団の中での役割やポジションを得るために振る舞うものである。ひとたびキャラが認知されたら、ギャップを見せる番組が作りやすい。お嬢様系の女優やモデルにヒッチハイクや田舎をノンアポ訪問させて泊めてもらう番組を作ったり、下品な芸人に雄大な景色が見える旅行に旅立たせ山でも登らせて景色を見ながら過去を振り返らせれば良いのである。
 テレビで多く露出したい場合の例を挙げたが、思うに、人がコミュニケーションの中で立身出世を目指す場合、そこにあるのは<頭の良さ>と<戦略のうまさ>という能力で、それらは両方持っている人は実は少ないのではないかと思う。日本には話を聞いてみれば能力の高い<一般人>がゴロゴロいて、でも彼らが月並みの給料で、特に出世もせず、よくてメディアにたまにでる程度で、独立もせず人に雇われて終わって行くのはひとえに<頭の良さ>があっても<戦略のうまさ>なるものがないからではないかと思うのだ。
 例えば芸能の世界では一昔前からおバカキャラがブームになった。当時の社会の反ゆとり的風潮(教養主義への傾倒)から、視聴者に"テレビを見ていても勉強できる"という言い訳を用意した教養番組に、おバカキャラは必要なポジションだった。そこに自頭がどうあれ必要とされる役割のキャラを作り演じることができればメディアにも視聴者にも喜ばれる。もう一つ、頭の悪い人は無害に見える、という側面もあるのだがそこは本エントリでは割愛しよう。
 おバカモデルの鈴木奈々なんかは最近ブレイクしているが、その辺りの戦略がうまいのである。番組を見ていればわかるが、どう考えても頭のいい人たちには台本に書けないような発言をするのであるが、それは多分彼女は本当にバカで、かつそれを表現できる瞬発力があるのだ。そして大事なのは、その発言の大はずれ具合に恥じないこと。自分が天然で頭が悪いのはわかっているし、それが求められているのも理解して、あえて自分の瞬発力にまかせて発言をする。普通のサラリーマンや出世しない人は間違えない答えを考える。しかしおバカキャラは間違っても美味しい、当たれば運がよいだけなので思い切り喜べばいい。そこでは何を問われるかは問題ではない、問題は答えがある問題の場合成功したらどう振るまい、失敗したらどう振るまうか、そしてプライベートを問われたらとぼけて仲間のおもしろエピソードを話す、そうした<戦略のうまさ>がNHKにまで引っ張られて活躍する理由と考えられる。オネエキャラも無害で且つ戦略的であるがどう戦略的であるかは読者で観察してほしい。
 すなわち例えば就活の面接でも、プレゼンでも、想定された問題に対して聞いた人が望む回答を一発で用意することは難しい、大事なのは相手の意にそぐわないような失敗をしたときにどうフォローするか、成功したときにどう謙虚かつ実力があるように振る舞うか、という部分である。バカでも勉強できなくても戦略がうまければ成功する、なぜか出世するバカ上司や起業家のバカ社長の多くが戦争ものや歴史物の本が好きなのは戦略に使える考え方やメタファをそこに学ぼうとするからである。決して事実を知ろうとしているのではない。
 頭の良さは学歴やテストすなわち教育経済学でいうシグナリングで知ることができるが、戦略のうまさは学校では教えてくれないし与えてくれる場合は少ない。そのため面接で簡単に見抜くことは出来ないし就職の面接なんかでは会社と学生の化かしあいになる戦略勝負だ。戦略は上記のような段取りのうまさだけではないく、人とどれだけ信頼関係を気づいて能力を読み取りながら想定通りに動いてくれるかを考えたり、本人が動けるように環境や組織を同システム化してやれるかなどが大事になってくる。すなわち人的資本論につながってゆく。
 頭の発達は諸説あるが20歳くらいで減速するが、人は訓練すれば戦略を素早く確実性が高い状態で形にすることができる。コミュニケーションがうまい人は相手がどんな話が喜ぶかを必ず話しながら観察して探してるし、話が受けなかったとき用のフォローの方法を必ず用意している。得意分野でなければ話を振るだろうし、博学に見せることもアホに振る舞って気に入ってもらうこともわざと胡散臭くブランディングすることも戦略として用意している。一度自分の頭の悪さを受け入れて戦略を練ってみることものちのち良い戦略につながるだろう。

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教育格差は問題じゃない、貧困が問題だ-書評-学力を育てる

 似たようなタイトルの本があるし学力本とのことでまたかよ感のある内容ではあったが、初学者向けとしては非常にいい本なので紹介と批判メモを。僕が今考えていることのまとめでもある。学力学力って言うけど樹のメタファ使ってみたらドヤァ〜的なものはあるものの、歴史を追って学習指導要領の学力詰め込み重視と体験重視が入れ替わる右往左往批判から入るあたり非常に堅実。

学力を育てる (岩波新書 新赤版 (978))
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以下要点だけ紹介

学力は低下している

 この見出し、ずるいと思うのだが、正確に言うと貧困地区での低学力層の試験学力が、東大関西調査という89年の調査と2001年の調査で比較して、低下していると言う話。分布を調べてみると、普通は平均点近くに集まり外に行くほど人数が少なくなる山なりの正規分布を示すが、この調査では2こぶとか3こぶの分布を示し、つまり、試験が解ける層と解けない層が2極化していることがわかったと言う。教育格差問題の誕生である。

効果のある学校の発見と力のある学校

 調査の中でも過酷な学習環境の子どもが集まる地区の学校で、一定の成果を上げている学校があると言う。それが「効果のある学校(effective school)」であるという。もともとアメリカのスラムや貧困地区で学習成績の良い学校をそう言い出したのが始まりであるが、その言い方は日本になじまないから「力のある学校(empowerment school)」と呼ぼうと著者は進言する。授業研究と言う日本独自の教育文化や同僚性の問題なのだろうが、なにが違うのかよくわからなかった。
 基本的に低学力層が点数悪いのは家庭環境が悪い、ものすごい相関があるってデータいくつもでてるよと。でもどうしようもないから家族だけが子どもの教育を面倒見る、学校の時間は先生だけが子どもの面倒を見る、と言うのをやめよう、という提言がコミュニティスクールの紹介を通してなされる。
 コミュニティスクールは学校に「学校運営協議会」が設置され、学校職員だけでなく保護者や地域が関われるようになった学校で、学校にコミュニティの中心となる場として機能を持たせたものだ。H24年度現在で1183校、これら全てが成果を出している訳ではないが、今保護者さえ味方に付ければ教育委員会にもの申せたり学校に先生や職員を1人多めに配属できたりと権限が大きくなるため注目されている。

 本書では東京みたいなプロダクトアウトで教育プログラムやカリキュラムつくって学校選択制より、マーケットインで、校区にあわせた教育プログラムやカリキュラムつくってやってる大阪の方がいいよねという話と、地域が面倒見れば家庭環境の逆境なんて吹き飛ばせるだろ、的な言いたいことはよくわかるけど、な論が展開される。

教育格差の誤解

 ココからは僕の考え。タイトルの通り、教育格差自体は試験を受けさせれば必ず発生する分布のことなので問題ではない、格差が問題というのは出来る子とできない子の点数が開いていることが問題ということなのだ。しかしこの点がおかしいのではないかと一部の学者たちは批判する。出来る子が教育環境に恵まれてさらに学習が進むことは別に良いことではないのか?問題は出来ない子普通の子が最低限の教育環境にすら恵まれずさらに学力が低下して行くタイプの学力格差の拡大である。
 学校はその学習環境としての最後の砦であったが、体罰の禁止、学級崩壊以降学校はその機能を発揮できない。多くの親の学歴が教師の最終学歴を越え、専門性を疑われ、不況の原因を学校に求められ、アカウンタビリティを求める声とともに学校教員の多忙化が加速している。学校が荒れたのは学校をさんざん馬鹿にしてきた大人達とメディアの責任であることは多く指摘されている。そして学校の先生達がこれに共謀関係であったことも否定できない。だから学校をコミュニティ化しよう、という敗北宣言はいかなものかと個人的に思っている。コミュニティ化は過渡期であって、解決策ではない。保護者は(環境保全主含めた)経済活動に、学校は教育活動に注力できる分業が元通りきちんとなされていることの方が健康なはずだ。

その他メモ

・意欲関心態度は根っこの部分で表に出ないとする学力の樹のメタファは客観的測定のしやすさの基準を示したものか。著者のいう学力は「経験の総体」であり蓄積型。<学力>を物語として捉えている。
・意欲・関心・態度は学力の微分積分であるという考え方が一般的ではないか。以前と比べ点数が高くなると意欲があると見なされるし、高い点を取り続けると学習に対する関心があり学習態度が良好とされる。
・興味や意欲・関心・態度を喚起する教育に偏りすぎると出来る子とできない子の格差が開く可能性がある。授業でやる気がでても家に帰ると勉強できる環境がなかったり、親が面倒を見てくれないことも。「『体験』を中心とした学習をやれば、家庭環境の違いによらずどの子供の興味・関心、学習意欲を高めることができると言った『子供中心主義』 教育の神話が、かえって、曖昧で『目に見えない』教授法を広めることで階層差を広げていく」(苅谷剛彦
・メタファの秀逸さより学力が就職や進学や生産など、何と接続するかが大事。低学力層を資本主義の仕組みに乗っからせる以上資本主義と指導要領と学力がどうマッチするかを評価する必要がある。学力の中からは学力は語れない。
・教育の2重性。教育には国や地域のための教育と、個人がどう成長するかという教育サービス(=学習)がある。個人がどう成長するかという物語ばかりみんな興味を持つ。出来る子がそこそこ偏差値の高い大学に進学したからって何も面白くない。
・階層や再生産の問題は、欧米であった支配被支配構造やフィリピンのような階層固定による搾取問題こそが問題であり、社会移動出来なくともそれなりに自由な生活を送れる環境であれば良いのではないか。
・日本の場合は社会福祉が雇用福祉に盛り込まれすぎていることや、不況で収入が減ると一気に生活のグレードがダウンすることが大きい。その制度を変えられないから教育、と言う構図になりがち。
・階層移動により文化資本が違う層とうまくコミュニケーションがとれないと悲劇が起きる例も。大人が担保すべきは進学のような一人一人の成功物語ではなく社会流動性と、階層が下がっても悲劇が起きない福祉。(「英国立身出世と教育小池滋
・日本の教育費の私的負担は3割強、対GDP比1.7%、公的負担は3.3%。教材教具通塾費用など単親家族などはやはり不利になる。本書の最後の方に紹介されているフィンランドは私的負担が対GDP比0.1%、公的負担は5.7%。}˜^¤ŠwZ‹³ˆç”ï‚Ì‘ÎGDP”äi‘Û”äŠrjより